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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区富岡1-20-3 (富岡八幡宮)

 近代日本地図の祖師である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと50歳のとき江戸に出て、当宮近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていました。
 約200年前の寛政12年閏4月19日(陽暦では1800年6月21日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。
 忠敬先生はこのときを含めて全部で10回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出しました。当宮は伊能測量にとってたいへん御縁の深い場所であります。
 伊能測量開始200年にあたり、「伊能ウォーク」、地図・測量、土地家屋調査士、伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して建立されました。
 平成13年(2001)10月 伊能忠敬銅像建立実行委員会

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所在地 江東区富岡1-20-3 (富岡八幡宮)
 
御祭神  市杵島姫命いちきしまひめのみこと
 例祭  6月17日
 縁日  毎月第一巳の日
合祀    粟島神社
御祭神  少彦名命
 例祭  10月15日
七渡神社は八幡宮御創建以前よりお祀りされ八幡様の地主神として「七渡弁天さま」と尊ばれてまいりました あわせてお祀りされる粟島神社は女性の守り神とされ2月8日には献針祭(針供養)が行われます

所在地 江東区富岡1-20-3 (富岡八幡宮)

 富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として知られ、明治年間には歴代横綱の名を刻んだ横綱力士碑(本殿に向かって右側奥)が建立されましたが、この大関力士碑は歴代の大関を顕彰し(横綱に昇進した力士と実際に取組みには入らなかった看板大関を除きます)昭和58年(1983年)に建てられた碑で、9代目市川団十郎5代目尾上菊五郎が明治年間に寄進した仙台石を利用しています。

所在地 江東区富岡1-14

 深川公園は、明治6年(1873年)太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つです。
 この公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていました。西側には、油堀川より水を引き入れた汐入の池があり、東側には、小高い丘がありました。明治12年(1879年)には梅、桜を植え花園として整備しました。
 明治40年(1907年)に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、明治42年(1909年)に深川図書館が建てられましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失しました。
 震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、第二次世界大戦中に池は埋められ運動場になりました。
 下の漆喰画(しっくいが)は、文化12年(1815年)伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし明治22年(1889年)深川で没した漆喰細工の名工、左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作したものです。
  
平成2年(1990年)3月 江東区 


                    本所深川公園絵図(嘉永5年尾張屋板)

    深川公園と名所
 東京の公園設立は、明治6年(1873)の政府による公園制定に始まる。この時、深川公園・芝公園上野公園・浅草公園・飛鳥山公園が誕生した。いずれも江戸時代から、由緒ある寺や人々の集う名所である。
 ここ深川公園は、元の永代寺境内に設けられた。永代寺は大きな寺で、その庭は江戸で1・2を競う名庭として有名で、富岡八幡宮深川不動堂とともに江戸屈指の名所であった。
 このあたりは、江戸時代から庶民の活気あふれるいこいの場で、四季折々の行事には大いに賑わった。その姿は変わりながらも、縁日や盆踊りが行われ、ふれあいの場として現在にいきづいている。

 深川公園内には『富岡八幡宮別当永代寺跡碑』、『石造燈明台』があります。

所在地 東京都江東区富岡1-17-13

真言宗
   成田山 東京別院 深川不動堂

 江戸時代、中でも元禄年間(1688~1703)は江戸町人を中心として不動尊信仰が急激に広まっていった。この背景には、経済・商業の中心地としての江戸、またそれを支える町人の経済力の飛躍的な増大が大きな原動力になっていた。
 このような時期、成田山新勝寺は信徒数も増え、また寺格も、より高い本山へと大きく発展していく。そのような時江戸町人を中心に成田山のご本尊、不動明王を江戸で参拝したい、という気運が高まり、ついに元禄16年(1703年)4月に初の江戸に於けるご本尊の出張開帳(江戸出開帳)が行なわれた。以来、出開張のたびに、その様子が錦絵に描かれ出版されるほどになりました。当時は犬公方と知られる5代将軍綱吉の治世、その母桂昌院が成田山の不動明王を江戸での参拝を希望し実現したという説もある。
 成田山出発の総勢は300人を超える行列が組まれ、江戸まで1週間余りかけてご本尊が奉持され、2ヶ月にわたる開帳は江戸町人に大きな人気を博し、この開帳の場所が深川永代寺境内であり、これが深川不動堂の始まりである。
 明治になり神仏分離令により永代寺は廃寺、境内は深川公園となり、明治2年(1869年)に現在の地に「深川不動堂」の正式名称が認められ、成田山不動堂新勝寺の出張所として明治11年(1878年)当地に遷座され、明治14年(1881年)には本堂が完成するも関東大震災(1923年)・第二次世界大戦と二度に亙り本堂が焼失、しかしながらご本尊は奇しくも災禍を免れた。
 昭和26年(1951年)に当時千葉県印旛沼のほとりに建っていた龍腹寺{文久2年(1862年)建立}を深川に移築し復興、現在の本堂になっている。
 江東区最古の木造建築としてその痛み著しく、平成3年(1991年)大改修を施行し、平成14年(2002年)開創300年を記念し内佛殿が建立され、東都随一の不動霊場として山容を整え一層の活況を呈している。

 深川不動堂境内には『成田山内陣十六講』、『五代目尾上菊五郎の碑』、『石不動』、『』、『』があります。



所在地 東京都江東区富岡1-20-3

  富岡八幡宮(深川八幡)

 この神社の3年に一度の本祭りは、夏祭りにふさわしく神輿に水をかけながら練り歩くので、「水かけ祭り」の名もあり、50基余の連合渡御は江戸三大祭りのひとつとして有名です。
 寛永元年(1624年)、当時永代島と呼ばれた小島に、京都の公卿が八幡神像を奉安したのが、始まりといわれています。




 境内には、『伊能忠敬銅像』、『大関力士碑』、『横綱力士碑』、『神馬像』、『大橋清太郎句碑』、『第六大区一番組碑明治6年在銘』、『木場の木遣りの碑』、『富岡宮司寿像』、『七渡神社』、『森羅亭万象歌碑』、『木場の角乗りの碑』、『力持ち碑』があります。



所在地 江東区富岡1-20-3 (富岡八幡宮)

福岡県築上郡八津田村東八田に明治廿五年一月三日生。川面凡児翁の推薦により富岡八幡宮の祭祀を継承する為の富岡宣永の養嗣子となる。国学院大学を卒へ鹿神社北海道十一ヶ国総鎮守官幣大社札幌神社勅祭官幣大社鹿島神宮等に各々宮司として奉仕、砥鹿神社にては山林経営施業案を立て、神社百年の大計を樹立した。三河一国の青年指導教化、札幌神社にては境内整備社務所、参集殿、斉館の新築、道会初日全道会議員の神社参拝道政奉告の新例を開く。鹿島神宮に於ては昭和度の大造営を完成、氏子、神社により胸像建立さる。昭和廿四年父祖伝奉の富岡八幡宮々司として奉仕、戦災により焼失したる八幡宮の御社殿再建、その間茨城県神社庁設立、初代庁長、神社本庁総長、国学院大学理事、同大学評議委員会議長、同大学院友会々長、神社本庁顧問、長老の称号を受け、北白川総裁様より鳩杖の下賜にお言葉を賜わる。氏神、産土神の神学的研究により哲学博士、文学博士の学位を贈らる。
  昭和四十八年八月

所在地 東京都江東区富岡1-15-1

高野山真言宗
 大榮山 金剛神院 永代寺

 御府内八十八箇所第68番

本尊 歓喜天

創建 寛永元年(1624)

開基 長盛法印

 明治29年(1896)に旧永代寺(深川公園・深川地蔵堂を含む広大な敷地をもっていたが、明治初年の神仏分離により廃寺)の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興されたのが永代寺である。

 永代寺には『絹本着色地蔵菩薩半迦像』があります。

所在地 江東区牡丹2丁目~江東区富岡1丁目

     (大横川)

橋長   27.799m

全幅員   10.600m

架設形式   1径間鋼製ガーター橋

架設年次   平成5年(1993年)3月

 

所在地 東京都江東区佐賀1-6-2 

 赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは其角の門下として徘界の友でありました。

 元禄15年(1702年)12月14日、本所松坂町(現 墨田区両国3丁目)の吉良邸討入本懐を遂げた後、大石内蔵助率いる義士達が一ツ目通りを引き上げの途中、永代橋へ差し掛るや、あたかも當所乳熊屋味噌店の上棟の日に當り作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を労ったのであります。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。

 昭和28年(1953年)2月 ちくま味噌16代 竹口作兵衛識

所在地 江東区木場2-18 (舟木橋第3児童遊園)

 舟木橋は、江東区木場2丁目地内の大島川東支流に架けた旧入船町と木場町を結ぶ橋長25.2m、幅員33.8mの橋であった。橋名の由来、創架年月ともに不詳であるが、入船町と木場町に架かる橋なのでこの名を得たと言われている。昭和5年(1930年)に鋼橋に架替えられたが、平成14年(2002年)3月に老朽化に伴い撤去した。

 

所在地 東京都江東区富岡1-19、2-7(八幡堀遊歩道)

 国指定重要文化財(建造物) 
旧弾正橋(八幡橋)
         昭和52年(1977年)6月27日指定

 八幡橋(はちまんばし)は、東京市で最初に架けられた鉄橋である。長さ15.2m、幅2m、単径間アーチ橋の形式をとる。アーチは鋳鉄製で五本の直材をつなぎ、その他の引張材は錬鉄製の鋳錬混合である。
 もとは、京橋区(中央区)の楓川に架けられていたものである。経緯については、『八幡橋新橋来歴』に詳しく記されている。



 この橋は明治11年(1878年)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所で製造された。国産第1号の鉄橋である。はじめは弾正橋(だんじょうばし)と称していたが、大正2年(1913年)の市区改正により新しい弾正橋が架けられたため、元弾正橋と改称された。さらに、関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となり、昭和4年(1929年)、現在地に移設された。富岡八幡宮の東隣りであるため、名称も八幡橋と改められた。以来人道橋として活躍してきました。昭和52年(1977年)近代橋梁技術史上価値の高い橋であることから、国の重要文化財に指定されました。また、アメリカ人技師スクワイアー・ウイップルの特許を基本としたところから、平成元年(1989年)10月、国内で初めてアメリカ土木学会より『栄誉賞』を受けました。

 現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また、菊の紋章のある橋としても有名である。鋳鉄橋から練鉄橋に至る過渡期の鉄橋として、近代橋梁史上貴重なものであるとともに、独特な構造手法を用いて施工してあり、技術史の上でも価値の高い橋である。

     江東区教育委員会

所在地 東京都江東区木場2-18先(舟木橋第二

       トーテム・ポール(TOTEMPOLE)

 トーテム・ポールは、カナダ北西岸に住む原住民がトーテム崇拝(totemism)の対象としてきたもので、その造形は、芸術的にも高く評価されています。

 ここに立てられたトーテム・ポールは、カナダのブリティッシュ・コロンビア州(State of British Columbia)林産審議会(Forest Products Council)から江東区との友好親善と両国の木材産業発展のシンボルとして、1984年4月にカナディアン・シーダー・クラブ(Canadian Cedar Club)を通じて江東区に寄贈された3本のうちの1本で、他の2本は新木場駅前、仙台堀川公園に立てられています。

                   江東区

 

所在地 東京都江東区富岡1(八幡堀遊歩道)

 新田橋(にったばし)は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
 
大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年(1932年)、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
 
当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
 
また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。

 <旧新田橋 諸元>

橋梁形式  一径間ワーレン鋼構橋
橋長  23.355m
橋梁幅員  1.806m
塗装色  茶系(昭和7年(1932年)架橋当時の塗装色を再現)

※ 塗装色は護岸工事により架替えられるまで赤系の色が塗られ赤い橋としても親しまれた。

所在地 江東区富岡1-17-13 (深川不動堂)

 

 抑々内陣十六講とは、成田不動信仰十六講社の連合講社にして結成110有余年の歴史を誇り、成田山講社認証第4号なり。
江戸時代中期成田不動の信仰が盛んになり徳川5代将軍綱代氏公の生母桂昌院の信仰を得たことにより 元禄16年第1回の江戸出開帳が施行され、幕末までに12回、明治時代に4回出開帳が行われ、不動信仰は広く市民に浸透した。明治18年(1885年)市民並びに組織講社熱望の裡、本尊不動明王は所縁の地深川公園に遷座され 深川不動堂が創建された。十六の講社はその出開帳期間中奉仕と外護に務めた。成田山では十六講社の貢献に対し各々の講社に内陣の称号を冠し功績を讃えた。

 この講庭は当時の内陣十六講各講元、世話人並びに有志により講碑を建立し、十六講々庭として歴代総講元を主体として遵守され、昭和15年(1940年)(皇紀二千六百年記念)に各講社の協力により玉垣を建立、昭和47年(1972年)4月には十六講結成八十八周年記念 又、平成5年(1993年)12月には不動明王石像及び宗祖弘法大師石像を奉祀し、幾多講員大いに盛儀を寿ぐ。
 このたび先人諸氏の偉業に敬意を表し、旧玉垣及び講庭の改修を行なうに当り、各講社のご協力とご支援を得て無魔浄業は此処に完成する。
 平成8年(1996年)6月16日 岡部傅之助 記

< 成田山内陣十六講 >
総講元 日丸講 講元 岡部照夫
副講元 梵字講 講元 外山新吉
副講元 日信講 講元 髙野正夫
副講元 梵字講 副講元 桐小林栄一
副講元・総務会計 日丸講 副講元 岡部傳之助
魚のし護摩木講 講元 原肇
吉原講 講元 石井敏雄
万善講 講元 工藤房太郎
お茶湯講 講元 吉田哲也
御手元講 講元 片掛宏
日護摩講 講元 笹原はな
昭運講 講元 古川年枝
永代護摩講 講元 雨宮スミ子

所在地 江東区富岡1-17-13 (深川不動堂)

 昭和の宰相吉田茂閣下が千葉県松戸市に法曹界を目指す塾を創設し、石不動を奉安して真摯に祈願の日々を送られておられましたが、大東亜戦争の空襲による災害よりお守りする為、親交厚い大倉喜七郎氏(男爵大倉喜八郎氏長男)に保護を依頼、爾来霊徳遍く石不動を大倉家の守護佛として安置いたし篤い信仰をいただいておりました。
 而して過日大倉眞澄様(大倉喜八郎氏曾孫)が深川不動堂に参拝の砌、郡参信徒を目の当たりにして、ご参詣各位と共に家内繁栄をご祈念いたすべく石不動と併せ真言宗宗祖弘法大師石像をご奉納賜りました。
 成田山内陣十六講総講元小柴宏友氏を初め、各講元。
 役員諸大徳のご寛容を得て、此処講庭に奉安する。
  平成5年(1993年)12月18日

所在地 江東区冬木~木場3丁目

     (平久川)

橋長   39.799m

全幅員   13.399m

架設形式 1径間鋼製トラス橋

架設年次 昭和57年(1982年)12月

所在地 江東区富岡二丁目~牡丹三丁目間大横川

橋長   40.5m

全幅員   17.600m

架設形式   1径間鋼製トラス橋

架設年次   昭和57年(1985年)7月

所在地 江東区富岡1-17-13 (深川不動堂)

弘化元年(1844)~明治36年(1903年)2月18日

 享年60歳

 9代目市川団十郎と並び称された 幕末から明治にかけての名優であり「団十郎名人・菊五郎上手」 などといわれていました。

所在地 東京都江東区富岡1-14 (深川公園)

 長盛法印が寛永4年(1627)富岡八幡宮を建立しその別当となり その坊舎を建て承応2年(1653)京都仁和寺から永代寺の寺号を与えられ 万治元年(1658)に寺が廃せられた 永代寺は今の深川公園と付近一帯の広い土地を有し 立派な庭園があって毎年春には山開と称して一般に開放された
  昭和33年(1958)10月1日 江東区


所在地 江東区木場3丁目

     (大島川東支川)

橋長   27m

全幅員   13.300m

架設形式   1径間鋼製トラス橋

架設年次   昭和62年(1987年)3月

所在地 江東区佐賀1丁目~福住1丁目 

     (大島川西支川 )

橋長   23m

全幅員   12.699m

架設形式   1径間鋼製トラス橋

 架設年次   昭和4年(1929年)4月

所在地 江東区木場2-18-12 (大丸コアビル)

 当繁栄稲荷神社の祭神は京都伏見稲荷大社の御分霊にましまし乃古宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神の三御柱であります。古来五穀豊穣、商賣繁昌、藝能上達の神として世の尊崇敬仰をあつめております。

 当神社の起源は今を距ること二百四年前、江戸時代の中期、宝暦7年(1757年)この木場の地に創祀されたのにはじまります。大丸の業祖下村彦右衛門正啓は享保2年(1717年)伏見に創業し寛保3年(1743年)日本橋大伝馬町に江戸店を設けましたが越えて宝暦7年(1757年)深川木場4丁目即ち現在の繁栄橋々畔に貯木場を備うる別墅を営み、その一廓に社殿を造り伏見稲荷大社の御分霊を祀り繁栄稲荷と称したのであります。

 祭神の霊験いとあらたかで、地元の木場はもとより江戸一円の信仰をあつめ、3月12、13日の例祭には門前市がたつの大賑わいでその側の堀に架せられた橋もいつしか繁栄橋とよばれて今に伝わっているのであります。

 明治43年(1910年)大丸が名古屋店とともに東京店(昔の大丸江戸店)を閉じ木場の別墅も廃したとき社殿は先代根津嘉一郎氏の青山邸に移り同家の嘉栄稲荷の社殿となり、関東大震災(1923年)、第二次世界大戦の空襲にもその災禍から免がれ二百年前のお姿そのままで残ってまいりました。

 昭和35年(1960年)5月たまたまその社殿が繁栄稲荷のものであったことがわかり、根津家の御厚意で大丸へ御返譲していただくこととなり、。旧地に接したこの地に境城を卜して昔ながらのお姿を以て本殿、玉垣その他を移築あらたに伏見稲荷大社の御分霊を勧請してお祀りすることになったのであります。

 由緒の数々を思い御神徳のいやちこなるに今さら心うたるる次第であります。

  昭和36年(1961年)10月吉日



所在地 江東区富岡1-20-3 (富岡八幡宮)

江東区指定有形文化財(歴史資料)
 横綱力士碑 

        

   附   陣幕(じんまく)・不知火(しらぬい)顕彰碑二基

       日月石(じつげついし)寄附碑 

       地固め寄附碑

       土台石垣

       魚かし石柱二本

       土台下玉垣

  第十二代横綱 陣幕久五郎(相撲博物館 蔵)

 この横綱力士碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、江戸時代最後の横綱第十二代陣幕久五郎が中心となり、明治33年(1903年)に建てられました。重量は約五千五百貫(約20t)あり、初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻まれています。



 

 古くから庶民に親しまれてきた相撲は、江戸時代には幕府公認の勧進相撲(寺社修復などを目的に実施)へと発展し、大坂・京・江戸で興行として開催されました。幕府がはじめて江戸での勧進相撲を認めたのは、貞享元年(1684年)の富岡八幡宮境内でした。その後、明和年間(1764~1771)には、春・秋二場所のうち一場所がこの地で開催され、享和元年(1801年)までに本場所31回を数えました。その意味で、富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥地といえます。


                     陣幕久五郎顕彰碑


                  不知火諾右衞門顕彰碑

 偉容を誇る横綱力士碑は、同時期に建てられた陣幕久五郎顕彰碑
(じんまく きゅうごろう)・不知火諾右衞門顕彰碑(しらぬい だくえもん)や周辺の石造物(魚かし石柱、土台下玉垣は大正末ごろ)とともに、相撲と地域のつながりを示す貴重な文化財です。

  平成16年(2004年)2月 江東区教育委員会


                          超五十連勝力士碑



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