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東京都江東区の歴史
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所在地 東京都江東区佐賀1-6-2 

 赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは其角の門下として徘界の友でありました。

 元禄15年(1702年)12月14日、本所松坂町(現 墨田区両国3丁目)の吉良邸討入本懐を遂げた後、大石内蔵助率いる義士達が一ツ目通りを引き上げの途中、永代橋へ差し掛るや、あたかも當所乳熊屋味噌店の上棟の日に當り作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を労ったのであります。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。

 昭和28年(1953年)2月 ちくま味噌16代 竹口作兵衛識

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所在地 江東区佐賀1丁目~福住1丁目 

     (大島川西支川 )

橋長   23m

全幅員   12.699m

架設形式   1径間鋼製トラス橋

 架設年次   昭和4年(1929年)4月



所在地 東京都江東区佐賀2-1

 上之橋(かみのはし)は、江戸時代から仙台堀の佐賀町河岸通りに架る橋として、大きな役割を果たしてきた。中之橋、下之橋とともに、佐賀町を上佐賀、中佐賀、下佐賀に分ける橋であった。
 本橋は、昭和5年(1930)震災復興事業により架設され、昭和59年(1984)、清澄排水機場建設に伴い撤去された。ここに橋名を刻んだ親柱4本を保存し、橋の歴史を永くとどめるものとする。

  昭和61年(1986)11月 江東区



所在地 江東区佐賀1-16付近

北辰一刀流伊東道場の主。新撰組に入隊して上洛した。上洛した年(甲子)にちなんで伊東甲子太郎と改名。伊東甲子太郎と新選組は攘夷論(外国を退ける考え)で一致していたが、新選組は佐幕派(幕府を補佐)、で、伊東甲子太郎は勤王派(倒幕)であるという違いがあり、後に新撰組を脱退する。


所在地 江東区佐賀2-4-8

 佐賀稲荷神社
 
 
 江戸時代初期の深川は小島の点在する遠浅の海であったが寛永6年(1629)永代島付近の埋立許可を得て次郎兵衛藤左衛門他6人の者に依って猟師町八ヶ町が出来上り上之橋の方を次郎兵衛町中之橋より南を藤左衛門町とした
元禄8年(1659)検地の際次郎兵衛町藤左衛門町を合併し佐賀町と改めた 町名は地形が肥前之国(佐賀長崎)佐賀湊に似ていたことに因むと云われる
干潟を埋め町造りの基礎を固め漁村から海上運送の起点として繁栄をたどる 通りの両側は各地の産物を集めた各種の問屋の暖簾がはためき川筋には倉庫が建並び舫った大小の船の間を忙しくたち働く人々の声が終日行き交った
先人相諮り佐賀町に住む人々の除厄招福を願い永世鎮護の祠を穿ち佐賀稲荷神社の額を掲げた時に寛永7年(1630)祭神は生成発展を司る稲の霊である所の宇迦之魂命である
明治以降は正米市場がたち米問屋が集い当社は商売繁盛の稲荷として栄えた 倉庫業に携わる人々の余技として生まれ伝承された深川の力持はまさに佐賀町の特性を活した伝統技能である 
境内には力持技芸者の奉納した力石明治初期に米問屋でできた米仲間が寄進した鉄製の天水桶が現存している
代々尊栄奉仕の心怠りなく平成8年(1996)の春を迎える 茲に社殿修復境内を整備し碑を建てる 後人永くこの町佐賀町を愛し佐賀町に住む誘いを失わざることを切に願うのみである
 平成8年(1996)5月吉日
 佐賀稲荷神社世話人代表 町会長 桑畑喬彦
平成7年(1995)11月7日修復報告祭
平成8年(1996)2月15日復興報告祭 

                                                


 佐賀稲荷神社には『力石』があります。

 


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