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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社)

 国産マッチの創始者 清水誠の頌碑
 (燐寸塚・マッチ塚)
 人類は、原始以来火を自由に使うことによって、今日の文明を築いてきた。日本の近代文明もまた、西欧からマッチの製法を輸入し、これを改良工夫した先人の努力によって、飛躍的に発展したのである。その創始の時が今から丁度百年前であり、その創始者が清水誠氏である。清水氏は弘化2年(1845)金沢に生まれ、明治3年(1870)藩命を受けて
フランスに留学し、パリ工芸大学に学んだ。専攻は造船学であったが、明治7年(1874)たまたま在仏中の宮内次官吉井友実氏の勧めによって、マッチの製造を決意して、帰朝した。翌明治8年(1875)4月には、本務の造船技師のかたわら、東京三田の仮工場で、早くもマッチの製造に着手した。明治9年(1876)9月本所柳原町に工場を新設して新燧社を興し、同12月には、官職をやめて、その経営に没頭した。翌明治10年(1877)9月には、初めて国産マッチを上海に輸出し、好評を博した。明治11年(1878)7月再びフランスに渡り、ドイツ、スウェーデンのマッチ事業を視察して帰り、以来ますますその改良に苦心し増産につとめた。その後打ち続く不況に見舞われ、遂に明治21年に(1888)には業界から隠退して郷里金沢に帰った。しかし、その後もなおマッチ製造機の改良に情熱を燃やし、明治29年(1896)
新鋭機の特許をとり翌明治30年(1897)大阪に出て、その製造に従事した。明治32年(1899)2月8日病をえて没した。時に年54才である。大正4年(1915)政府はその功績を賞して従五位を追贈した。なお歿後間もなく当亀戸天神社の境内に追慕顕彰の碑が建てられたが今次の戦災によって破損したままになっていた。今年あたかも国産マッチ創始百年に当り、業界の有志によって新しく再建されることになった。ここにその由来を誌し先人の功をたたえ、一文を草して頌辞とする。
 昭和50年(1975)5月12日  文学博士 内野吾郎拱











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