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東京都江東区の歴史
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所在地 東京都江東区清澄2-12-12

  深川七福神 布袋尊

 深川稲荷神社は、寛永7年(1630)の創建と伝えられています。
 以前は、旧町名の西大工町にちなんで俗に西大稲荷と呼ばれていました。関東大震災(1923)の後の区画整理により町名が変更し、昭和27年(1952)頃から深川稲荷神社となりました。
 深川七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。



所在地 江東区清澄1 ~ 中央区

 < ケルンの眺め >

 ここから前方に見える清洲橋は、ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。
 この場所からの眺めが一番美しいといわれています。



 < Kolner Aussicht >

 "Kiyosubashi",die Brucke von Kiyosu im Vordergrund, wurde nach dem Vorbild derden Rhein uberspannenden Hangebrucke von Koln gebaut. Dieser Standort ist fur seine  besonders schone Aussicht bekannt.


所在地 江東区清澄1-8先

  < 明治維新百年記念 >

明治天皇御製

いかならむ 時にあふとも 
            人はみな
誠の道を ふめとをしへよ

    明治神宮権野宮司 伊達巽謹書


所在地 江東区清澄2-12-12 (深川稲荷神社)

 < 明治百年記念碑 >

深川稲荷神社は祭神宇賀魂命にて 寛永7年(1630)の創立にして当町会の地域が古い町であることを示している 大正12年(1923)の大震災後の区画整理により町名が一変した 清住町西大工町伊勢崎町の各一部を合併して清澄町2丁目が出来た 清住町は寛永6年(1629)弥兵衛という人が開発し弥兵衛町と称したが 元禄8年(1695)清住町と改めた 西大工町は慶長のころ海辺新田といい 小名木川の河港として栄えたところで舟大工が多く住んでいたので深川海辺大工町とも称されたが明治6年(1873)西大工町と改められた伊勢崎町は元木場の一部で神田京橋の材木商の貯木場であり又川舟組の住居もあった 当町の半分は幕末まで久世大和守の屋敷であった 明治初年頃には近代郵便制度の創始者前島密が住んでいた 明治13年(1880)岩崎弥太郎がこの地を入手して深川親睦園を造り名園とした 之が現在の清澄庭園である 大震災後当町に属する所は埋立られ市街地となった 現在三野村合名会社の附近は幕末から明治初年(1868)三井家の代表として財界に活躍した三野村利左ヱ門が住んだ邸宅の跡である 中村学園は中村清蔵が明治38年(1905)小名木川畔に開校し明治時代深川に於ける女子教育の唯一の学校で大震災後当地に移転した ここに明治百年を記念して当町の沿革を記し早くから発展してきた由緒ある町であることを伝えるものである

  昭和43年(1968)11月 清澄町二丁目自治会


この記念碑は明治100年を記念して菅沢運勇氏(当時町会長)の提唱により町会役員並に町会員各位一同の協力により建立した。石材は福島県三の輪山(安達太郎)麓の土湯荒川石を搬出したもので明治神宮權宮司 伊達 巽殿の揮毫による明治天皇御製であり、この御製を当町会の全員で元旦の祝賀式その他総会等町会の皆さんが集まる機会のある度に必ず合唱し明治時代を忍び将来の私共の指針として心に刻むと共に後世に伝えるものである。
総工費¥364,000 で町会役員及福島県安達町の菅沢伝氏並に町の方々の奉仕により総て実費で完成した。

昭和43年(1968)11月3日除幕式当時の町会役員
町会長 菅沢運勇
副会長 谷田貝三之助 亀本時男
会計 石塚豊治
役員 田村千代治 飯高勝次 牧野松三 堺喜三郎 牧野治郎意 石福善治郎 深谷真平 伊林庄蔵 倉持忠造 戸井田富雄 芦沼幸太郎 谷田貝いちの 菅沢けさの

このプレートは田村千代治氏町会役員勇退の節寄贈されたもので昭和53年(1978)9月プレート作製時の町会役員
町会長 石塚豊治
副会長 堺喜三朗 牧野治郎意
会計 菅沢運一
役員 亀本時男 石福善治郎 倉持忠造 伊林庄蔵 菊地一三 深谷真一 田村通敏 石塚なを子 堺綾子 石福君子

     江東区 清澄一丁目会

※ 昭和43年時「堺喜三郎」が昭和53年時「堺喜三朗」と記されるがプレート原版の通りである。


所在地 江東区清澄1-2-1(読売江東ビル)

 平賀源内は享保13年(1728)高松藩小史の家に生れ和洋の学を勉強し物産館の開設、毛織物の試作、源内焼の製陶、石綿布の創作利用、水準器寒暖計の創作等かずかずの発明工夫をなし、かつ神霊矢口渡の戯作者(げさくしゃ)でもある。平賀源内は、わが国最初の電気学者にして安永5年(1777)エレキテルを完成し、この付近深川清住町現在の清澄1丁目私宅において電気実験を行ない安永8年(1780)51歳にて没した。

  昭和51年(1976)1月16日 江東区 第31号


所在地 東京都江東区清澄3-3-9

 清澄庭園は、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎が明治11年(1878)に荒廃していた大名の下屋敷や豪族の館跡の土地約3万坪を買い上げ、大規模な造園工事を開始し、弟・弥之助、長男・久弥へと岩崎家3代によって明治24年(1891)に「廻遊式林泉庭園(かいゆうしきりんせんていえん)」が完成されました。当時は「深川親睦園(ふかがわしんぼくえん)」といわれ、三菱社員の慰安や内外賓客を招き接待する場として用いられていました。

 大正12年(1923)の関東大震災により、西半分を中心として壊滅的被害を受け、岩崎家が翌大正13年(1924)に破損の少なかった東半分を公園用地として当時の東京市に寄付しました。昭和7年(1932)より清澄庭園として一般公開されました。

  庭園面積 38,967㎡
  公園面積 34,921㎡

     清澄庭園管理所


所在地 東京都江東区清澄3-3-9

 
『 東京都名勝 』 昭和54年3月31日指定

 清澄庭園は、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎が明治11年(1878)に荒廃していた下総国関宿城主・久世大和守の下屋敷や江戸の豪商・紀ノ国屋文左衛門の館跡の土地約3万坪(約10万㎡)を買い上げ、大規模な造園工事を開始し、弟・弥之助、長男・久弥へと岩崎家3代によって明治24年(1891)に「廻遊式林泉庭園(かいゆうしきりんせんていえん)」が完成されました。明治13年(1880)4月には「深川親睦園(ふかがわしんぼくえん)」と命名し、三菱社員の慰安や内外賓客を招き接待する場として用いられていました。



 <深川親睦園当時> Hukagawashinbokuen(The 1880's)

 庭園の主な施設として、河田小三郎が設計監理した日本館、英国人建築技師ジョサイア・コンドルの設計監理により西洋館がみられました。これらの建造物は鹿鳴館時代の明治文化を反映した豪華さにおいて、岩崎家の権勢を天下に誇示したものでした。




 <現在> (The present)

 大正12年(1923)の関東大震災により、西半分を中心として壊滅的被害を受け、岩崎家が翌大正13年(1924)に破損の少なかった東半分を公園用地として当時の東京市に寄付しました(清澄公園)。昭和7年(1932)7月24日より清澄庭園として一般公開されました。

  庭園面積 38,967㎡
  公園面積 34,921㎡

 園内には『大正記念館』、『西洋館』、『日本館』、『涼亭』があります。


所在地 江東区清澄3-3-9 (清澄庭園)

  西洋館 Western-style house

 英国人建築技師ジョサイア・コンドルの設計監理によるもので、明治19年(1886)に着工して明治22年(1889)に竣工しました。鹿鳴館時代の建築技術が生かされた建坪782坪(約2581㎡)で、鋳鉄製テラス、イスラム風ドーム、オランダ風の装飾破風などのデザインを有していました。しかし、大正12年(1923)の関東大震災の際に焼失してしまいました。
  清澄庭園管理所


所在地 江東区清澄3-3-9 (清澄庭園)

  大正記念館 Taisho Memorial Hall

 初代の大正記念館は、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲によりほぼ全焼してしまいました。その後、貞明皇后(ていめいこうごう)のご葬儀の「葬場殿(そうじょうでん)」資材の下賜をうけ、昭和26年(1951)着手、昭和28年(1953)に完成しました。現在の大正記念館は、近代風数奇屋造りで平成元年(1989)4月に全面改修したものです。
  清澄庭園管理所


所在地 江東区清澄3-3-9 (清澄庭園)

  日本館 japanese-style house

 河田小三郎により設計監理された日本館は建坪315坪(約1040㎡)で、大広間、茶室、小集会場、松の茶屋などを備えた壮大な木造家屋でした。明治19年(1886)着工、明治22年(1889)に竣工しました。しかし、大正12年(1923)関東大震災の際に焼失しました。
  清澄庭園管理所


所在地 江東区清澄3-3-9 (清澄庭園)

  涼亭 Ryotei House

 明治42年(1909)、英国陸軍元帥キッチナーを迎えるため保岡勝也が設計し、この涼亭が建てられました。



 庭園の日本情緒を有している数奇屋造りの涼亭は、震災・戦災と2度の災厄をまぬがれて焼け残った唯一の建造物です。現在の建物は、昭和60年(1985)に全面改修しましたが、構造外見は往時の姿をとどめています。
  清澄庭園管理所


所在地 江東区清澄3-4-6 (臨川寺)

 玄武仏は、宝暦から寛政(1751~1800)にかけて活躍した美濃派の俳人、神谷玄武坊のことです。小石川白山門前(文京区)に住み、俳号を俳仙堂・白山老人などと号しました。延享(1744~1747)のはじめ、各務支考により京都双林寺に建立されていた、芭蕉墨直の墨跡を写して臨川寺に建て、毎年3月に墨直会を催したといわれています。また、梅花仏(各務支考)の碑も建てたといわれています。



 臨川寺は、承応2年(1653)、鹿島根本寺(茨城県)の冷山和尚が草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、正徳3年(1713)「瑞甕山 臨川寺」という山号寺号が許可されました。延宝8年(1680)、深川に移り住んだ松尾芭蕉は仏頂禅師と親交が厚く、度々参禅に通ったと伝えられています。以来、芭蕉ゆかりの寺として「玄武仏碑」をはじめ、「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残されています。
 平成5年(1993)3月  江東区教育委員会

 



所在地 江東区清澄2-12-3

桑田立斎先生種痘所之跡碑
平成10年(1998)ジェンナー種痘発明200年

  桑田立斎先生顕彰会


所在地 江東区清澄3-4

浄土宗
 当知山 重願院 本誓寺

 文亀元年(1501)小田原(神奈川県)に創建され、天正18年(1590)小田原落城の際に焼失し、江戸桜田に移り、文禄4年(1595)幕府より八重洲河岸に寺地を拝領し再興しました。慶長11年(1606)馬喰町に転じ、明暦3年(1657)、天和2年(1682)2度の大火に見舞われ、天和3年(1683)現在地に移りました。墓地には、江戸中期の歌人でもあり、国学者でもあった村田春海とその一族が眠っています。

 

 本誓寺には『村田春海墓』、『村田一族の墓』、『呂一官墓』があります。


所在地 江東区清澄3-4 (本誓寺) 

東京都指定旧跡
 村田春海墓
     昭和18年(1943)5月指定

 江戸時代中期の国学者で歌人。日本橋小舟町の豪商村田春道の次男として延享3年(1746)に生まれた。父春道、兄春郷とともに加茂真淵の門人で著名な国学者であった。春海は国学者としては仮名遣いや五十音の権急に造詣が深く、歌人としては加藤千陰とともに古今調の流麗な一派を立て江戸派と称せられた。門人に清水浜臣・小山田(高田)与清・岸元由流らがおり、江戸の宗匠と称せられ、従い学ぶ者が衆をなしたといわれる。
 『琴後集』『歌かたり』『和学大概』など多数の著書がある。文化8年(1811)2月13日66歳で死去した。墓石に楷書で平春海先生墓とある。
 平成8年(1996)3月8日 東京都教育委員会


所在地 江東区清澄1-2

  コンクリートブロック(明治27年製造)
 明治22年~明治29年(1889~1896)に行われた横浜港築港工事で、その防波堤基礎用として明治27年(1894)に製造して海中に沈設され、昭和6年(1931)同港改築に際し引上げられたコンクリートブロックである。
 このコンクリートはアサノ普通ポルトランドセメントをしようしたもので、配合はセメント:砂:(砂利と小割栗石)が1:2.8:5.2(容積比)水セメント比は40%程度と推定される。37年間海中にあっても損傷は認められず、優れたコンクリートであったことを証明している。



THE BASE CONCRETE BLOCK OF THE BREAKWATER OUTSIDE OF YOKOHAMA HARBOUR,PLACED ON THE SEA-BOTTOM IN 1894 AND RECOVERED IN 1931.


所在地 江東区清澄1-2

  セメント工業発祥の地碑
 当地は日本で初めてのセメント工場があった場所です。明治8年(1875)、工部省が本格的なセメントの製造に成功しました。上図手前の隅田川、右側の仙台堀などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産のセメントを作り上げました。明治16年(1883)、当社創業者のひとりである浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場として発展を遂げました。
 平成16年(2004)5月 太平洋セメント株式会社


                          明治23年当時のセメント工場全景




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