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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区清澄1-2

  コンクリートブロック(明治27年製造)
 明治22年~明治29年(1889~1896)に行われた横浜港築港工事で、その防波堤基礎用として明治27年(1894)に製造して海中に沈設され、昭和6年(1931)同港改築に際し引上げられたコンクリートブロックである。
 このコンクリートはアサノ普通ポルトランドセメントをしようしたもので、配合はセメント:砂:(砂利と小割栗石)が1:2.8:5.2(容積比)水セメント比は40%程度と推定される。37年間海中にあっても損傷は認められず、優れたコンクリートであったことを証明している。



THE BASE CONCRETE BLOCK OF THE BREAKWATER OUTSIDE OF YOKOHAMA HARBOUR,PLACED ON THE SEA-BOTTOM IN 1894 AND RECOVERED IN 1931.


所在地 江東区清澄1-2

  セメント工業発祥の地碑
 当地は日本で初めてのセメント工場があった場所です。明治8年(1875)、工部省が本格的なセメントの製造に成功しました。上図手前の隅田川、右側の仙台堀などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産のセメントを作り上げました。明治16年(1883)、当社創業者のひとりである浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場として発展を遂げました。
 平成16年(2004)5月 太平洋セメント株式会社


                          明治23年当時のセメント工場全景




所在地 江東区清澄1-2

  浅野総一郎像(淺野總一郎翁像)
此地ハ元仙台藩ノ蔵屋敷跡ニシテ明治5年(1872)大蔵省土木寮ニ於テ始メテセメント製造所ヲ建設セリ 同7年(1874)工部省ノ所管トナリ深川製作寮出張所ト改メラレ技師宇都宮三郎氏ニ依リ湿式焼成法ヲ採用シ初メテ外国品ニ劣ラザル製品ヲ得タリ  明治10年(1877)1月深川工作分局ト改称サレ工場ノ拡張相次テ行ハレ同16年(1883)4月逐ニ初代浅野惣一郎ノ経営ニ移リ浅野工場ト称スルニ至ル 明治31年(1898)2月浅野セメント合資会社創立ト共ニ本社工場トナリ同36年(1903)11月本邦最初ノ回転窯ヲ設置シ事業愈盛大トナレリ 大正元年(1912)10月組織ヲ改メ株式会社トナリ東京工場ト改称シ今日ニ改フ蓋シ此地ハ本邦セメント工業創生ノ地ニシテ同時ニ又当社発祥ノ地タリ仍而茲ニ其然ル所以ヲ録シ之ヲ記念ス
 昭和12年(1937)7月8日
 浅野セメント株式会社 社長 浅野総一郎

 


所在地 江東区東陽3-8 (沢海橋第二児童遊園)

  関東大震災殉難者供養碑

十三回忌 昭和拾年九月一日
 賛助員芳名
堀大太郎 池徳 辰巳屋 伊勢森 森由 太平安 宇田川喜太郎 濱壽司 佐藤豆腐店 花福 伊藤吉助 小宮大作 中村定吉 服部■ 梶谷文吉 栗山登一郎 原田忠七 宮本三之助 土屋辰次郎 川島源十郎 
 高野山金剛講員建之
中村定吉 小宮ハマ 天■由蔵 石原はる 相葉ナカ 沖田みき 小川利喜松 須藤亘啓 宮本うめ 大平のぶ 五月女る■ 石川は■ 渡邊弥七 米津はる


所在地 江東区東陽4-4

  深川親子地蔵堂
 この親子地蔵尊は第二次大戦も終りに近い昭和20年(1945)3月10日の下町地区の大空襲の砌この地域に於いて殉難死された方々の霊の供養回向の為昭和23年(1948)3月10日の3年忌法要を記念し遺族及有志の発願によって建立したものです。
 昭和53年(1978)3月10日 親子地蔵保存会



 


所在地 江東区南砂2-3

  長州藩大砲鋳造場跡
 パリのアンヴァリッド(廃兵院)に、長州藩主毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。この大砲には、次のように刻まれています。

 十八封度砲 
   嘉永七歳次甲寅季春
   於江都葛飾墅

「江戸切絵図」を見ると、現在の南砂2-3付近に長州藩主松平大膳大夫の屋敷があったことがわかります。「葛飾別墅」とは、この屋敷をさしています。
 長州藩では、嘉永6年(1853)12月、三浦半島の砲台に備えつける大砲を鋳造するため、鋳砲家を江戸へ呼び寄せました。翌嘉永7年(安政元年(1854))正月、幕府の許可を得て、佐久間象山の指導のもと、砂村の屋敷内で大砲の鋳造を始めました。
 当時、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は、この大砲を三浦半島から下関に移し砲撃により関門海峡を封鎖しました。これに対し、元治元年(1864)イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊が下関の砲台を攻撃、陥落させました。パリの青銅砲はこの時、フランス軍により海を渡ったものです。
 平成5年(1993)3月 江東区教育委員会


      近江屋板『江戸切繒圖集成』より


所在地 江東区白河1-5

  干鰮場跡
 干鰮場はいわしを乾燥したもので江戸時代から重要な肥料であった 寛永のころ関西地方の漁民が銚子付近の海岸で干鰮をつくり、江戸へ輸送するようになった 江戸の干鰮取引きははじめ中央区方面であったが元禄13年から小名木川にそった白河小学校付近に干鰮の荷揚場がおかれこれを干鰮場といった またここを銚子場ともいった 干鰮場はこのほか永代に永代場、深川2丁目に江川場があった
 昭和43年(1968)10月1日 江東区第26号


所在地 江東区平野1-7・8付近

 滝沢馬琴たきざわばきん誕生の地

 江戸時代後期の小説家。明治4年(1767)6月9日、旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、嘉永元年(1848)11月6日、82歳で病没しました。名は興那、曲亭馬琴・著作堂主人などと号しました。



 安永4年(1775)、9歳で父親と死別し、その後は、松平家の孫の遊び相手として一家を支えていましたが、安永9年(1780)、14歳の時に松平家を出ました。門前仲町に住み、文筆で身を立てようと、寛政2年(1790)山東京伝のもとに入門しました。翌寛政3年(1791)正月に処女作として、京伝門人大栄山人の名で黄表紙「尽用而二分狂言」を発表しました。以後、儒教思想にもとづく教訓、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著し、読本作家の第一人者と称されました。
 天保5年(1834)ころより眼を患い、晩年は失明しながらも、口述・代筆で著作を続けました。
 読本・黄表紙から随筆にいたるまで、約470種にものぼる著作を残しています。
 平成9年(1997)3月 江東区教育委員会



 滝沢馬琴(曲亭馬琴)の代表作「南総里見八犬伝」は、日本古典文学最大の長編小説です。
 この物語は、全九輯から成り、文化11年(1814)から天保12年(1841)まで、28年かけて書かれました。
 このモニュメントは、当時刊行された106冊の「里見八犬伝」を、モデルにしたものです。


『戯作六歌撰』東京大学総合図書館蔵


所在地 江東区平野1-13-6

日蓮宗 円珠院

 深川七福神 大黒天



 円珠院は日蓮宗で、もとは浄心寺の塔頭のひとつでした。創建の年は不明ですが、開山は義勝院日演(寛保元年〔1741〕没)です。
 開基の円珠院は、氷見重直の娘で、のち永井讃岐守直允の後室となりました。生年は不明ですが享保15年(1730)12月20日に没し、自ら開いた円珠院に葬られました。
 深川七福神のひとつ(大黒天)として親しまれています。

 


所在地 江東区木場5~木場6

 新田橋にったばしは、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
 大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年(1932)、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
 当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。
 平成12年(2000)の護岸整備により現在の橋に架替えられましたが、架かっていた橋は、八幡堀遊歩道に大切に保存されています。


所在地 江東区富岡1-20-3 (富岡八幡宮)
 
  森羅亭万象歌碑

ふしの嶺世におおへとももろひとに
 笠きてくらすすがたみせたり
          森羅亭万象


所在地 江東区富岡1-20-3 (富岡八幡宮)
 
  大橋清太郎句碑

辰巳なる鎮めの神の破魔矢かな 杣男


所在地 江東区富岡1-20-3 (富岡八幡宮)

  木場の角乗りの碑
木場の角乗りは300余年の昔徳川幕府から材木渡世の免許を与えられた業者の木材を扱う川並の祖先の余技として進展し若者の技術練磨の目的を以て今日に傳わるものである
其の間明治初年(1868)三島警視総監時代水防出初式に始めて浜町河岸で披露又グランド将軍が来朝の際上野不忍の池にて催し後須賀に於て軍艦進水式の折り、明治天皇の天覧の栄を賜る 其の後濱離宮や両国橋開通式の祝事に披露されて来た
第二次世界大戦により中断したが戦後有志相倚り東京木場角乗保存会を設立し昭和27年(1952)9月東京営林署貯木場に於て披露し同年11月3日東京都文化保存條令に基き都技芸木場の角乗りとして無形文化財に指定された
 昭和39年(1964)10月3日 東京木場角乗保存会建立
                      石井玉泉書
                      理学博士 本田正次書


   記念碑建設者
会長   飯高勝
      諸星信二
      加藤忠次郎
      中村傳  
      小安四郎 
      小川八十吉
      川藤勝太郎
相談役   花村源之助
相談役   時友豊吉
相談役   大塚為之助
      伊藤新太郎
      鈴木喜一郎
      細田昇一
      谷川栄吉
      青山米太郎
      平田政子
      中村亀市
      石川金蔵
      宇田川栄一
      後藤仲太郎
      村田慶太郎
      井川國蔵
      池田市男
      棟田キン
      和田栄吉
      笈川徳三郎
      高山義房
      伊藤弁吉
      榎本一夫
      林栄次郎
      宮井登
      坂口佐内
      後藤常之
      白井儀三郎
      飯高酒造蔵
 昭和39年(1964)10月3日 建之


所在地 江東区木場6-13-13

  洲崎神社
 当洲崎神社は元弁天社と称し巌島神社の御分霊祭神市杵島比売命を斉祀しております。創立は徳川5代将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄13年(1700)、江戸城中、紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。当時は海岸にして絶景、殊に弥生の潮時には城下の貴賎袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮べて、妓婦の絃歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引くという絶佳な所であったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。
 明治5年(1872)御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚かった。大正の震災、昭和の戦災に社殿は焼失されたが弘法大師作の御神体は幸にして難を免れ、当時は仮社殿に奉斉して居りましたが昭和43年(1968)現在の社殿を造営し斉祀して現在に至っております。











 洲崎神社境内には『波除碑』、『名人竿忠之碑』、『川連虎一郎碑』があります。


所在地 江東区木場6-13-13 (洲崎神社)

東京都指定有形文化財(歴史資料)
 波除碑なみよけひ 洲崎神社碑
     昭和51年(1976)6月4日指定



 寛政3年(1791)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。
 幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西285間、南北30余間、総坪数5,467余坪(約18,000平方メートル)を買い上げて空地としこれより海側に人が住むことを禁じた。そして空地の東北地点(洲崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てた。当時の碑は地上六尺、角一尺であったという。
 石碑は砂岩で脆く、震災と戦災によって破損が著しい。現在地は原位置から若干移動しているものと思われる。
 建設は寛政6年(1794)頃で碑文は屋代弘賢によるものと言われている。
 平成4年(1992)3月31日建設 東京都教育委員会

 


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