東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区東砂1-4-10 (因速寺) 木造阿弥陀如来立像 阿弥陀如来立像は因速寺の本尊です。像高は79.0cmで、頭、体、両袖などに数材をはぎ寄せた寄木造りです。眼は水晶を入れた玉眼とし、着衣は黒漆地に漆箔、肉身には金泥がほどこされており、白毫と肉髻珠はともに水晶です。印相は、中品下生といわれるかたちをとっています。像は快慶風の作品で、製作時期は鎌倉時代と考えられます。頭と両手足先に江戸時代の補修のあとがわずかにみられますが、製作時の作風を今日に伝えています。 因速寺に伝来した時期は不明ですが、『御府内備考続編』の因速寺の項に「本尊阿弥陀如来 木立像丈二尺七寸余 恵心僧都作」とあり、これは現本尊と同一の仏像の記事です。この記事から、遅くとも江戸時代後期までには安置されていたことがわかります。 この像は、区内でもっとも古いものの一つで、関東大震災や戦災の時には本堂から運び出したため、難をのがれました。製作年代が古いというだけでなく、地域に伝えられ続けてきた、たいへん貴重な仏像といえます。 平成8年(1996)1月 江東区教育委員会 PR 所在地 江東区深川2-16-27 (陽岳寺) 英信勝墓 英信勝は英一蝶の子で、父一蝶が元禄11年(1698)三宅島に流され、宝永6年(1709)許されて江戸に帰り、深川に住んだが、信勝も父に従って江戸に出て絵画に専念、画風はよく一蝶の風格を得て絶妙であった。 信勝は通称を長八、号を栗舎、一蜂、春窓などと称し、二世英一蝶とも称した。信勝は元文2年(1737)閏11月11日、47才をもって死去し、法名は「機外道倫信士」である。 昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会 所在地 江東区深川2-16-27 (陽岳寺) 観嵩月墓 江戸中期の画家観嵩月は名を常雄といい、宗行子蓑虫庵、景訥と号していた。彼は深川六軒堀(江東区深川常盤町)の材木商筑島屋坂本米舟の子として生まれ、英一蝶の門人高嵩谷の弟子となって幾多の名作を残している。父の坂本米舟は芸術に深い理解を有した。緒方乾山は余生を彼の家で過したという。 観崇月は父の精神に影響されて画家となり、名を成したが、枯れの作品例としては豊島区雑司ヶ谷鬼子母神堂の「狂言末広狩」の扁額が現存している。天保元年(1830)11月20日、年72で死去した。 昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会 所在地 江東区深川2-16-27 (陽岳寺) 向井忠勝墓 由来 向井忠勝(1582~1641)は、60歳で没しました。戒名は、陽岳寺殿天海玄祐居士です。陽岳寺は、寛永14年(1637)に創建され、開山は文室祖郁禅師で、開基は忠勝です。 慶長2年(1597)16歳で、後の将軍秀忠に仕え、大坂冬、夏の両度の戦いには水軍を率い、摂津尼崎へ出陣しました。寛永2年(1625)父の跡を継ぎ、子孫は代々船手頭の職を世襲しました。 所在地 江東区深川2-16-27 (陽岳寺) 伏見義民墓 全国にわたる天明の大飢饉(1783~1787)の頃、山城国伏見奉行小堀政方は幾多の悪政を重ねた。このため、伏見住民は塗炭の苦しみにあえいだ。文珠久助、丸屋九兵衛および麹屋伝兵衛らは幕府に直訴を企てhそかに江戸に入ったが、伝兵衛は小堀が放った捕吏に殺され、ようやく逃れた九助と九兵衛は直訴に成功して小堀は罷免されたが、両人は天明8年(1788)獄死した。 3名の遺体はそれぞれ陽岳照らん引き取られ、厚く葬られたが、これはかれら3名が江戸にあって直訴をうかがっている間、当寺に庇護され、多大の援助を受けたからである。 昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会 所在地 江東区清澄3-4-23 (本誓寺) 呂一官墓 呂一官は明(中国)に生まれ、日本に帰化した人である。一官は漢方医で、薬草・香木などの研究に大変すぐれていた。はじめ京都にいたが、徳川家康の招きで浜松に居住し、その後家康の侍医として江戸へ移った。日本橋に屋敷地を賜り、元和元年(1615)に「紅屋」という屋号の店を構え、紅・白粉などを製造販売し、たちまち評判となった。元和9年(1623)10月10日に没した。戒名は「迎誉来相信士」。 過去帳によると「元祖唐人辻一官」とあり、5代目から「堀氏」を名のっている。文政5年(1822)堀氏13代目の頃、近江上人外池字兵衛正保の子半兵衛正義が養子となり紅屋を継いだ。これが「柳屋」の創業といわれ、現在でも一官は柳屋業祖として祀られている。 一官の墓は宝篋印塔で、本誓寺墓地の左奥角にある。 平成23年(2011)10月 當知山 本誓寺 所在地 江東区深川2-19-13 (増林寺) 絹本着色毘沙門天像 左斜めを向いて、岩座上の邪鬼を踏んで立つ、軸装に仕立てられた毘沙門天の画像です(本紙の寸法、縦93.0cm、横36.2cm)。 毘沙門天は、四天王の多聞天と同体、また十二天の一尊として祀られ、北方の守護神、あるいは福徳神として古くから信仰されています。本像は、円光背を背にして、右手に宝棒、左手に宝塔を持ち、袖や天衣を翻した動きのある姿に描かれており、特に頭上の摩尼宝珠や右手の宝棒は、毘沙門天像としては珍しい作例といえます。 この画像は、本来像や光背等の輪郭を濃い墨線で描き、顔、甲冑、持物、台座光背などが白、朱、緑青、茶色の顔料(絵の具)と金泥で華やかに彩色されていましたが、現在は当初の色は少し衣褪色し、落ちついた色合いを呈しています。よく見ると、伸びやかな墨線と的確な彩色の筆法には生彩があり、全体におおらかな構図であることとあわせて、この画像が南北朝時代(14世紀)に描かれた優れた仏画であることがわかります。江東区では、やはり南北朝時代の作と考えられる永代寺の絹本着色地蔵菩薩半跏像(区指定有形文化財)とともに最も古い画像です。また、後世の大幅な補筆や修復がなされていないことも、中世の仏画として大変貴重です。 なお、表具の背面と納入木箱に記された墨書から、この画像が慶應元年(1865)に表装し直され、河内国百済山長栄寺(大阪府東大阪市高井田元町)で開眼供養されたことが知られますので、あるいは明治以降に関西方面から移されたものとも考えられます。 平成13年(2001)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区深川2-19-13 (増林寺) 三井親和墓 親和は深川福住町に住み深川親和とも称し書を細井廣澤に学び書道の大家となりことに篆(てん)書にすぐれ江戸■在にまでその書は額や幟の■などにみられまたその筆跡を浴衣や手拭に染めた親和染が流行するにいたったが天明2年3月7日83歳にて死去し増林寺に葬られた 昭和33年(1958)10月1日 江東区第8号 所在地 江東区大島8-38-32 真言宗智山派 稲荷山 小名院 宝塔寺ほうとうじ 由来 宝塔寺は真言宗で、稲荷山小名院と号します。境内に安置されている塩なめ地蔵は、もとは、小名木川沿いにあったものを昭和初期に移したものです。 江戸時代に、小名木川や行徳道を通る商人たちが、この地蔵の前で休憩し、商売繁盛を願って塩を供えたのが由来と伝えられています。また、仏前の塩をもらっていぼにぬると治るともいわれ、別名「いぼ取り地蔵」とも呼ばれていました。 宝塔寺には『塩舐め地蔵』、『大先達加藤忠治之碑』があります。 |
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