東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区亀戸3-6-1 亀戸天神社 (通称 亀戸天神、亀戸天満宮、東宰府天満宮) 江戸時代から学問の神様として信仰を集め、梅や藤の名所として庶民から親しまれてきました。 寛文2年(1662)九州大宰府天満宮の神職が、飛梅の木で菅原道真の像を作り、祀ったのが創建といわれています。 毎年1月24日、25日に「うそ替え神事」が行われ、前年のウソを納め、新しいウソを求めると「凶もウソとなり吉にトリ替わる」といわれており、檜の一刀彫のウソに人気があり、たくさんの人々でにぎわっています。 境内梅園 東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ 御祭神菅原道真公(天神さま)と梅の花のゆかりはあまりにも有名で厳冬の中に凛として咲き誇る姿は古来より多くの人々に愛で親しまれて参りました 当社の梅は藤の花と共に創建当初より名高く社殿や太鼓橋その他多くの句碑・記念碑などに彩りを添えるように咲くところにその趣があります この度社殿正面左右の絵馬掛けの中に紅白梅を一対と東西両参道沿いに新たな梅花を植樹し梅園の整備をいたしました 全体で50種類・約300本の色々な梅花が(2月中旬より3月上旬)にかけて最も美しい時期を迎え境内一円はその馥郁とした香りに包まれ春の訪れを告げてくれます 亀戸天神社 亀戸天神社境内には『鷽の碑』、『弁天社』、『五歳の菅原道真公像』、『御嶽神社』、『石灯籠(太助灯籠)』、『聖廟九百年御忌句碑』、『花園社』、『歌川豊國の碑』、『筆塚』、『御神牛』、『亀戸天神社の楷』、『紅梅殿』、『珺琚先生碑』、『累卵塔碑』、『河野寅吉彰徳碑』、『河野寅吉の碑』、『文房至宝碑』、『福山碧翠翁記念碑』、『梅松両社落成記念三翁句碑』、『中江兆民翁之碑』、『太鼓橋(男橋)』、『太鼓橋(女橋)』、『菅廟種梅碑』、『菅公一千年祭記念碑』、『清水誠の頌碑(燐寸塚)』、『弘前舊藩士龍岬藤林君之碑』、『琴柱灯籠』、『河却圭三之碑』があります。 PR 所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社) 幹はみな老を忘れて梅の花 楳堂 二世、三世ノ肖像ヲ 田鶴年鐫ガ鐫刻ス 合企 豊原■周 豊原國貞 明治26年(1893)11月 三世香朝婁樓國貞の発起により市川団十郎、尾上菊五郎等や錦絵問屋、浮世絵師の補助によって建立されました。 亀戸天神社 所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社) ご祭神は菅原道真公の御奥方で、菅公の父君是善公の門人であり、菅公ご幼少の時の師である儒者の島田忠臣の御女にあらせられ、御名も宜来子と白し、相殿に御子十四方も祀られております。 寛文年中亀戸天神社の創建と時を同じくして九州筑紫(福岡県)の花園の地より勧請、爾来花園神社、花園大明神とも号されて、安産・子宝・育児・また立身出世の神として広く信仰を集めてまいりました。 先の戦災に罹り社殿は惜しくも烏有に帰しましたが、昭和47年(1972)8月23日もとの地に再興されました。 安産御守護・岩田帯安産祈願絵馬は、ご本社でお頒ちしております。 亀戸天神社 所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社) 昭和52年(1977)の御神忌1057年大祭記念として奉納される。 台座に道真公の5歳の時庭前の紅梅を詠まれた和歌を刻す。 美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある 亀戸天神社 所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社) 天神様(菅原道真公)は承和12年(845)6月25日に御誕生になりましたが子の都市が乙丑の年に当り、延喜3年(903)2月25日大宰府の配所で亡くなられたとき、道真公自らの御遺言により御遺体を牛車に乗せて牛に引かせ、牛が止まった所を御墓所と定めてそのところに神廟(現在の大宰府天満宮)が建立されたのも乙牛年のことでした。 讃岐守(香川県)として御在任中農工に勤しむ牛の姿に深い慈愛の心を示され、又、大宰府へ西下の途中牛の鳴き声に刺客から逃れられたり、どこからともなく飛び来たった白牛に危難から救われられるなど天神様と牛とのかかわりは史実や演技に或は伝承を通して伝えられています。その底流には御生誕の年はもとより神廟にお祀りされた年も丑年に当るという御神縁があり、以来牛は天神様の神使(みつかわしめ)、天神様を守護するものとして篤く信仰されています。 社前に臥牛が祀られ、4年に一度御鳳輦渡御祭に黒牛が供奉するのもこれに因ります。 亀戸天神社 所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社) 御嶽神社と菅原道眞公 御祭神 比叡山延暦寺第13代座主 法性坊尊意僧正 御社殿 寛文9年(1669)11月21日に九州太宰府御嶽山より勧請し建立され、古くは亀戸妙義社とも号されました。現在の御社殿は、菅原道眞公御神忌1075年大祭の記念事業の一つとして、昭和51年(1976)に再建されたものです。 祭日 初卯 正月の初卯日 卯日祭 毎月の卯之日 由緒 法性坊は、道眞公(天神様)の数学、御折の師で、道眞公が薨去ののちは太宰府天満宮の社殿造営に関わられ、社前に一念三千の心字池を構えて三世一念の太鼓橋を架けられるなど道眞公とのご関係は殊に深く、よって当宮境内に奉祀されました。法性坊は智徳世にすぐれ、ご在世の内にも奇特多い高僧として知られ、天慶3年(930)2月の卯日の卯の刻に亡くなられたことから、春の陽気を迎える「卯の神」と敬仰され以来月毎の卯日はもとより、特に正月の卯日は、陽気を迎えるはじめとして卯槌、卯の神札を求め、福徳・才智・愛敬を願い、除病・延命を祈りました。 亀戸天神社 所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社) しはらくは 花の上なる月夜哉 芭蕉 <表面> 芭蕉翁 服部嵐雪 桜井吏登 大島蓼太 <裏面> 四世雪中庵完来 夜雪庵普成 葎雪午心 菅原道真公の御神忌900年にあたる享和2年(1802)2月25日 芭蕉門下の人々が芭蕉100年忌にあわせて建立する。 亀戸天神社 所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社) 筆塚は、書家や書道に励む人等が筆の労に感謝するとともに、一層の上達を願って廃筆を納めたものです。 当宮では、「宮居に遠き人之為に、吉書初め(書初め)に用筆を文政4年(1821)より毎年12月朔日から晦日迄出す」と伝えられ、今も「梅ヶ枝筆」を授与しています。特に、天神さまの御忌日 2月25日には神苑の梅の木で調製した筆を授与いたします。 筆塚祭(書道上達祈願祭)毎年7月25日執行 廃筆、清書の焼納(おたきあげ)を行います。 亀戸天神社 所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社) 寛文5年、太宰府天満宮(福岡県)心字池畔に鎮まり座す志賀社を勧請したのを始めとしますが、時代の推移と共に、七福神の一つであり無量の福徳を与える弁財天(水の神・音楽の神)の信仰と習合し、一般には弁天様と親しまれて、福徳福智を増し天災地変を消除する開運出世・芸能成就の神として信仰されてきました。その間幾度か災害に罹りその都度復興されましたが、近年殊に社殿の破損も著しく、菅原道真公御神忌1100年大祭に伴う記念事業に併せ、地元宮元会役員一同を始めとする崇敬者各位の御奉賛により、装いも新たに修復されたものであります。 平成13年(2001)12月1日遷座祭執行 亀戸天神社 所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社) 楷(別名トネリバハセノキ 爛心木) 中国(支那)原産のウルシ科の落葉高木で、曲阜の孔子廟に弟子の子貢が自ら植えたと伝わり、幹も枝もまっすぐのびるのが特長である 大正4年(1915)白沢保美博士が、その種子を中国から持ちかえり苗に育てたのが、わが国に渡来した初めといわれる 楷は、雌雄異株である上、各所に分散しているために、また花が咲くまでに30年余要するということから日本では種子を得ることができなかった この楷は、昭和45年(1970)秋金沢文庫(神奈川県)にある雌木から人口交配により得た種子が、翌年春発芽したものである 献木 昭和48年(1973)10月 服部一殿 亀戸天神社 所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社) 鷽の縁起 筑前の太宰府天満宮御やしろに毎年正月七日うそかへといふ事あり四方のさと人木のえだ其ほかのものをもてうそとりの形をつくり持きたり神前において互にとりかへてその年の吉兆をまねくことになん是やいまゝでのあしきもうそとなり吉(よき)に鳥かへんとのこゝろにてうそがへといふ元より此おん神の託(つげ)によりて始れり直き心をもてすれば誠のみちに叶うべしここに亀戸天神社はつくしのうつしなれば文政三年この事を始めて毎年正月二十四日五日うそ鳥の形をつくり境内においてうつしむれば 信心の人々はかひ求めて神前にあると鳥かへなばかけまくも賢(かしこ)き神の御心にもかなひ開運出世幸福を得べきになり 亀戸天神社 所在地 江東区亀戸3-41 江東区登録史跡 入神明宮跡 入神明宮は、小高く盛り上がった塚の上に建てられた神社でした。由緒は、昔、このあたり一帯が海で、海上を往来する船の安全のために神明宮が祀られたといわれています。神木の榎は、枯れたときに「天下太平」の文字の虫喰いが生じたので太平榎と称し、また漁師が網を干したところから網干榎とも呼ばれました。 江東区は、大部分が江戸時代以降の埋め立てで、古くは、亀戸のあたりに亀の形をした島があったと伝えられています。明治40年(1907)、このあたりから中世初頭の漁網のおもり(土埵)が発見され、当時、すでに人々が暮らしていたことを物語っています。 明治に入り、天祖神社と改称しながらも、永く当地に祀られていましたが、昭和62年(1987)に香取神社(亀戸3丁目)に合祀されました。 平成2年(1990)3月20日 江東区教育委員会 『江戸名所図絵』(江東区教育委員会蔵) 所在地 江東区亀戸3-39先 (祐天堂) 木下川やくしみち道標 高さ71センチのこの道標は、ここ境橋から、木下川薬師堂(葛飾区東四ツ木1丁目)へ至る木下川薬師道(現在の仲居掘通り)を示すものです。 刻銘は、正面に 木下川 やくしみち 右側面に、 本石町 賽暦十一年辛巳孟春 左側面に、 あつまもり あつまもりとは、吾妻権現社のことで境橋を渡った右手、北十間川沿いにありました。本石町は日本橋の町名で、この道標の建てられた賽暦11年(1761)頃には、きっと江戸町人の参詣が盛んだったことがうかがえます。 亀戸3丁目宮元町会 祐天堂保存会 所在地 江東区亀戸3-39先 六字名号供養塔 伝 祐天書 祐天堂由来 昭和41年(1966)に設けられた当時の説明板等に拠りますと、その由来は、元禄年間に祐天上人が千葉方面に往来の途中、この付近の川の中や川岸に多くの水死者のあるのを見て、非常に心を痛め、その霊を懇に回向されました。 その際に、これらの仏に戒名を与え祐天上人、自らが筆を取って石にその戒名を記された供養塔をここに残されました。 後年、この供養塔を奉った祠が、この祐天堂であります。 それ以来、この付近では水死者もなく、またこの付近の子供たちが水辺で遊んでいても溺れたためしが無かったと言い伝えられ、この付近に住む人々によって、水難除、安産、子供の守護の祠として崇め奉られ今日に至ります。(近年では、この祠に、交通安全祈願をなさる方も多いと聞きます。) また、毎年7月24日を由縁の日と定め、祐天上人の遺徳を仰ぎ精霊の供養を営む日と定められてまいりました。 亀戸3丁目宮元町会 祐天堂保存会 祐天堂地内には『木下川やくしみち道標』があります。 所在地 江東区亀戸3-40、50~53付近 江東区登録史跡 梅屋敷 梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。もとは本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵としていましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、8代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々でにぎわい、その様子は『江戸名所図会』『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。歌川広重はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、とくに「名所江戸百景」の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。明治43年(1910)、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。 ここに残る石標柱は、江東区創立10周年を記念して、昭和33年(1958)に建てられたものです。 平成21年(2009)3月 江東区教育委員会 歌川広重「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」(国立国会図書館所蔵) 所在地 江東区亀戸3-42-1 天台宗 亀命山 遍照院 光明寺 光明寺は天台宗で、亀命山遍照院と号し壮健は弘治元年(1555)と伝えられています。 境内には、寛永5年(1628)という区内でも古い年号をもつ宝篋印塔、延宝4年(1676)の庚申塔、越後国(新潟県)新発田藩主溝口宣広奉納の寛永寺旧蔵石造燈籠、役者絵・美人画に独特の境地を開き、浮世絵の第一人者と賞された二世歌川豊国(国貞1786~1864)の墓などがあります。 光明寺境内には『二世歌川豊国墓』があります。 所在地 江東区亀戸4-11-19 水神社(亀戸水神宮) 日本國水神さまと言はれているお社は、恐らく数百社の多さに達するであろう。 この神は普通一口に水神さまと呼ばれている。「そのほんとうの神名を知っている人は少ないと思う。 この神は「ミズハノメ神」であって、古事記には「弥津波能売神」と書き、日本書紀には「岡象女神」と書かれていて、伊装那岐伊那美ニ神の御子神を畏れて天照大神の御姉神に当らせられる。 父母の神は、我大八洲國を造り給うた國土経営の神であって、あらゆる神徳を備えられているが、この中特に「水」に関する一切の御神徳と受けて居られるのが、この水神即ち、「ミズハノメ神」である。 この水神宮は前記の御祭神を奉祀し、新田開墾の初め土民が堤上に水神を勧請して水害を逸れん為祈願したものでありその創立は享禄年間(約440年前)であると思われる。 昭和53年(1978)6月 亀戸水神奉賛会 水神社境内には『水神森若人の歌碑』があります。 所在地 江東区亀戸4-11-19 (水神社) 水神森若人の歌碑 作詞 田中■■■ 1. 水神森の 若者は 御名を尊び 頂いて 明るく清く 誠心で 家業に励み 誇あり 2. 水神さまの 神徳は あまねく今も 照すなり 我等若人 皆共に 心豊かに 希望あり 3. 水神宮の 信仰者は 老も若きも 幼きも 神の御加護に つつまれて 永久にかがやき 栄あれ 所在地 江東区亀戸4-24-1 真言宗智山派 明王山 東覚寺 東覚寺派享禄4年(1531)玄覚法印の創建と伝えられています。明治34年(1901)覚王寺を合併しました。覚王寺は猿江2-15付近にあり、府内88ヶ所霊場第73番札所で、それを示す碑が東覚寺に残されています。 当時の不動明王は、東大寺別当良弁(689~773)の作で、大山寺(神奈川県)本尊と同木同作といわれ、江戸時代より亀戸不動として信仰をあつめてきました。 亀戸七福神のひとつ(弁財天)として親しまれています。 東覚寺境内には『不動明王標柱』、『是心軒一露居士碑明治32年在銘』があります。 亀戸七福神 弁財天 所在地 江東区亀戸4-35-12 (宝蓮寺) 正木ひろし墓碑
弁護士、正木ひろし(旲)は、1896年(明治29年)9月29日、東京・本所で義氵旲よしきよの二男として生まれる。1923年(大正12年)東京大学法学部を卒業。中学の英語、美術の教師、雑誌記者を経て弁護士を開業。反権力、正義の弁護士として多くの冤罪事件を手がけ、日本のペリーメイスンといわれた。主な事件は、チャタレー裁判、菅生、首なし、丸正事件などで、八海事件は「真昼の暗黒」の題名で映画化された。
また、戦時中は月刊誌「近きより」を個人で発行して反戦、反軍国主義の論陣をはり、多くの著書も残した。熱烈な無教会派のキリスト徒で、美術を愛し画家になることが「生来」の夢だった。1975年(昭和50年)没79歳。当寺は正木家の菩提寺。墓碑の「正木ひろし」は直筆で、墓石は岩手県の橋本八百二画伯から寄贈された紅石である。正木ひろし先生没後20周年記念事業の一環として、ここに建立する。 1995年(平成7年)1月 施主 広島市 朝川広男 和光市 菊地清孝 同 菊地文代 |
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プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
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