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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区東砂・7-12 6-20、7-16~8-6・21

  船入川跡
 江戸時代から大正時代まで、この辺りは八郎右衛門新田と呼ばれる農村地域で、この公園の前を南北にはしる通りは、かつて船入川という名の川でした。
 船入川は、現在清洲橋通りとなっている、境川から南流し東砂8-6・21辺りで堀留めとなっていました。ここでは、道幅が急に狭くなっていて、当時の面影をとどめています。



 主に、農業用水や荷物の運搬に使われ、両岸の土手の上には、農家や鎮守社が軒を連ね、その背後には耕地が広がっていました。北から出戸の橋、神明橋、土橋、榎本橋という4つの橋が架かっていました。
 昭和13年(1938)から埋立てられ、昭和15年(1940)に砂利道となりました。今は通称「四十町通り」と呼ばれています。この名の由来は、八郎右衛門新田の面積が、40町(約40ヘクタール)あったためと言われています。
 平成7年(1932)3月 江東区教育委員会

 
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