東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区新大橋1-5 (新一公園) 新大橋一丁目安宅丸由来碑 題字 細田隆善 書 新大橋一丁目の町名は住居表示町名変更により昭和四十六年四月一日深川新大橋一丁目改めたものです。同町は関東大震災後の区画整理により昭和九年六月十四日従来の深川宗町と深川新安宅町の一部を合併してつけられた町名です 新大橋一丁目一帯は江戸時代をとおして幕府の艦船を格納した船蔵のあったところです そのためこの付近は昔から御船蔵と称されてきました。ここには幕府最大の巨艦安宅丸がおかれていましたので明治二年七月御船蔵跡一帯の地域を安宅丸の威容をたたえて深川安宅町と称しました また深川新安宅町は隅田川の川深いの浅瀬を埋めたてて明治三十八年八月二十四日この町名をつけたものです 安宅丸は北条氏が造船したものでその動力は四百人の水夫が二百本のオールを交代で漕ぎ米四千石(一万俵)と多くの将兵軍馬をのせることができる木造船として最大の軍船であったといわれています のちに安宅丸は豊臣秀吉の手に渡りさらに豊臣氏亡後は徳川氏の取得するところとなって伊豆下田港におかれていましたが寛永十年(一六三三年)江戸に回航しこの御船蔵につながれました 延宝七年(一六七九年)江戸絵図は安宅丸が画かれています そして巨艦安宅丸は補修管理が困難となり天和二年(一六八二年)解体されました 幕末の頃には船蔵に三十八隻の艦船が格納されていましたが明治時代となり一隻は政府に他は払いさげになったと記されています この付近は江戸時代初期から開発され江東区においてもつとも古い町の一つであります 江東史談会 会長 細田隆善記 新一公園開園を記念してこの町の由来を記す 昭和四十八年十月吉日 新大橋一丁目町会 町会長 坂田清 PR 所在地 江東区新大橋3-1-15 (八名川小学校) 江東区登録有形文化財(歴史資料) 新大橋橋名板 平成18年(2006)10月27日登録 この橋名板は、明治45年(1912)に架けられた新大橋の橋名板で、現在の新大橋(昭和52年〔1977〕完成)に架け替えられるまで、江東区側の正面上部のアーチを飾っていたものです。 新大橋は、隅田川にに架かる三番めの橋として、元禄6年(1693)に架けられました。明治時代になり、橋の交通量が増加したため、それまでの木製の橋から鉄橋に替わり、同時に約200m上流の現在地に架けられました。 周囲の飾りは大半がはがれ落ちてしまし、中央の「志ん於ほはし」(しんおおはし)の文字も跡が残るのみとなっています。写真は昭和30年(1955)ごろの新大橋ですが、文字は「志んおおはし」となっています。おそらく戦後、橋の改修をした時に文字の部分も修復したのでしょう。 昭和48年(1973)に新大橋の架け替えが決定し、それまでの橋が取り外されることになりました。八名川小学校PTAを中心とした地域の人びとは、町のシンボルとして親しまれてきた橋の記念として、この橋名板を保存することを希望し、ここに残されました。 なお、中央区側の橋の一部は、明治の面影をとどめる橋として明治村(愛知県犬山市)に移され保存されています。 平成18年(2006)11月 江東区教育委員会 所在地 江東区森下 江東区登録史跡 五間堀跡 五間堀は小名木川と堅川を結ぶ六間堀からわかれる入堀です。五間堀という名称は川幅が五間(約9m)であるところから付けられ、六間堀とともに江戸時代から重要な水路でした。 五間堀の初見は寛文11年(1671)の江戸図で、六間堀とともに記載されており、五間堀が開削された時期は、明暦の大火(1657)によって付近一帯の再開発がなされた万治年間(1658~1660)ころか、それ以前と考えられます。 五間堀は江戸時代には富川町(森下3)までで堀留となっていましたが、明治8年(1875)、付近の地主であった元尾張藩主徳川義宜により掘りすすめられ、明治10年(1877)ころに小名木川まで貫通しました。 昭和11年(1936)・昭和30年(1955)の2度の埋め立てにより、現在、五間堀は全て埋め立てられています。 平成12年(2000)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区森下2-22-9 (長慶寺) 江東区指定有形文化財(絵画) 絹本着色釈迦十六善神像 この釈迦十六善神像は、本紙を幀貼装にしたものです。本紙は縦114.8cm、横57.3cm。幀貼装は縦138.9cm、横73.9cmです。 十六善神とは、「大般若経」およびその経の愛持者を守る十六種の守護神です。釈迦十六善神像は、鎮護国家・除災招福のため宮中や諸大寺において行われた「大般若経」を転読する大般若会の本尊として祀られました。仏画としては基本的なもので、平安時代末からみられますが、特に鎌倉時代から室町時代にかけて多く描かれ、全国に作例が残されています。 画像は、蓮華座に坐す釈迦如来を中心に、その左右に獅子に乗る文殊菩薩と白象に乗る普賢菩薩、法涌菩薩と常啼菩薩、経巻を積んだ笈を背負う玄奘三蔵と鬼神形の深沙大将を対にして並べ、その外側に十六善神を二分して配置しています。 本像は、描線の力強さや、迫力のある造形性、濃厚で鮮やかな彩色などから桃山時代後期から江戸時代初期のものと推定されます。中世にまでさかのぼる作例がほとんどみられない江東区にとって貴重な作品といえます。 平成10年(1998)8月 江東区教育委員会 所在地 江東区森下2-22-9 (長慶寺) 近代小学校発祥地 東京府小学第六校 深川小学校誕生之地 明治2年(1869)2月。明治政府ハ「府県施政順序」ヲ公布、「小学校ヲ設ケル事」ヲ命ズ。明治3年(1870)6月28日。東京府ハ深川森下長慶寺ニ「東京府小学第六校」ヲ設置。明治4年(1871)12月。文部省ハ小学第六校ヲ「文部省直轄小学校」トスル事ヲ市達。明治5年(1872)8月。政府ハ「邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナキヨウニ」ト「学制」公布。明治6年(1873)5月。「官立小学第六校」ヲ「第六中学区一番小学深川学校」ト命名。 平成15年(2003)5月吉日 深川小学校開校130周年記念 10代目石幸刻 所在地 江東区清澄3-4 (本誓寺) 東京都指定旧跡 村田春海墓 昭和18年(1943)5月指定 江戸時代中期の国学者で歌人。日本橋小舟町の豪商村田春道の次男として延享3年(1746)に生まれた。父春道、兄春郷とともに加茂真淵の門人で著名な国学者であった。春海は国学者としては仮名遣いや五十音の権急に造詣が深く、歌人としては加藤千陰とともに古今調の流麗な一派を立て江戸派と称せられた。門人に清水浜臣・小山田(高田)与清・岸元由流らがおり、江戸の宗匠と称せられ、従い学ぶ者が衆をなしたといわれる。 『琴後集』『歌かたり』『和学大概』など多数の著書がある。文化8年(1811)2月13日66歳で死去した。墓石に楷書で平春海先生墓とある。 平成8年(1996)3月8日 東京都教育委員会 所在地 江東区 ~ 墨田区 二ッ目通り(清澄通り) 明暦3年(1657)江戸の大半を灰にした例の明暦大火の後、幕府は市街地の区画大整理を行いました。万治2年(1659)、江戸城の再興と共に開始された大事業は寛文元年(1661)に完了しました。開拓は道路と河川を一体的に整備したもので東西及び南北を軸とした、直線的な計画がなされていました。その中で、深川地区は堅川の掘削の後、架けられた橋に西から一之橋、ニ之橋・・・・五之橋と名付けられました。その後、各々の橋の通りが通り名となったようです。二ツ目通りは堅川ニ之橋通りと呼ばれ、その後簡略化され、二ツ目の橋通りを経て、二ツ目通りと呼ばれるようになりました。江戸名所図絵には五間堀に架かる立派な弥勒寺橋と共に堅川ニ之橋通りの名が残されています。 所在地 江東区永代1 大島川西支川 大島川西支川は、右岸佐賀2丁目・左岸福住2丁目で仙台堀川から分かれ、大横川(旧大島川)へ至る延長約820メートルの河川です。両岸は、おおよそ元禄期(1688~1704)までに埋立てられた町で、川沿いには河岸地が設けられ、かつては荷物の積み降ろしなどでたいへん賑わっていました。 本川の大島川は、木場5丁目から隅田川へ注ぐ河川で、名称は、北岸の大島町(現永代2丁目の内)に因みます。昭和40年(1965)の河川法改正にほり大横川に併合され、西支川・東支川に大島川の名勝が残されましたが、平成4年(1992)、東支川が区立木場親水公園となったため、現在の地図上では西支川のみが河川としてその名称を受け継いでいます。 江東区 所在地 江東区森下2-22・3-13 森下3-10・11付近 近代の輸出陶磁器製造所跡 瓢池園陶磁器工場跡(江東区森下2-22・3-13付近) 旭焼陶磁器窯跡(江東区森下2-10・11) 明治期には陶磁器は輸出品として注目され、また技術的にも幕末期以降にヨーロッパから新しい上絵具や顔料が伝わり、新たな絵付の技法が確立しました。その結果、輸出向け陶磁器を製造する陶磁器工場・陶磁器窯があらわれました。 瓢池園陶磁器工場は、明治6年(1873)、浅草芝崎町の磁器製造所の御用係であった河原徳立が、同所の廃止を機に深川森下町37番地に開いた陶磁器絵付工場です。瓢池園では納富介次郎の確立した、絵付に松などから採れるテレピン油を使用する納富式を採用し、輸出用コーヒーカップなどを絵付しました。明治29年(1896)に深川東元町へ移転し、のちに愛知県の名古屋に製造拠点を移しました。 旭焼陶磁器窯は、ドイツ人ワグネルが確立した絵付法などによる新しい陶磁器窯です。ワグネルは明治16年(1883)に旧東京大学理学部において釉薬の下に様々な色彩の絵柄を施す研究を開始し、明治19年(1886)に旭焼と称しました。明治23年(1890)には渋沢栄一や浅野総一郎らの出資をうけて深川東元町に旭焼の製造所をつくりましたが、明治30年(1897)には瓢池園と同じように愛知県に移転しました。 平成10年(1998)3月 江東区教育委員会 旭焼の陶磁器 瓢池園で製作された陶磁器 |
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