東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区大島1-2 (釜屋堀公園) 尊農之碑 先覚渋沢栄一益田孝等ノ諸氏 維新当初ニ於テ 我カ国運ノ躍進ハ必スヤ人口ノ激増ヲ来シ 食糧問題ハ實ニ邦家将来ノ緊要案件タルヘキヲ洞察シ農業ノ発達ト肥料ノ合理的施用トニ因リ之カ増収ヲ企図スヘキ堅キ決意ヲ為シ欧米ニ於ケル化学肥料ノ研鑽者タル高峰譲吉氏ノ協力ヲ得テ 明治二十年(1887)初メテ此ノ地ニ東京人造肥料会社ヲ設立シ過燐酸肥料ノ製造ヲ開始セリ是レ我国ニ於ケル化学肥料製造ノ嚆矢ナリ 本事業ハ官民ノ協力二因リテ漸次進展シ後更ニ空中窒素固定工業ノ勃興スルニ及ヒ農業生産ノ飛躍的増収ニ絶大ナル貢献ヲ為スニ至レリ今ヤ曠古ノ非常時局ニ際会セルモ能ク一億国民ノ食糧ヲ確保シ前線銃後些ノ憂ナキニ至リシハ蓋シ化学肥料ノ発達普及ニ負フモノ多シト謂フヘシ 同社ハ後ニ 大日本人造肥料株式会社ト改称シ此ノ地ハ釜屋堀工場 トナリシモ不幸大正十二年(1923)ノ関東大震災ニ壊滅シ爾来二十星霜ノ久シキ寂トシテ之ヲ顧ルモノナキヲ遺憾トシ茲ニ関係同志胥謀リ碑ヲ其ノ址ニ建テテ 由来ヲ刻シ永ク偉績ヲ顕彰スルト共ニ我国農業ノ興隆ヲ期シ以テ皇国ノ盛運ヲ奉頌ス 昭和18年(1943)11月 化学肥料創業記念碑建設会 所在地 江東区平野2-4-25 (浄心寺) 水屋 当山は明暦元年(1655)通遠院日義上人により創立され徳川将軍家の加護を受けました。宝暦3年(1657)以後身延山の江戸出開帳が数度となく実施されました。この水屋は明治5年(1872)23世日敬上人代に出開帳参拝者の清浄洗いの為建立され、大正12年(1923)9月1日の関東大震災及び昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲による大火災にも焼失をまぬかれ、今日にいたっております。 昭和50年(1975)11月吉祥 法苑山浄心寺 第33世 日壽代 先代石57回忌に当り 石五 長里守造建之 所在地 江東区毛利2-13・住吉2-28 猿江恩賜公園 北側地区 以前ここは貯木場として使われ、戦後は林野庁の所管となり、全国の山々から切り出された材木を浮かべていました。昭和51年(1976)、貯木場は江東区潮見へ移転し、約250年にわたった猿江貯木場の歴史を閉じました。その後、北側地区は公園として整備され昭和56年(1981)12月26日に開園しました。 ◎ミニ木蔵 かつての木場のように、水面にある環境を残すため造ったもので、水面の広さは約1,600㎡あります。このミニ木蔵の護岸に使われている石は、材木を長い期間貯蔵するとき、「重し」として使われていたものです。 開園年月日 昭和56年(1981)12月26日(北側地区) 主な植物 イチョウ、ヤマモモ、ケヤキ、サツキ、ソメイヨシノ 施設 テニスコート、ミニ木蔵 North Side This area was used to store lumber and was transferred to the administration of the Forestry Agency after World War Ⅱ.In those days,timber from mountains all across the country could be seen floating in the pond in the area. The Sarue Lumberyard moved to Shiomi,Koto Ward,in Tokyo,in 1976,ending its approximate 250-year history.The north side was later reconstructed into a park,which was opened to the public on December 26,1981. Mini-kigura(Miniature Lumberyard) A body of water approcimately 1,600㎡ was added to preserbe the surrounding waterside,reminding people of thehistoric lumberyard.The stones that embank the miniature lumberyard were used as weights that were praced on lumber during long storage. Opening gate:December 26,1981(north side) Major plants:ginkgo,bayberry,zelkova,azalea,and yoshino cherry trees Public facilities:tennis courts and a mini-kigura(miniature lumberyard) 南側地区 ここは、かつて猿江貯木場といって、林木を水に浮かべて貯めておくための場所でした。享保18年(1733)頃、幕府の材木蔵として造られた後、明治政府に引き継がれ、皇室の御用材の貯木場となりました。 大正13年(1924)にその敷地の一部(南側地区)が東京市に払い下げられ、昭和7年(1932)、猿江恩賜公園として開園されました。 開園年月日 昭和7年(1932)4月29日(南側地区) 主な植物 イチョウ、ヤマモモ、ケヤキ、サツキ、ソメイヨシノ 施設 野球場(兼用競技場) South side This area was the site of the Sarue Lumberyard,which stored logs in the pond.The Tokuawa shogunate constructed this lumberyard in approximately the 18th year of Kyoho(1733) to be used as a storage area for government timber.It was later transferred to the Meiji governmet an used as a lumberyard to supply building materials for the construction of the Imperial Household. The southern part of the lumberyard was sold to the Tokyo government in 1924 and was renamed Sarue Onshi Kouen,which roughly translaes into "Sarue Park donated by the Imperial Household." The park was plened to the public in 1932. Opening date:April 29,1932(south side) Major plants:ginkgo,bayberry,zelkova,azalea,and yoshino cherry trees Public facilitise:ballpark,track and field area 猿江恩賜公園には『猿江恩賜公園の碑』、『猿江材木蔵跡碑』、『江東公会堂「ティアラこうとう」』、『二瓶哲治胸像』があります。 所在地 江東区毛利2-13・住吉2-28 (猿江恩賜公園) 猿江材木蔵跡碑 この付近は江戸時代初期に埋め立て元禄12年(1699)深川元木場にあった時木場を一時ここに移したことあがあり、そののち享保7年(1722)伊勢屋毛利藤左衛門たちが堀を埋め立て毛利新田をひらいたが享保19年(1734)幕府はその大部分をとりあげて材木蔵をおき以来幕府の貯木場となし明治以降は皇室所有の貯木場となり大正13年(1924)その一部を猿江公園とした。 昭和33年(1958)10月1日 江東区第11号 所在地 江東区毛利2-13・住吉2-28 (猿江恩賜公園) 二瓶哲治胸像 氏は明治33年(1900)4月3日宮城県伊具郡丸森町に出生。若くして英才の誉れ高く大正15年(1926)東京帝国大学法学部を卒業。昭和9年(1934)東京市に勤務。昭和18年(1943)城東区役所に転勤。昭和22年(1947)5月3日初代江東区長に就任。以来5期18年の長きにわたり区長を歴任し、江東区の復興と繁栄のために尽力せられた業績は多大であった。とくに治水事業として江東地区を水害から守る外郭堤防の完成、並びに改良下水道工業用水道の建設促進に努力せられた功績は高く評価せられ、また特別区長会会長をはじめ数多くの公的団体の要職を兼ね、特別区の自治権拡充等地上自治の発展に貢献せられた功労も顕著であった。氏は平素区政に対し深い熱意と不屈の信念をもち、かつ公私を混同しない清廉潔白な人物にして、またまれにみる雄弁家であったが、出張中病を得て昭和39年(1964)12月9日64歳をもって惜しくも世を去られた。ここに施政のために身命を奉仕せられた氏の遺徳をしのびその業績を顕彰するものである。 昭和41年(1966)12月9日 所在地 江東区千田12-8 宇迦八幡宮 今より遡る事240年の昔此の辺りは海辺にして豊葦原の其の名の如く葦の葉繁る干潟にして江戸中の塵芥を以って築地となし10万坪築地と申されたり 享保年間近江の国の人千田庄兵工氏此の地に来り時の幕府徳川8代将軍吉宗公に願い出で此の土地を開拓せんと3年の長さを費して村造りを■めない其の氏をとって武蔵国南葛飾郡千田新田と名付けらる 後に寛政年間全体が一橋家の領地となったので一橋領10万坪とも称えたり 当時社はその当時小さな祠であったが千田庄兵工敬神の念篤く社殿を造り千田稲荷神社と称し土地の産土神としてあがめらる たまたま土地に穀物の実らざるを嘆き当神社に祈願を籠め神霊のお告げを受けてこれに代うるに片栗を栽培しえ農民の飢餓を救ったという古き伝説の故を以って一名片栗八幡宮とも称う 入母屋権現造り総桧銅板葺きの豪壮華麗なる社殿は戦災に依り焼失するも昭和27年(1952)7月戦前と同型同様の社殿を建設し昭和27年(1952)1月25日附神社本庁統理の承認を得て社名を宇迦八幡宮と改称す 宇迦八幡宮 宮司 菅原光雄 宇迦八幡宮には『石造六角宝塔』、『軍馬盛敬號之碑』があります。 所在地 江東区千田12-8 (宇迦八幡宮) 軍馬盛敬號之碑 軍馬盛敬號ハ元騎兵伍長榊原平三氏ノ乗馬タリ同氏ハ明治卅78年日露戦役中選ハレテ永沼騎兵挺進隊ニ参加ス挺進隊ハ特別任務ヲ帯ビ敵線内ヲ潜行■ク敵ノ背後ニ侵出明治卅8年2月11日夜長春南方新開河ノ鉄橋ヲ爆破シ第一ノ目的ヲ達成シ得タルモ大砲二門ヲ有スル敵ノ急追ヲ受ケ2月14日夜張家窪子附近ニ於テ之ヲ逆撃シ月下ニ格闘戦ヲ開始シタリ盛敬■ハ其戦闘中鼻頭ニ大傷ヲ蒙リシモ屈セス奮戦中腹部ニ敵弾ヲ受ケ遂ニ斃シタリ軍馬ト雖モ長期ノ劇シキ行動ニ堪ヘ困苦欫乏ヲ忍ヒ能ク其任務ヲ全フシ君■ニ盡セル霊ヲ慰ムル為メ明治41年10月有志相謀り碑ヲ御影堂境内ニ建立セリ大正12年9月大震災ノ際破壊シタルニ依り戦役当時ノ挺進隊長永沼秀文閣下ニ題字ヲ請ヒ茲ニ復旧セルモノナリ 昭和7年(1932)10月 有志 所在地 江東区東砂1-4-10 (因速寺) 松本久四郎墓 初代松本久四郎は、近郊農村として野菜を江戸市中に供給していた砂村地域の篤農家で、寛文年間(1661~1673)に蔬菜類の促成栽培を始めた人と伝えられています。旧暦3月中旬に栽培されたナス・キュウリ・インゲンは将軍家に献上され、大いに賞されたといわれています。砂村産の旬を先取りする野菜は、料理屋などに高値で販売され、幕府がぜいたく品として取り締まることもありましたが、初物好きの江戸っ子に支持され続けました。砂村で促成栽培された野菜は、地域を代表する名産品となりました。 促成栽培を行う農家は、「タコ」と呼ばれる丈夫な油紙で覆った温室を作り、江戸・東京市中から運ばれた生ゴミを発酵させた温床(床場)や炭火の熱を利用して苗を育てました。明治以降も江戸時代の方法を踏襲した野菜の促成栽培が行われていました。 現在の墓石は、因速寺が現在地へ移転した昭和2年(1927)に、7代松本久四郎によって建立されました(墓地番号 旧墓地4号通り東側一番)。墓石の銘文にある享保19年(1734)没「釋養圓信士」が初代松本久四郎とされています。 平成24年(2012)2月 江東区教育委員会 |
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永山
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