東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区常盤1-1-2 御祭神 宇迦之御魂命うかのみたまのみこと 例祭日 5月牛の日 創立年月は詳ではないが、当地の鎮守の深川神明宮の摂社または末社とも伝えられる。万年橋際に鎮座していたことから万年橋稲荷とも称されていた。腫れ物の治癒に霊験あらたかで、その祈願には全快までそばを断ち全快すればそばを献じる。 江東区 正木稲荷由来碑 近年柾木稲荷が正木稲荷に改められ、祭神は宇迦魂命(うかのみたまのかみ)と応神天皇を祭り、例祭は毎年二月初午の日である。 創立は年代不詳、江戸時代古くより当社はあったようである。為永春水著「梅歴」の挿絵に当社が描かれ、奉納の幟に「柾木稲荷大明神、天保五年(一八三四)二月初午等」と書かれ名の知れた稲荷社であった。 当社は江戸切絵図「本所深川絵図」に『マサキイナリ』と記載されている。この絵図は文久二年(一八六二)版である。また江戸名所図絵では「真先稲荷明神社」とも稱されている。江戸には稲荷社もっとも多く、この絵図には著名な稲荷社だけが記されている。当社はその一つであった。 昔は柾木の大木があったので、この社名がつけられた。隅田川から小名木川へ入る目標として尊重されていた。また子供が柾木の葉を丸めてピーピー鳴らしていたのである。またその葉が腫れ物によくきいたともいわれている。その祈願には全快迄「ソバ」を断ち、全快すれば「そば」を献じて報賽する信仰があった。 柾木(柾)はニシキギ科の常緑低木で、高さ三メートル、海岸近くに多く育ち庭木生垣用になり、葉は厚く滑らか、長楕円形、六月頃淡緑色の四弁花をたくさんつける。実は球形、開いて赤色の種子をだす。 小名木川の水路は行徳(千葉)の塩を直線コースで江戸に運ぶため天正十八年(一五九〇)水路が開かれ、江戸が世界一の人口になるにつれ重要な河川となり、寛永六年(一六二九)現在の河幅に開さくされ、船舶取締りのため当社の隣に船番所が設置された。寛文元年(一六六一)船番所は大島九丁目の小名木川と中川の交査する場所に明治維新まで置かれた。 また当初の近くに芭蕉庵があって大正十年十一月東京府が芭蕉翁古池の跡とし旧跡に指定した。しかし昭和五十六年この旧跡は芭蕉記念館に移転した。 江東区の地図にも当社は記載されており、昔より町内持(維持経営)である。 永代信用組合 組合長 山屋幸雄
正木稲荷神社
総代 堀内一雄 仝 塙政治郎 仝 木村清一 仝 秋田勝郎 仝 飯田直吉 世話人 佐藤重次 仝 宮内敏■ 仝 村垣芳康 仝 飯塚勝 仝 河野与七 仝 山崎渡■平 仝 山平典正 仝 進藤一一 仝 伊瀬吉之助 仝 幅治策 仝 右島章次 市村保 市村祐■ 栗城謙吾 堀内重信 北村正昭 新田義久 大江成人 杉本重盛 柳川秀重 佐藤純人 関口昌志 塙鷹一 塙市郎 山形順治 岩館武 鮒■ 藤田千代 三番組 杉江隆 碑文 細田隆善 仝書 伊藤義男 仝刻 中澤義男 中央信用金庫 深川めし本家 みや本
平成七年五月吉日建立
正木稲荷の由来碑 かつて深川元町万年橋北側に柾木の大樹あり、その樹にほど近い隅田川の中州上に当社「正一位稲荷大明神」存す。 時の移る中、大樹朽ち、当社も幾多の変遷を経るが、当社ふるくから「腫物に効くおできの神様」との名高く、寛政10年(1798)、昭和6年(1917)の文記にも当社の名が見られ、文政10年(1827)6月16日には曲亭馬琴の妻女お百も「腫物平癒」の願かけに参詣の記録あり。昭和初期の祭礼には下町情緒豊かに、花柳界の「キレイドコロ」が人力車を連ね大変賑わっていた。 ぴいぴも売れる柾木の御縁日 陸奥米の籾の間に稲の神 柾木のぴいぴい吹きながら野掛也 ご当社を読む句も残っている。 戦災後、先代三木常正宮司はじめ地元秋田勝三郎、飯田源次郎、塙善之助各氏世話人となり社殿復興す。そして平成2年(1990)の今日玉垣御社殿改修に際し、崇敬者の賛同を得て現状の整備を成す。 平成2年(1990)5月吉日建之 宮司 三木理代 責任総代 堀内一雄 仝 塙政治郎 大善跡目 塙鷹一 六区三番組小頭 杉江隆 十代目石幸 中沢義男 PR |
町名
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
|