東京都江東区の歴史
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所在地 江東区富岡1-20-3 (富岡八幡宮) PR
所在地 江東区富岡1-20-3 (富岡八幡宮)
所在地 江東区富岡1-14
深川公園は、明治6年(1873年)太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つです。
所在地 東京都江東区富岡1-17-13
真言宗
江戸時代、中でも元禄年間(1688~1703)は江戸町人を中心として不動尊信仰が急激に広まっていった。この背景には、経済・商業の中心地としての江戸、またそれを支える町人の経済力の飛躍的な増大が大きな原動力になっていた。
所在地 東京都江東区富岡1-15-1
所在地 東京都江東区佐賀1-6-2 赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは其角の門下として徘界の友でありました。 元禄15年(1702年)12月14日、本所松坂町(現 墨田区両国3丁目)の吉良邸討入本懐を遂げた後、大石内蔵助率いる義士達が一ツ目通りを引き上げの途中、永代橋へ差し掛るや、あたかも當所乳熊屋味噌店の上棟の日に當り作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を労ったのであります。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。 昭和28年(1953年)2月 ちくま味噌16代 竹口作兵衛識 舟木橋は、江東区木場2丁目地内の大島川東支流に架けた旧入船町と木場町を結ぶ橋長25.2m、幅員33.8mの橋であった。橋名の由来、創架年月ともに不詳であるが、入船町と木場町に架かる橋なのでこの名を得たと言われている。昭和5年(1930年)に鋼橋に架替えられたが、平成14年(2002年)3月に老朽化に伴い撤去した。
国指定重要文化財(建造物) 八幡橋(はちまんばし)は、東京市で最初に架けられた鉄橋である。長さ15.2m、幅2m、単径間アーチ橋の形式をとる。アーチは鋳鉄製で五本の直材をつなぎ、その他の引張材は錬鉄製の鋳錬混合である。 現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また、菊の紋章のある橋としても有名である。鋳鉄橋から練鉄橋に至る過渡期の鉄橋として、近代橋梁史上貴重なものであるとともに、独特な構造手法を用いて施工してあり、技術史の上でも価値の高い橋である。 江東区教育委員会 トーテム・ポール(TOTEMPOLE) トーテム・ポールは、カナダ北西岸に住む原住民がトーテム崇拝(totemism)の対象としてきたもので、その造形は、芸術的にも高く評価されています。 ここに立てられたトーテム・ポールは、カナダのブリティッシュ・コロンビア州(State of British Columbia)林産審議会(Forest Products Council)から江東区との友好親善と両国の木材産業発展のシンボルとして、1984年4月にカナディアン・シーダー・クラブ(Canadian Cedar Club)を通じて江東区に寄贈された3本のうちの1本で、他の2本は新木場駅前、仙台堀川公園に立てられています。 江東区
新田橋(にったばし)は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
<旧新田橋 諸元>
橋梁形式 一径間ワーレン鋼構橋 ※ 塗装色は護岸工事により架替えられるまで赤系の色が塗られ赤い橋としても親しまれた。
所在地 江東区富岡1-17-13 (深川不動堂)
抑々内陣十六講とは、成田不動信仰十六講社の連合講社にして結成110有余年の歴史を誇り、成田山講社認証第4号なり。
< 成田山内陣十六講 >
所在地 江東区富岡1-17-13 (深川不動堂)
所在地 江東区富岡1-17-13 (深川不動堂) 享年60歳 9代目市川団十郎と並び称された 幕末から明治にかけての名優であり「団十郎名人・菊五郎上手」 などといわれていました。
所在地 東京都江東区富岡1-14 (深川公園) 当繁栄稲荷神社の祭神は京都伏見稲荷大社の御分霊にましまし乃古宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神の三御柱であります。古来五穀豊穣、商賣繁昌、藝能上達の神として世の尊崇敬仰をあつめております。 当神社の起源は今を距ること二百四年前、江戸時代の中期、宝暦7年(1757年)この木場の地に創祀されたのにはじまります。大丸の業祖下村彦右衛門正啓は享保2年(1717年)伏見に創業し寛保3年(1743年)日本橋大伝馬町に江戸店を設けましたが越えて宝暦7年(1757年)深川木場4丁目即ち現在の繁栄橋々畔に貯木場を備うる別墅を営み、その一廓に社殿を造り伏見稲荷大社の御分霊を祀り繁栄稲荷と称したのであります。 祭神の霊験いとあらたかで、地元の木場はもとより江戸一円の信仰をあつめ、3月12、13日の例祭には門前市がたつの大賑わいでその側の堀に架せられた橋もいつしか繁栄橋とよばれて今に伝わっているのであります。 明治43年(1910年)大丸が名古屋店とともに東京店(昔の大丸江戸店)を閉じ木場の別墅も廃したとき社殿は先代根津嘉一郎氏の青山邸に移り同家の嘉栄稲荷の社殿となり、関東大震災(1923年)、第二次世界大戦の空襲にもその災禍から免がれ二百年前のお姿そのままで残ってまいりました。 昭和35年(1960年)5月たまたまその社殿が繁栄稲荷のものであったことがわかり、根津家の御厚意で大丸へ御返譲していただくこととなり、。旧地に接したこの地に境城を卜して昔ながらのお姿を以て本殿、玉垣その他を移築あらたに伏見稲荷大社の御分霊を勧請してお祀りすることになったのであります。 由緒の数々を思い御神徳のいやちこなるに今さら心うたるる次第であります。 昭和36年(1961年)10月吉日
附 陣幕(じんまく)・不知火(しらぬい)顕彰碑二基 日月石(じつげついし)寄附碑 地固め寄附碑 土台石垣 魚かし石柱二本 土台下玉垣 第十二代横綱 陣幕久五郎(相撲博物館 蔵)
この横綱力士碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、江戸時代最後の横綱第十二代陣幕久五郎が中心となり、明治33年(1903年)に建てられました。重量は約五千五百貫(約20t)あり、初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻まれています。
古くから庶民に親しまれてきた相撲は、江戸時代には幕府公認の勧進相撲(寺社修復などを目的に実施)へと発展し、大坂・京・江戸で興行として開催されました。幕府がはじめて江戸での勧進相撲を認めたのは、貞享元年(1684年)の富岡八幡宮境内でした。その後、明和年間(1764~1771)には、春・秋二場所のうち一場所がこの地で開催され、享和元年(1801年)までに本場所31回を数えました。その意味で、富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥地といえます。
偉容を誇る横綱力士碑は、同時期に建てられた陣幕久五郎顕彰碑
平成16年(2004年)2月 江東区教育委員会
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永山
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