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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区東砂3-17-17

 生田神社
祭神 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
由緒 

慶安年中(1648~1651)当地開発のさい、土地の鎮守とす
元禄初年(1688~1703)疫病流行のさい、里民当社に祈願し安全を得、特に撒布の産婦の安全を守護し、神徳を崇め遠近より参詣が多い

 


所在地 江東区南砂3-4

 仙気稲荷神社(砂村せんき稲荷跡)
由来
 この付近には以前砂村稲荷神社があり、文化・文政(1804~1829)の頃から疝気の病(おもに下腹痛)に霊験のある「砂村の疝気稲荷」として栄えました。
 昭和42年(1967)千葉県習志野市へ移転し、当地に稲荷小祠が建てられました。南砂7丁目の富賀岡八幡宮の境内裏手にある力石はこの時に移されたmので、この中には、力持ちの有名人扇橋三次郎の名前もみられます。












所在地 江東区大島8-19

 子安庚申堂
有形民俗文化財(正徳2年建立)徳川時代、かのえさるの夜に仏家では青面金剛、神道では猿田彦神を祀り、徹夜する習俗が盛んに行なわれた。此の右塔には、青面金剛と建立した人達の名が刻まれており、もと此の地にあった子安稲荷神社境内に建てられていたが、長年の雨風で石面が傷んだ為今回有志がお堂を造り、周囲を整備したものである。

 


所在地 江東区大島9-1

 中川船番所跡
 中川船番所は中川番所・中川関所とも呼ばれ、江戸と関東各地を結ぶ河川交通路上に設けられた関所です。寛文元年(1661)に、それまで小名木川の隅田川口にあった幕府の川船番所が移転したものです。建物は小名木川に面し、水際には番小屋が建てられていました。主に、夜間の出船・入船、女性の通行、鉄砲などの武器・武具の通関を取締るなど、小名木川を通る川船の積荷と人を改めることを目的としました。
 また、中川対岸の船堀川から、江戸川・利根川水系へと延びる流通網の要として、江戸中期以降には、江戸へ送られる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀番所(現横須賀市)と並び、江戸の東側窓口として重要な役割を果たしてきました。
 明治2年(1869)、全国の関所が廃止されたのに伴い番所も廃止されました。
 平成7年(1995)に行なわれた発掘調査では、瓦や陶器片などの資料とともに建物の遺構が確認されました。
 平成14年(2002)10月 江東区教育委員会









所在地 江東区大島1-17~38

 庚申道跡
 明治通りから横十間川へ向かうこの道は、庚申道と呼ばれていました。明治44年(1911)の東京逓信管理局作成の地図を見ると「字庚申道」と記されています。
 この道の西側、大島1-18
に「釜屋堀庚申様地蔵尊」という幟の建てられたお堂があります。このお堂は昭和62年(1987)頃まで突き当たりにあり、「三つまたの庚申様」とも呼ばれていました。昭和7年(1932)に刊行された『大島町誌』には、「庚申堂」として旧大島村甲70番地にあること、猿田彦大神を祀ること、その由緒は未詳であることなどが記されています。現在、堂内には青面金剛を浮き彫りにした庚申塔とお地蔵様が祀られ、大切に守られています。
 かつては、道の中央に小川があり、子どもをたらいに入れて流すと厄払いになるという言い伝えがありました。また、沿道には八百屋・魚屋・駄菓子屋などが並びにぎわっていました。「庚申道」の名は、この鉄道橋に今も残り、新大橋通りが貫通する以前の大島の古い道と町並みの様子を偲ばせています。
 平成6年(1994)3月 江東区教育委員会











所在地 江東区南砂3-5

 延命子育地蔵尊
この地蔵尊は江戸時代(約200年前)に建立され当時の砂村は農村地帯で医療施設もなく、病気の時は神仏にすがるより方法がありませんでした。
特に幼児の流行病(はやりやまい)で死亡するもの多く、この子育地蔵尊に、祈願し、その霊験あらたかと聞かされています。当時より戦前までは砂村念仏講が中心になり地蔵尊の主守をしていました。
最近は、子供を交通事故から守り健康と受験合格を祈願する方が多くなりました。
 仙気いなり通り会 延命子育地蔵尊世話人一堂
 平成3年(1991)5月吉日







所在地 江東区亀戸6-47 (亀戸平岩公園)

 稲荷神社
この地は徳川家康の家臣であった平岩家の先祖が、三河より徳川幕府に従って江戸の居を定めてから、大正の中頃まで、約300年にわたって平岩家代々の居所であった。幕末より明治にっけて竹問屋として名を成した、6代目平岩甚助の死後、昭和16年(1941)に、楠にかこまれた広大な敷地内にあった1000坪の池が埋めたてられ、その一部約340坪が公園として東京市に寄付された。その後昭和25年(1950)に東京都より江東区に移管され現在に至る。現存する稲荷神社は古くから祀られていたものを元の築山の上に移したものである。
 平成元年(1989)11月改修にあたりこれを記す平岩








所在地 江東区大島4-14-7

浄土真宗本願寺派
 浄楽寺

 


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