東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区亀戸3-34-2 (龍眼寺) 江東区指定有形文化財(彫刻) 木造聖観音菩薩立像 一躯 平成12年(2000)3月27日指定 聖観音菩薩立像は龍眼寺の本尊です。像高は104cmで、一木から頭・体を木取りした後、干割れを防ぐためにそれぞれを前後に割り、内側をくり抜いて再び接合した割矧造りです。頭部は耳後ろで前後の材を矧ぎ合わせ、胴体に差し込まれています。 本像は東武に宝髻を結い、左手は臂を曲げて胸前で蓮華をとり、右手は軽く臂を曲げて下げ、蓮華座上に腰をひねって立っています。像容は顔がまるく穏やかな表情がうかがえ、着衣は浅い彫りのなだらかな起伏によって表現されており、ゆったりとしています。 本像は江東区にとっては数少ない平安時代末期から鎌倉時代初期の作と考えられ、たいへん貴重です。 平成14年(2002)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区亀戸3-57-22 亀戸香取神社 亀戸七福神 大国神・恵比寿神 香取神社は、社伝によれば665年の創建で、藤原鎌足(614~669)が亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請し旅の安全を願ったのが始まりといわれ、以来亀戸村の総鎮守として信仰を集めています。 平安時代の中期、関東で起こった平将門の乱(935~940)を平定した藤原秀郷が、戦勝の返礼として弓矢を奉納した故事にちなみ、毎年5月5日に勝矢祭が行われています。 亀戸七福神のうち恵比寿・大国神で親しまれています。 御祭神 経津主神 相殿に武甕槌神・大己貴神 香取神社の御祭神経津主神は千早振る神代の昔天照大神のご命令により、鹿島大神と共に豊葦原瑞穂国(日本の国)の平定に手柄を立てられた威霊優れた国家鎮護の神として仰がれる我国武将の祖神であります。然も御本宮が神武天皇の御代に東国下総に鎮座されましたことは非常に意義あることで、日本国の守護を固めた事になり、更に農業に深い関係があり、国土開発に多大の功績のあった産業の祖神でもあります。 故に大和朝廷におかれても殊に崇敬が篤く、中臣氏(後の藤原氏)は香取・鹿島両宮を氏神として忠誠を捧げ崇敬を尽されたのであります。 当社の創立は天智天皇4年(665)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の単体を祈り神徳を仰ぎ奉りましたのが創立の起因であります。 天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平げたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名されました。現在でもこの故事により勝矢祭が5月5日(武者行列)に執り行われております。 以来益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、御神徳が四方に及びましたので、葛飾神社香取太神宮と称え奉るに至りました。 元禄10年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡十二社の中にも数えられております。 亀戸香取神社境内には『亀戸大根之碑』、『亀が井(亀ヶ井)』、『紙本淡彩道祖神祭図 歌川広重筆 一幅』、『水神社・三峯神社・熊野神社』、『稲足神社』、『福神社』、『天祖神社(入神明宮)』、『木遣音頭碑』があります。 所在地 江東区亀戸3-57-22 (亀戸香取神社) 稲足神社 一、御祭神 面足神・惶根神・相殿に金山毘古神・宇賀御魂神 一、例祭日 9月15日 一、御由緒 寛文9年(1670)創立 明治以前は普門院の主管であったが明治元年(1868)香取神社神職の奉仕となる。明治35年(1902)香取神社隣接地に所在していたが境内に移転。 琴平神社は宝暦年間香取12代神職香取政幸の鎮祭する処で稲荷神社は元渡辺稲荷神社と称え明治12年(1879)当社に合祀 一、御神徳 供に産業発展・家運隆昌の御神徳あらたかである。 所在地 江東区亀戸3-57-22 (亀戸香取神社) 亀が井(亀ヶ井) 亀戸を代表するか執り神社は、壱千参百有余年の歴史を誇り、古くは藤原鎌足公を初め多くの武将や土着の人々の篤い崇敬を受け郷土の守護神として今日に至っております。 この度、亀井殿地名の起りとされている亀が井戸を再興し、併せて恵比寿様・大国様の石像を祀り、この井戸の聖水を掛けながら参詣する人々が御神徳を戴き明るく健康で楽しい生活が出来ますようにと願い、氏子・崇敬者を初め多くの皆様方のご協賛により建立いたしました。 平成15年(2003)4月吉日 香取神社 宮司 香取邦彦 所在地 江東区亀戸3-57-22 (亀戸香取神社) 亀戸大根之碑 このあたりで大根づくりが始まったのは、記録によると文久年間(1861~1864)の頃とされ、当香取神社周辺が栽培の中心地で、明治時代にかけて盛んに栽培されてきました。 当地は荒川水系によってできた肥沃な粘土質土壌であったため、肉質が緻密で白く冴えて肌の大根づくりに大変適していました。 亀戸大根は、根が30cm程度の短い大根で、先がクサビ状にとがっているのが特長。 明治の頃は「おかめ大根」とか「お多福大根」といわれましたが、大正初期になって産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。しかし、宅地化が進んだ大正時代の終り頃から産地は江戸川区小岩や葛飾区高砂などに移っていきました。 秋から冬にかけてタネをまいて早春に収穫となる亀戸大根は、当時は他に大根などの全くない時期で、新鮮な野菜の出始めの頃なので根も葉も共に浅漬けにして美味しいことから、江戸っ子から大いに重宝がられました。 平成9年度JA東京グループ 農業共同組合法施行50周年記念事業 THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO Kameido Daikon Cultivation of Daikon (Japanise radish) in this destrict dates back to the years 1861-1864.With its center around the area of this shrine,it had been abundantly grown toward 1900s.The fertile clay soil formed by the Arakaw River was just fit for its production. Sown in fall to winter,the Kameido Daikon was harvested and shipped in early spring when th supply of fresh vegetables became scarce.Root and leaves were all eaten as fresh tasty pickles and relished by all th Edoites. 所在地 江東区亀戸3-57-22 (亀戸香取神社) 江東区指定有形文化財 紙本淡彩道祖神祭図 歌川広重筆 一幅 道祖神祭図は、本紙を掛軸に表装したものです。本紙は縦33.6cm、横40.6cm。表装は縦158.0cm、横47.0cmです。 香取神社の道祖神祭は、毎年正月14日、氏子の子供たちが宝船をかつぎ、亀戸から両国の辺りまで練り歩いたもので、享保のころから始まり、明治初期まで続きました。その光景は『江戸名所図会』の挿し絵に載せられ、『東都歳時記』にも記載されています。本図は人物や宝船を墨で描き、朱、青で淡彩を施しています。作者は浮世絵師・歌川広重(1797~1858)で、嘉永5年(1852)以降、広重の円熟期に描かれた作品とみられます。 本図は、江戸時代の香取神社の古い行事の様子をよく伝え、作者が著名な広重であること、また戦災を免れて区内に伝えられたことなどから、貴重な作品といえます。 平成9年(1997)9月 江東区教育委員会 所在地 江東区亀戸3-57-22 (亀戸香取神社) 水神社 一、御祭神 水波能女神 一、例祭日 6月15日 一、御由緒 天明6年(1787)香取神社13代神職香取正武がその年の洪水を記念し災害防止氏子住民の安体を祈願し石祠をもって建設した。江戸名所絵図にもみえる。 三峯神社 一、御祭神 國常立命・伊弉諾尊・伊弉冊尊・日本武尊 一、例祭日 1月19日 一、御由緒 享保年間(1716~1735)の創立。有名な亀戸梅屋敷園主 安藤喜右エ門が園内にお祀りしていたのを明治の末当、香取神社に移した。 火防・盗難除の御利益あらたかで梅屋敷講を受継いだ亀戸三峯講の多くの崇敬者もふえ近年本社参詣も盛んである。 熊野神社 一、御祭神 家津御子大神ほか天神地祇十三社 一、例祭日 8月10日 一、御由緒 熊野の神の総本社で曾ては「蟻の熊野詣で」の諺通り貴賎老男女をとわず全国から参詣者があつまり信仰絶大にして盛況を極めた。 当社は元梅屋敷隣りの北の方に位し、熊野入りと称して亀戸村の水利を司どっていた。 大正13年(1924)北十間川通りが拡張されるに伴い香取神社の境内に移転鎮祭した。 所在地 江東区亀戸3-57-22 (亀戸香取神社) 天祖神社(入神明宮) 一、御祭神 天照大御神(伊勢神宮の御宮内) 一、例祭日 9月15日 一、御由緒 昭和63年(1988)の香取神社改築に伴い移転され境内神社として祀られるようになった。 当神社の創立は江東宮内では最も古く口伝によるとこの地が四辺海に囲まれていた頃漁船がしばしば風浪の危難に会う毎に伊勢の大神を祈念すると災害を免かれたという事で太平榎塚に小祠を営み鎮祭されたという。江戸名所図絵に書かれている神明宮は当社である。 尚境内から多量の硾が出土(明治40年〔1907〕)し考古学的にも有益な資料とみることができる。現在香取神社にて保管。 所在地 江東区亀戸3-57-22 (亀戸香取神社) 福神社 一、御祭神 亀戸七福神 事代主神(恵比須神) 大国主神(大国神) 一、例祭日 10月15日 一、御由緒 元々御本社の相殿に奉賽されていた大國主神と併せて明治年間に至り七福神の内の恵比須大国神として境内に鎮祭した。 事代主神は大國主神の御子神である。正月ともなると亀戸七福神の内恵比須大国様として多くの参詣を得ている。 一、御神徳 富徳円満・商売繁昌の守護神として御神徳あらたかである。 所在地 江東区亀戸2-6 亀戸銭座跡 この付近に幕府の鋳銭所がおかれ亀戸銭座と称し寛文8年(1668)から明和6年(1769)まで各種の寛永賽銭を鋳造しその銭のおもてには寛永通賽 うらには文の字のあるものや二十一本または十一本の波模様のあるものなどがある 昭和33年(1958)10月1日 所在地 江東区亀戸2-6 日清紡績創業の地碑 日清紡績株式会社は明治40年(1907)1月創立後、東京府南葛飾郡亀戸町の当敷地2万余坪に、最新鋭設備を誇る本社工場を建設した。 最盛時には、紡機107、800錘、織機360台を擁した本工場は、昭和16年(1941)軍の要請により陸軍被服本廠が使用するに至るまで、45年に亘り主力工場として綿糸布を生産し、広く内外の需要に応えると共に、幾多の人材を輩出した。 この間明治43年(1910)の三たび横十間川の洪水で浸水し、大正12年(1923)には関東大震災に遭ったが、従業員の献身的努力によりこの職場を守り得た。 昭和20年(1945)大戦下の空襲により焼土と化したが、運動場として整備し主として勤労青少年の体育に寄与してきた。偶々昭和42年(1967)東京都浄水場、日本住宅公団用地として提供するに至り、当社の手を離れた。 今般この地に記念碑を建立し会社創業関係者の遺徳と、生死苦楽を共にした多数従業員各位の功績を偲ぶものである。 日清紡績株式会社 昭和46年(1971)5月建之 所在地 江東区亀戸6-1 旧千葉街道跡碑 江戸時代、千葉方面へ向かうには、「元佐倉道」と呼ばれた、旧千葉街道が重要なルートでした。今では堅川の北岸沿いに通じるひっそりとした細い通りです。 この旧千葉街道は、本所から堅川の北岸に沿って東に進み、中川を逆井の渡しで越えて西小松川から一直線に小岩の関所に通じていました。 公園のあるこの辺りは、見渡す限り、アシ原や田んぼの続く低湿地で民家はぽつぽつと点在するくらい。サギやツルの仲間をはじめ、日本の空から消えてしまったトキやコウノトリなどの大型の水鳥もたくさん住む、のどかな田園地帯でした。旧千葉華道から南を見渡せば堅川を越え、遠くに「さざる堂」で江戸中の評判を集めていた羅漢寺がありました。 旧千葉街道は両国橋から堅川の北岸沿いに東へ通じ千葉方面にいたり江戸時代から佐倉道と称し、江戸と千葉方面を結ぶ重要な陸路であったが明治時代からの市区改正事業などにより元愛の国鉄総武線に沿った新しい千葉街道が建設されるにいたった 昭和33年(1958)10月1日 江東区第17号 所在地 江東区亀戸6-8-10・17~22 占風園跡 占風園とは、近江国(滋賀県)仁正寺藩市橋氏の下屋敷の雅名です。昔、この近辺は「本所五ツ目」と呼ばれましたが、市橋氏は、この地に下屋敷5千6百坪を拝領していました。 『葛西志』によると、占風園は寛文期(1661~1673)に造営され、元禄期(1688~1704)の修築で景勝が整えられたといいます。広大な「釣月池」を中心に、周囲に築山、橋、茶屋をめぐらした回遊式の庭園で、その景色を題材にして元禄7年(1694)に「占風園十勝詩」が詠まれ、他にも「占風園十七詠」などの和歌が残されています。享保5年(1720)7月29日には、将軍吉宗が鷹狩りの際、雨宿りに立ち寄っています。また、『東京市史稿』遊園篇第二には、文化9年(1812)に藤原祐壽が描いた占風園の四季の図があり、その美しい風景の様子をよく伝えています。 平成11年(1999)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区亀戸1・6~大島2・3 五之橋(五の橋) 五之橋の下を流れる堅川は、万治2年(1659)本所築立奉公であった徳山五兵衛重政及び山崎四郎左衛門が、大横川、横十間川と共に新田開発を目的として開削した用水路であった。 堅川の開削に合わせ西の方から、一之橋を始めとして5つの橋が架けられた。当時この付近は、畑地が多く、人の往来も少なかった。 御府内備考によれば、「御人用無益之場所」として、貞享元年(1684)、本橋は取り払われ船渡しとなったと言われている。 元禄8年(1695)、五百羅漢寺が建立されたため、この渡しを利用する者も多くなり、「羅漢の渡し」や「五ツ目の渡し」と呼ばれ人々に親しまれてきた。 その後、明治12年(1879)に本橋が架けられたが大正12年(1923)の大震災により落橋した。 震災復興により昭和3年(1928)本橋は銅橋に架け替えられた。 戦災にも耐えた本橋は老朽化には■■■、昭和50年(1975)再度架け替えられた。 親柱は震災復興記念として現在も残されている。 亀戸、大島地域の発展に大きな役割を果たしたこの橋は、昭和63年(1988)東京都著名橋に指定された。 平成4年(1992)3月 所在地 江東区亀戸6-47 (亀戸平岩公園) 稲荷神社 この地は徳川家康の家臣であった平岩家の先祖が、三河より徳川幕府に従って江戸の居を定めてから、大正の中頃まで、約300年にわたって平岩家代々の居所であった。幕末より明治にっけて竹問屋として名を成した、6代目平岩甚助の死後、昭和16年(1941)に、楠にかこまれた広大な敷地内にあった1000坪の池が埋めたてられ、その一部約340坪が公園として東京市に寄付された。その後昭和25年(1950)に東京都より江東区に移管され現在に至る。現存する稲荷神社は古くから祀られていたものを元の築山の上に移したものである。 平成元年(1989)11月改修にあたりこれを記す平岩 |
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