東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区南砂-北砂 境川の変遷 境川(現在の都道、清洲橋通り)周辺は、江戸時代砂村新田と呼ばれていました。 これは、砂村新左衛門が万治2年(1659)宝六島(現在の南砂1丁目付近)を中心に、436石の新田を開拓したことから、開拓者の名前をとったものです。 新田の中央に小名木川から水をひいて、中川に注ぐように幅約19mの水路を設けました。 この水路は、砂村新田の八右衛門、久左衛門、亀高、大塚の4ヵ村の南を境にして、流れていることから、境川といわれました。 その後、境川は田畑の減少、舟運の減少等に伴って水路としての必要性が薄れ、廃川となり、昭和5年(1930)道路へと移り変わりました。 PR 所在地 江東区南砂 弾正橋は、大正時代、城東電機鉄道の鉄道橋として砂町運河に架設され、その後、明治通りの道路整備に伴い、昭和5年(1930)に道路及び鉄道橋として鋼橋に生まれ変わりました。 この橋のすぐ西側には、木橋で架設された秋山橋があり、住民の通行の手段でしたが、この道路整備に伴い秋山橋も撤去されました。 弾正橋の名前の由来は、もともと境川に架かっていた橋の名前でしたが、大正13年(1924)からの震災復興事業のため境川が埋め立てられ、取り壊されたことを惜しみ、つけられたものです。 なお、現在の南砂付近一帯は江戸時代から明治時代にかけ砂村新田と呼ばれ、その中に8つの地区があり、その1つが「弾正」でした。 この橋の下を流れる仙台堀川は昭和53年(1978)からの埋め立てに伴い、昭和57年(1982)に親水公園となり地域の人々に親しまれてきました。 平成の世となり、弾正橋も撤去の必要が生じ、ここに橋名板と、当時の橋の偲かげのレリーフを残し、橋の歴史を永くとどめるものとしました。 平成8年(1996)9月 江東区 所在地 江東区南砂-北砂 野菜の促成栽培は寛文年間(1661~1673)の頃、中田新田の農民、松本久四郎が考案したと言われています。 初物を食べるというぜいたくが広がり過ぎると、農家は米麦など基本食料の生産よりも、高く売れる初物づくりに力を入れるようになり、また、庶民のぜいたくは、身分制度をゆるがすことになるとして、江戸幕府はたびたび、出荷日を統制する法令、促成栽培禁止の町触れを何回も出して、取り締まりました。 この促成栽培の方法は、ゴミを堆積すると醗酵熱が出るのを利用し、江戸市中から出るゴミ(江戸ゴミ)を堆積、この熱を利用して早く野菜の種をまくことで、収穫が早くできるようになりました。明治維新以後には一層盛んになり、昭和に入って産地の中心が江戸川方面に移るまで続きました。 江戸ごみという都市廃棄物を農業生産に活用した、見事なリサイクルが昭和30年代まで展開されてきた事実にも驚きと先人の苦労がしのばれます。 平成9年度JA東京グループ 農業競合組合法施行50周年記念事業 THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO Suna-Mura,the Origin of Vegitable Forcing Forcing culture of vegetables is said to have been devised by a farmer Kyushiro Matsumoto of Nakada-Shinden around the years 1661-1673. He mede use of the heat of fermentation of piled garbage. By using the garbage collected from the city of Edo,vegetables were planted earlier on the seed bed over the piled garbage and harvested earlier than usual. It is indeed surprising that the idea of recycling city garbage for the agricultural production had long been practiced until around 1950s. 所在地 江東区南砂 この辺りは、砂村新田を始めとした江戸近郊農業地帯として発展し、江戸への食糧供給源となっていました。当時の主な作物は、葱・西瓜などの他、温室温床栽培により茄子・胡瓜も栽培されていました。 所在地 江東区南砂7-14-18 当宮は深川富岡八幡宮の元宮として、また、砂村総鎮守として広く知られており、その創建は古く、藤原鎌足の孫、藤原豊成卿が下総守に任じられ下向のみぎり、天平勝宝元年(749)に創立された区内屈指の古社であります。 当宮と深川富岡八幡宮との関係は、この地が宝六島と呼ばれていた寛永初期、卿より永代島に移り暫く当宮を拠点に活動していた長盛法師が、当宮に奉祭されていた「八幡像」を、深川八幡宮に移し勧請したことによります。この「八幡像」は、源三位頼政、千葉氏、足利尊氏、鎌倉公方基氏、管領上杉氏から太田道灌へと伝えられ、特に道灌より厚い崇敬を受けていたものであります。 享保年間には、境内に桜、松あわせて3万本が植えられ、8代しょうぐん吉宗公お手植えの矢竹なども存在しておりました。この風光明媚な様子は江戸名所図会や安藤広重の名所江戸百景にも描かれ、当地が江戸の景勝地であった事を窺い知る事ができます。現在も境内二位は都内でも数少ない石造の富士塚や芭蕉句碑、鳳卵石などが残されています。 また、この地の由来は、万治2年(1659)に開拓者である福井鯖江の砂村新左衛門により新田開発が完成し、砂村新田と名付けられ砂村の地名が生まれました。 「御祭神」 応神天皇(誉田別皇) 比売大神 宇迦之御魂大神 外五柱 宮司 荒井秀樹 御創建1260年記念 富賀岡八幡宮奉賛会 境内には『砂村新左衛門顕彰碑』、『砂村囃子記念碑』、『砂町の富士塚』、『出羽三山の碑』、『力石』があります。 富賀岡八幡宮(元八幡) 富賀岡八幡宮は元八幡として知られています。これは寛永10年(1633)、八幡神像が関東郡代伊奈半十郎の家臣興津左衛門により深川の富岡八幡宮へ寄付されたとき、一時砂村の富賀岡八幡宮に安置されたことによるといわれています。当時は元八幡の辺りから南に海が広がっていました。境内も広く、参道には美しい桜並木が続き、自然の景観に恵まれた神社は江戸市民の行楽地として賑わい、広重(1797~1858)の「名所江戸百景」にも描かれました。 Tomigaoka Haxhimanngu Shrine Tomigaoka Hachimangu Shrine is also known as Motohachiman.During the Edo Period(1603-1868)the sea came right up to these parts,and its approach road was beautifully lined with cherry trees,under which throngs of pleasure-seekers would gather to gaze at the blossoms. 所在地 江東区南砂7-14-18 (富賀岡八幡宮) 砂町新田開拓者 砂村新左衛門顕彰碑 福井県鯖江市出身の砂村新左衛門と、その一族が宝六嶋を拠点として、湿原や■■■■拓と埋立てによって、砂村新田を万治2年(1659)に造成しました。その範囲は現在の南砂1丁目から7丁目までと東砂8丁目を含むほぼ全域に当ると伝えられています。 私達が住む砂町の基礎をを築いた偉大な開拓砂村新左衛門の遺徳を偲び、後世に永くその功績を顕彰するため、■■■■■■■得て同氏にゆかりの深い元■■■■■記念し■の完成を見ることができました。 平成11年(1999)11月21日建立 所在地 江東区南砂7-14-18 (富賀岡八幡宮) 凡そ270余年の伝統を継承し、江戸祭囃子を代表する一つとして砂村林派時代の変転とともに幾盛衰を経て今日迄伝えられ、此の間多数の名人上手を輩出して来た。昭和55年(1980)10月東京都江東区初の文化財保護条例の規定により区教育委員会より無形民俗文化財の認定を受け、翌昭和56年(1981)3月其の保持暖帯として砂村囃子睦会を指定されたことは郷土の爲欣幸の至れるよう此の伝統芸能を末永く伝承し地域社会に貢献すべきである。 本年は指定10周年に当り此処に記念碑を建つ。 平成2年(1990)4月吉日 江東区指定無形民俗文化財 砂村囃子睦会 小泉忠蔵 安藤善次郎 進藤潔 加藤栄二 大森尚 故積田金五郎 故植草松之助 故宇田川安三 埓正敏 加賀見勘之助 故中里龍三郎 故浅香雅良 故植草登美男 織原秀次郎 埓善松 吉野清 加瀬重雄 荻原貞男 西野正 堀七郎 永田仁男 松浦宗一 戸崎利八 相田治男 小林政成 植草行勝 中盛恒雄 秋元秀雄 滝下文治 埓與政 脇田綋一 鈴木信利 宇田川吉彦 安食浩一郎 稲田健一 安食洋子 稲田敏子 加賀見典央 加賀見恒雄 金田清 所在地 江東区南砂7-14-18 (富賀岡八幡宮) 富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保4年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。 江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。 砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚に左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。 塚はもともと30mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和8年(1933)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボック石)で固め、昭和37年(1962)現在地に移築されました。 塚に付随している数多くの富士講碑により、現代まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。 平成18年(2006)2月 江東区教育委員会 南東方向から見た砂町の富士塚〔昭和30年(1955)頃 江東区教育委員会所蔵〕 所在地 江東区南砂7-14-18 (富賀岡八幡宮) 出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山(いづれも山形県)の総称で江戸時代中頃から霊山・修験道の大和して主に東北や関東の村々から多くの登拝者を集めている。この三山碑は文政2年(1819)砂村の講中によって造立されたものである。碑面中央下部にみえる「大先達智憲院」は湯殿山の山上衆徒の三先達の一人で砂村地域は江戸時代この智憲院の支配下(檀那場)にあったと思われる。江戸から出羽まで往復350余里(1000キロメートル以上)を数え略1か月を要する行程であるにもかかわらず多くの信者を招聘し得たのは3年に1度の檀那廻り配札また宿泊施設への案内に奔走した御師たちの布教活動にあった。碑は高さ37センチ(糎)巾81センチ(糎)で安山岩(小松石)製である江東地区三山碑はこの富賀岡八幡宮のものだけである。 平成11年(1999)8月 宮司 荒井八雲 所在地 江東区南砂2-3 長州藩大砲鋳造場跡 パリのアンヴァリッド(廃兵院)に、長州藩主毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。この大砲には、次のように刻まれています。 十八封度砲 嘉永七歳次甲寅季春 於江都葛飾墅 「江戸切絵図」を見ると、現在の南砂2-3付近に長州藩主松平大膳大夫の屋敷があったことがわかります。「葛飾別墅」とは、この屋敷をさしています。 長州藩では、嘉永6年(1853)12月、三浦半島の砲台に備えつける大砲を鋳造するため、鋳砲家を江戸へ呼び寄せました。翌嘉永7年(安政元年(1854))正月、幕府の許可を得て、佐久間象山の指導のもと、砂村の屋敷内で大砲の鋳造を始めました。 当時、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は、この大砲を三浦半島から下関に移し砲撃により関門海峡を封鎖しました。これに対し、元治元年(1864)イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊が下関の砲台を攻撃、陥落させました。パリの青銅砲はこの時、フランス軍により海を渡ったものです。 平成5年(1993)3月 江東区教育委員会 近江屋板『江戸切繒圖集成』より 所在地 江東区南砂1-1~北砂6-19 仙台堀川公園 仙台堀川公園は、隅田川に続く水路であった仙台堀川を木場公園東側でせき止め、公園として整備したもので、総延長は3.7kmあります。 仙台堀川公園内には『旧大石家住宅』、『仙台堀川公園由来碑』、『砂町運河跡』があります。 『活』 上野弘道作 1982年3月建立 『継』 上野弘道作 1982年3月建立 『想』 上野弘道作 1982年3月建立 所在地 江東区南砂 (仙台堀川公園) 仙台堀川公園由来碑 砂町地区をL字型に流れる仙台堀川は、川幅36メートル、延長約2800メートルに及び、かつては、砂町運河として開削されたのが始まりである。 この運河は、大正6年(1917)の大水害で被災した砂町地区の復興と工業振興のために、大正10年(1921)東京運河河土地株式会社によって開削が始められ、昭和8年(1933)に完成したものである。 その後、地域の工業発展のために重要な役割を果したものの、大正12年(1923)の関東大震災以来の地盤沈下に加え、度重なる高潮の襲来などで、運河の維持が極めて困難となり、昭和23年(1948)東京都に上地されることになった。 上地された後、砂町運河は砂町川と改称され、いかだの係留や舟行などに利用されていた。そして、昭和40年(1965)の河川法の改正に伴い、隅田川に結ぶ従来からの仙台堀川と合流し一級河川仙台堀川に一本化されたのである。 仙台堀川は、長年の地盤沈下により護岸のかさ上げが繰り返され漏水が各所に発生し水質の汚濁が進んだことにより、防災上危険な河川との指摘をうけ、其の状態での河川の維持は困難となった。 そこで、区は地域住民の埋立て要望が高まる中で、河川の安全性を確保し、河川のよみがえりを図ることを緊急課題として取り組み昭和53年(1978)一部水路を残し、高水敷を造成する画期的な工事に着手した。 この画期的な工事は、地域住民の協力のもとに順調に進み、河川の安全性確保の目途が立った。昭和55年(1980)4月仙台堀川は親水公園として生まれ変わり、ここに河川の再生をみたのである。 昭和57年(1982)3月 東京都江東区 再生 われわれは、仙台堀川の歴史を親から子へ、子から孫へと語り伝え、先人から受け継いだこの貴重な財産が、水戸緑豊かな安らぎの場となり、さらに区民の森へと成長し、再び地域住民に貢献されることを念願するものである。 昭和57年(1982)3月 東京都江東区町 小松崎軍次書 所在地 江東区南砂1-1~北砂6-19 (仙台堀川公園) 砂町運河跡 区民の憩いの場として親しまれているこの仙台堀川公園は、かつて砂町運河として民間の手により開削された、例の少ない運河です。 砂町が農村から工業の町へと発展していくなかで、船による輸送力の向上を見越して運河の開削が計画され、大正8年(1919)に東京運河河土地株式会社が創立されました。大正11年(1922)に着工し、小名木川の合流点から現在の都立東高校の正面にあたる東砂7-19までの南北の一線、続いて旧舟入川合流点から横十間川合流点までの東西の一線が昭和8年(1933)までに完成しました。 昭和23年(1948)、東京都に移管された砂町川と名勝を改め、昭和40年(1965)、河川法の改正に伴い、仙台堀川の一部となりました。 昭和30年(1955)ごろまでは、周辺の製材工場の木材が水面に浮かぶ光景がみられましたが、砂町が工業地帯から住宅地へと変貌をとげると、運河としての役割も終わり、昭和55年(1980)に埋め立てられ、親水公園として生まれかわりました。 平成10年(1998)3月 江東区教育委員会 開発当時の砂町運河(正面は福島橋) 所在地 江東区南砂5-24 (仙台堀川公園) 江東区指定有形文化財(建造物) 旧大石家住宅 平成6年(1994)3月指定 旧大石家住宅は、平入り寄棟造りで、木造茅葺きの区内最古の民家です。規模は、梁桁が三間半、桁行が五間半です。江戸時代後期、舟入川(四十丁川)南端の掘留に面して建てられた、半農半漁の典型的な住宅建築です。 大石家の伝えによれば、安政2年(1855)の大地震でも倒壊しなかったといわれています。その後も大正6年(1917)の大津波、関東大震災、戦災をまぬがれました。戦後増改築がおこなわれましたが、基本的な構造に変化はありません。 区内で戦後取り壊しを行っていない木造茅葺きの民家は、旧大石家住宅が唯一の例であり、江戸時代の関東南部ないしは江戸近郊農村における農家の母屋の姿を残す、たいへん貴重な住宅といえます。その文化的・歴史的価値を守り伝えるため、平成6年(1994)3月に区の有形文化財(建造物)に指定するととものい、解体工事を行い、平成8年(1996)9月、当地に移築復元しました。 平成8年(1996)9月 江東区教育委員会 所在地 江東区南砂1-3 江東馬頭観世音 昭和20年(1945)3月9日夜半の大空襲により江東方面は焦土と化し殉難者は目を覆うばかりの惨状を呈した。また戦局が激しさを加えるに伴い石油が欠乏し国内の輸送は専ら牛馬車のみに大きく依存された。江東地区特に砂町大島亀戸深川一帯は東京都内において当時最も多くの輓馬業者が集中し牛馬の頭数3千有余居りその大半が空襲で厩舎や路上で焼死しさらに戦時中は軍馬として江東方面から多数徴用され大陸や南方において数多くの馬が戦死をとげたのである。 昭和28年(1953)9月輓馬による運送業者が中心となりこれら愛馬の諸霊を弔い平和祈願をこめてこの地に江東馬頭観世音を建立したものである。 大空襲後33回忌を迎えるにあたりこの志を継ぐ者が相寄り慰霊の由来を記し、ここに碑を建立して永く世にこれを傳えることになった。 昭和52年(1977)3月10日 江東馬頭観世音講 所在地 江東区南砂2-28-27 砂村新田六地蔵 昔、百島(むかしから、四砂小付近一帯は百島とも呼ばれていた)のあたりは、うら哀しく、もの寂しい処であった。砂村川の支流西横川が元〆川に出会う角あたり、横川を背にして小さな、石造六地蔵が東向きに置かれていた。川面をわたる夏の風に繁茂した葦が揺れ、水鳥があわてて空に舞い上ってゆく。 六地蔵の信仰がはじまったのは、平安末期といわれ、つねに悪業をおかし、六道に輪廻転生する衆生を救済するということから一般には寺院の門前や墓地入口に建てられるようになった。砂村六地蔵のように、村はずれや道端にたてられたものは、地蔵菩薩の道祖神信仰と結びついて土地の守護神とされたのではなかろうか。なお、ここでいう六道とは、地獄(怒)、餓鬼(欲)、畜生(愚)、修羅(闘争)、人界、天上(喜悦)のことである。六体の地蔵さんは、組合せや持物、印相によって象形のちがいもあり多種多様であるという。 さて、砂村の六地蔵はいつの時代の誰が安置したものか確かにはわからない。ある人はいう、深川永代寺にあったものをこの辺り水難事故死など災難による死者が多く供養のため移し変えたもの。また或る人はいう、あのあたりに昔、お仕置場があって処刑された罪人の供養のため砂村の石屋さんが頼まれて作ったもので、その背面にどこそこの誰と名が刻まれていたと。またその後、罪をおかし刑場へひかれていく囚人が立ち止り悔悟の祈りを捧げると恐れおののいた気も静まり、心安らかとない収容として死についたという。樹間に烏が翔び交い陰うつな空気が漂い、そのあたり常には静まりかえっていたものと思われる。ただ六地蔵には縁者のあげる香華が絶えなかった。 江戸中期の古地図をひろげて見ると、永代寺、霊巌寺など当時の有名寺院の境内に六地蔵の名が記してあるが砂村はもとより路傍の六地蔵は記載がない。 明治維新を前後して毛利候の下屋敷内、今元〆と言われるあたりに、大森方面から海苔の採取を業とする漁師が移住しはじめ謂ゆる浅草海苔の生産に従事した。また百島には、お天神とよばれた秋山総本家から分家が入植して荒地を開拓したので砂村の僻地、六地蔵周辺は急激な発展をみたのである。 時は経て、明治から大正時代になると砂村の生業も種々雑多、田畑を耕す者、海苔採取も含めて漁に出る者、川舟を使って水を売る人、土や砂利を運搬する回漕店、鳶職、木場が近いせいで川並、後には木材を運送する馬力屋、そして飛車角や宮川などなど、六地蔵の辺にも威勢のいいあんちゃんや、夜ふかしを得意とする二代目がたむろしていても不思議でない。 さても恐ろしいのは戦争である。昭和20年(1945)3月9日、あの夜半からの大空襲のため、六地蔵は瓦礫と化し江戸時代からの文化財が一つ消えて行ってしまった。 この地蔵は、戦災で焼失したため、昭和27年(1952)頃に戦災殉難者慰霊も兼ねて再建された。現在は「六地蔵尊奉賛会」によって守られている。 砂町史談会 資料より 所在地 江東区南砂5-4-10 儘田二郎胸像・儘田千鶴子胸像 昭和3年(1928)埼玉県羽生市に生まれ、羽生地区連合青年団団長を経て、昭和23年(1948)福田千鶴子と結婚、昭和28年(1953)25歳で上京、衣料品卸売業として独立 砂町地区小・中学校PTA連合会会長、北砂4・7丁目町会会長、災害協力隊隊長を20有余年務めた。その間法人会支部長、民生児童委員、江東区地域振興会理事、防火協会・防犯協会各理事を務め、また砂町地区防災町づくり協議会会長も兼任した。 その他代議士、都議、区議等の砂町地区選対本部長を務め、平成8年(1996)長年における教育・福祉・自治功労に対し江東区特別区政功労賞、東京都知事表彰を受賞する。平成16年(2004)には、日本赤十字社より金色有功賞を受賞する。 明治神宮崇敬会理事、亀高神社奉賛会会長及び特養ホーム江東ことぶき会監事、区町会連合会相談役を務める。 内助の功を遺憾なく発揮した妻の俤像 傘寿の記念に夫婦像を建立する。 平成20年(2008)8月吉日 所在地 江東区南砂3-4 仙気稲荷神社(砂村せんき稲荷跡) 由来 この付近には以前砂村稲荷神社があり、文化・文政(1804~1829)の頃から疝気の病(おもに下腹痛)に霊験のある「砂村の疝気稲荷」として栄えました。 昭和42年(1967)千葉県習志野市へ移転し、当地に稲荷小祠が建てられました。南砂7丁目の富賀岡八幡宮の境内裏手にある力石はこの時に移されたmので、この中には、力持ちの有名人扇橋三次郎の名前もみられます。 所在地 江東区南砂3-5 延命子育地蔵尊 この地蔵尊は江戸時代(約200年前)に建立され当時の砂村は農村地帯で医療施設もなく、病気の時は神仏にすがるより方法がありませんでした。 特に幼児の流行病(はやりやまい)で死亡するもの多く、この子育地蔵尊に、祈願し、その霊験あらたかと聞かされています。当時より戦前までは砂村念仏講が中心になり地蔵尊の主守をしていました。 最近は、子供を交通事故から守り健康と受験合格を祈願する方が多くなりました。 仙気いなり通り会 延命子育地蔵尊世話人一堂 平成3年(1991)5月吉日 |
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永山
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