東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区東砂・7-12 6-20、7-16~8-6・21 船入川跡 江戸時代から大正時代まで、この辺りは八郎右衛門新田と呼ばれる農村地域で、この公園の前を南北にはしる通りは、かつて船入川という名の川でした。 船入川は、現在清洲橋通りとなっている、境川から南流し東砂8-6・21辺りで堀留めとなっていました。ここでは、道幅が急に狭くなっていて、当時の面影をとどめています。 主に、農業用水や荷物の運搬に使われ、両岸の土手の上には、農家や鎮守社が軒を連ね、その背後には耕地が広がっていました。北から出戸の橋、神明橋、土橋、榎本橋という4つの橋が架かっていました。 昭和13年(1938)から埋立てられ、昭和15年(1940)に砂利道となりました。今は通称「四十町通り」と呼ばれています。この名の由来は、八郎右衛門新田の面積が、40町(約40ヘクタール)あったためと言われています。 平成7年(1932)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区東砂3-17-17 生田神社 祭神 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) 由緒 慶安年中(1648~1651)当地開発のさい、土地の鎮守とす 元禄初年(1688~1703)疫病流行のさい、里民当社に祈願し安全を得、特に撒布の産婦の安全を守護し、神徳を崇め遠近より参詣が多い 所在地 江東区東砂1-4-10 (因速寺) 松本久四郎墓 初代松本久四郎は、近郊農村として野菜を江戸市中に供給していた砂村地域の篤農家で、寛文年間(1661~1673)に蔬菜類の促成栽培を始めた人と伝えられています。旧暦3月中旬に栽培されたナス・キュウリ・インゲンは将軍家に献上され、大いに賞されたといわれています。砂村産の旬を先取りする野菜は、料理屋などに高値で販売され、幕府がぜいたく品として取り締まることもありましたが、初物好きの江戸っ子に支持され続けました。砂村で促成栽培された野菜は、地域を代表する名産品となりました。 促成栽培を行う農家は、「タコ」と呼ばれる丈夫な油紙で覆った温室を作り、江戸・東京市中から運ばれた生ゴミを発酵させた温床(床場)や炭火の熱を利用して苗を育てました。明治以降も江戸時代の方法を踏襲した野菜の促成栽培が行われていました。 現在の墓石は、因速寺が現在地へ移転した昭和2年(1927)に、7代松本久四郎によって建立されました(墓地番号 旧墓地4号通り東側一番)。墓石の銘文にある享保19年(1734)没「釋養圓信士」が初代松本久四郎とされています。 平成24年(2012)2月 江東区教育委員会 所在地 江東区東砂1-4-10 (因速寺) 木造阿弥陀如来立像 阿弥陀如来立像は因速寺の本尊です。像高は79.0cmで、頭、体、両袖などに数材をはぎ寄せた寄木造りです。眼は水晶を入れた玉眼とし、着衣は黒漆地に漆箔、肉身には金泥がほどこされており、白毫と肉髻珠はともに水晶です。印相は、中品下生といわれるかたちをとっています。像は快慶風の作品で、製作時期は鎌倉時代と考えられます。頭と両手足先に江戸時代の補修のあとがわずかにみられますが、製作時の作風を今日に伝えています。 因速寺に伝来した時期は不明ですが、『御府内備考続編』の因速寺の項に「本尊阿弥陀如来 木立像丈二尺七寸余 恵心僧都作」とあり、これは現本尊と同一の仏像の記事です。この記事から、遅くとも江戸時代後期までには安置されていたことがわかります。 この像は、区内でもっとも古いものの一つで、関東大震災や戦災の時には本堂から運び出したため、難をのがれました。製作年代が古いというだけでなく、地域に伝えられ続けてきた、たいへん貴重な仏像といえます。 平成8年(1996)1月 江東区教育委員会 |
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