東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区扇橋3-7 横十間川は、江戸城から眺めると、横に流れ、江戸時代当時、川幅が約10間(約18m)あったことからこの名がつきました。横十間川が流れる区内中央部は、地盤が区内の平均的な高さにあることから、水面を多く残した親水性の高い公園として造成し、「区民の水辺」と名付けました。 園内には、気軽に水と親しめる水上アスレチックやボート場などのほか、野鳥の島、生物の楽園、水車小屋、そして花ショウブ等が、四季折々に訪れる人々を楽しませてくれます。 江東区 PR 所在地 江東区扇橋1-20 民営機械製粉業発祥の地碑 明治12年(1879)、明治を代表する実業家雨宮敬司次郎は、水運の便のよい小名木川に着目して、この地にそれまでの水車動力に代わる蒸気機関を動力源とした、民営では最初の近代機械製粉所「泰靖社」を創設しました。 欧米を視察して製粉事業の将来性を確信した雨宮は、蒸気機関のほか石臼製粉器、節器などの製粉装置を米国から輸入して製粉事業の経営に成功をおさめました。 雨宮の製粉事業は東京製粉合資会社に受け継がれ、明治29年(1796)に日本製粉株式会社に改組されました。また、小名木川沿岸には明治30年代に製粉会社が次々と設立され、全国でも屈指の小麦粉生産高を誇るようになりました。こうして泰靖社は、小名木川沿岸にさまざまな近代的工場が進出してくるさきがけともなったのです。 なお、明治初期の機械製粉所には、開拓使により札幌に設立された磨粉機械所(明治9年〔1876〕)、大蔵省による浅草蔵前の製粉所(明治12年〔1879〕)の2つがありましたが、これらの官営製粉所はともに日本製粉株式会社がその事業を継承しました。 江東区 所在地 江東区扇橋1-21 扇橋閘門 江東区は、東側が地盤が低く西側が高い地形になっています。そこで昭和46年(1971)策定の江東内部河川整備計画では、東側を常に水位を一定に保つ水位低下区域としてまた西側の感潮部を耐震区域として整備をすることになりました。 この閘門は、両区域の接点に当たる小名木川の中間に位置し、水位差を調整して船舶の航行を可能にするための施設です。30億円の事業費と5年3ヵ月の歳月を費やして昭和52年(1977)に築造されたものです。この方式は、パナマ運河と同じです。 |
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永山
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