東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区牡丹1-12-9 (黒船稲荷神社) 四世鶴屋南北は、江戸戯作界の第一人者で、大南北と称されました。宝暦5年(1755)、日本橋新乗物町(中央区)に生まれ、文政12年(1829)11月27日、黒船稲荷地内の居宅で没しました。享年75歳でした。 幼名を源蔵といい、父親は紺屋の型付け職人でしたが、狂言作者を志し、家業をすてて初代桜田治助の門下に入りました。安永6年(1777)、桜田兵蔵の名で作者として初めて中村座に名がでました。天明2年(1782) に勝俵蔵と改め、文化元年(1804)、河原崎座の『天竺徳兵衛韓話』で大当たりをとり、作者としての地位を確立させました。以降、『心謎解色糸』『謎帯一寸徳兵衛』などの作品を次々と発表し、当代随一の名作者とうたわれ、文化8年(1811)、鶴屋南北を襲名しました。その後『お染久松色売販』『東海道四谷怪談』などの傑作を書き続けました。 文化14年(1817)頃には、亀戸村に住み、亀戸の師匠と呼ばれていました。また、代表作『東海道四谷怪談』の中に、砂村や深川三角屋敷(深川1~5)をとり入れるなど、本区とかかわりの深い戯作者です。 平成3年(1991)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区牡丹3-33 東京都指定有形文化財(歴史資料) 波除碑(なみよけのひ) 昭和17年(1942)9月指定 完成3年(1791)9月、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。 幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西28間、南北30余間、総坪数5467余坪(約1万8千平方メートル)を買い上げて空き地とした。そして空き地の両端の北地点に波除碑を2基建てた。当時の碑は地上6尺、角1尺であったという。 碑はほとんど旧状を失っており、特に平久橋碑は上部役3分の2を失っている。位置は旧地点を若干移動しているものと思われる。 建設は寛政6年(1794)頃。碑文は伝屋代弘賢、品質は伊豆五ヶ村石(砂岩)。 総高130.8センチメートル。 平成12年(2000)3月 東京都教育委員会 所在地 江東区牡丹3-12-2 住吉神社 天正18年(1590)に徳川家康が江戸へ入城した時に摂津の国、佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁民を江戸に呼び寄せ、海と川の漁猟の許可を与え、江戸城へ魚類の納入を命じた。 寛永年間には漁民に隅田川河口の鉄砲州東の干潟が与えられ、その地を故郷の地名をとって佃島と名づけ、白魚上納の特権を与えた。 その後、享保4年(1719)に富岡八幡宮の南方海浜に佃島漁民の網干場の土地が与えられ深川佃町と称した。今の牡丹2、3丁目にあたり、此処に、佃島住吉神社より分霊された小祠が祀られている。 深川佃町はその後、町家の地になり一層発展して深川岡場所(花柳街)のひとつとなり、地名を通称「つくだ」または「あひる」と呼ばれたのである。寛政4年(1792)頃の花街の妓楼は料理茶屋が15軒、水茶屋も10軒程あって大層繁栄した。 天保の改革により花街も一時は衰退したが、後に復興して明治維新まであったといわれている。 尚、境内の石鳥居、石燈篭は江東区の有形文化財、力石(さし石)は区の民俗文化財に指定されている。 住吉神社には『車折神社・芸能神社』、『力石』があります。 所在地 江東区牡丹3-12-2 (住吉神社) 車折神社(くるまざきじんじゃ)・芸能神社 祭神 清原頼業公(きよはらよりなりこう) 車折神社は京都嵯峨にあり、鎌倉時代初期に、朝廷より、車折大明神の号と、正一位を贈られたという由緒ある神社。 学問の上達並びに商売繁盛と売掛金回収にご利益があることで知られている。 神社の石を授かり、願いを込めて神棚に祀り、祈願成就の上は石を一個、先に授かった石に添えて神前に奉納するという風習がある。 合祀 芸能神社 祭神 天宇受売命(あまのうずめのみこと) 車折神社の境内神社であり、芸能の神様として、芸能の上達を祈る多くの人達の信仰をあつめている。 |
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