東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区猿江1-1付近 猿江船改番所跡 猿江船改番所は、小名木川と大横川が交差する所の猿江側に、元禄から享保期(1688~1736)頃に設置されました。 小名木川は江戸への物資輸送の重要な交通路であったため、とくに江戸の町を守る必要上、江戸時代の初め、万年橋北岸に通船改めの番所が置かれました。その後、中川口へ移転し、中川船番所として利根川水系や房総方面と江戸の間を航行する川船を取り締まっていました。猿江船改番所は中川番所とは別に、川船行政を担当する川船改役の出先機関として設置されたものです。 幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入りする船には川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていました。そのため新たに船を造ったり、売買によって持ち主が替わった場合などは届け出が義務づけられていました。猿江船改番所の仕事は船稼ぎを統制することにあり、こうした年貢・役銀を徴収したり、川船年貢手形や極印の検査を行っていました。 この他江戸市中では、浅草橋場(台東区)に同様の番所が設置されていました。 平成6年(1994)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区猿江1-11-15 (重願寺) 関根正二墓 関根正二は、若くして世を去った天才的な画家です。 明治32年(1899)に福島県西白河郡大沼村(白河市)で、9人兄弟姉妹の第4子二男として生まれました。明治40年(1907)に関根家は正二だけを残して上京し、正二も翌年上京して猿江に住み、東川小学校に通いました。大正元年(1912)に小学校を卒業すると、近くに住む伊東深水の紹介で東京印刷株式会社図案部に勤め、夜は夜間中学に通いました。翌年より、深水の勧めで画を描き始めました。 大正4年(1915)、16歳の時、第2回二科展に「死を思ふ日」を出品し入選しました。以後、毎年二科展で認められ、第5回二科展で、「信仰の悲しみ」「姉妹」「自画像」が入選し、樗牛賞を受賞しました。 若手の才能ある画家として、将来を期待されましたが、大正八年(1919)6月、肺結核のため、21歳の若さで亡くなりました。 現在は、正二の姉の嫁いだ奥田家の墓に埋葬されており、戒名は「覚誉道順信士」です。 平成8年(1996)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区猿江2-5-14 猿江稲荷神社 法華宗(本門流)本覚山妙壽院を務める猿江稲荷社は、「御府内備考」続編によりますと、その鎮守稲荷の御神体は「猿藤太木像」であります。 さらに縁起について、 武州葛飾郡猿江村稲荷大明神略縁起仰稲荷大明神ト奉申ハ本地久遠成道ノ釈迦仏也 と記され、本地久遠成道の釈迦仏とは法華経に説かれた教主釈尊で、法華の題目によって祀られた稲荷社であったことがわかり、現在も氏子妙壽会をはじめ遠近のご信者の篤い信仰を集めております。 法華宗本覚山 妙壽寺 (現在 世田谷区北烏山) 所在地 江東区猿江2-16 五百羅漢道標 五百羅漢道標は、五百羅漢寺への道筋を案内する道しるべです。かつては、現在地より50mほど東にあった庚申堂の前に、川に面して建てられていました。正面には「是より五百らかん江右川[ ](通) 八町ほど先へ参り[ ](申)」、右側面には「此横道四ツ目橋通り亀戸天神□」とあり、亀戸天神への道も示しています。 造立年代は不明ですが、左側面の銘文により享保16年(1731)、寛政9年(1797)、文化2年(1805)の計3回再建されたことがわかります。現在の道標は文化2年(1805)に再建されたものです。 五百羅漢寺とは、明治20年(1887)まで現在の大島4-5付近にあった、天恩山五百阿羅漢寺(現在は目黒区に移転)のことです。堂内に安置された536体の羅漢像やらせん状の廊下をもつ三匝堂(通称さざえ堂)が有名で、亀戸天神と並び多くの参詣客を集めました。 この道標は、川沿いの道を歩く人はもちろんのこと小名木川を船で訪れる人の目にも留まるように建てられていました。陸上と水上の両方の道を対象とした、水路の恵まれた江東区ならではの文化財です。 平成19年(2007)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区猿江2-16 五本松跡 江戸時代この付近から東にかえて小名木川の河畔に老松があり小名木川の五本松として有名となり地名ともなったほどであってその一本の松が■鬼家の屋敷から道をこえ水面を覆っている風景が江戸名所図会に描かれ、錦絵などにも取材されたが明治時代にいたって枯れてしまった。 所在地 江東区猿江2-16先 釜屋堀子育地蔵堂 大島橋が最初に架けられたのは、元禄13年(1700)で、場所は今より南の横十間川が小名木川に合流するところであった。小名木川に沿っていた行徳道をつなぐ役割を果たしていた。現在地に移されたのは、昭和2年(1927)7月のことである。 この付近は、かつて鋳物師の釜屋六右衛門・七衛門の工房があり、多くの名作が生み出された。五百羅漢寺(大島4丁目付近)への参詣の道でもあり、釜屋堀子育地蔵堂には、「五百らかん道標」(文政12年〔1829〕)が残っている。 所在地 江東区猿江2-2-17 猿江神社 伝承として、昔、康平年間(1058~1065)源頼義が奥州征伐(後三年の役)の頃、この附近の入江に、勇々しき戦武士の屍がただよい着き、不思議にも、其の屍より、毎夜光明を発し村人この屍を叮重に葬る 武士の鎧に源頼義の臣「猿藤太」と記しあり、又、懐中より有難き経文一巻がいでたり、よって村人「猿藤太」の頭文字と入江の「江」をとりて、猿江稲荷と尊称し、近郷近在の守護神となし、村落の敬神の地として仰ぎ奉り、豊作祈願、病気平癒、悪病退散等のこの地の氏神社として祭り、又それより地名をも猿江村と称えはじめ現在に至れり 正に猿江の地名これより発祥せり 尚、当時、この村落の氏神社である猿江稲荷神社は、古来より「天照大御神」「宇迦之御魂神」とを御祭神としていたが武人猿藤太の御霊をも合せ加え、代々お祀り申し上げて参りました 江戸時代は猿江稲荷神社と称し隣接せる、日蓮宗寺院本覚山妙寿寺のじゅうしょくが代々、守護管理を司どっていたが明治以後、近年になり、神保宮司を祭官として招き、合せて村、町、の発展と共に町内氏子の者達が、神社の護持運営にあたり現在に引き継がれた次第であります お恵み(ご利益)としては、家内安全、病気平癒、商売繁昌、心願成就として霊験あらたかなり 昭和61年(1986)丙寅8月吉日 文筆者 堀江侯雄 稲荷社 猿江神社には『猿江地名発祥之地碑』、『水盤』、『石造燈籠』、『藤森稲荷神社』、『馬頭観音社』があります。 所在地 江東区猿江2-2-17 (猿江神社) 猿江地名発祥之地碑 源頼義・義家(八幡太郎義家)父子による奥州遠征(前九年の役)に於いて、数々の奉勝をたてた家臣に『猿籐太』(さるのとうた)と云う武将がいた。武勇の士と讃えられる人物であったが、此の地の入江にて力尽きてしまった。 これを知った地元の猟師達が、当社の境内に塚を建て手厚く祀ったという。此に因んで猿藤太の「猿」と入江の「江」の字を取り結び「猿江」の地名になったと伝えられてる。以上の縁起を後世に遺すために、茲に顕彰の碑を建立したものである。 平成18年(2006)12月吉日 宮司 神保恵一 所在地 江東区猿江2-2-17 (猿江神社) 藤森稲荷神社 創立不詳ながら、江戸時代初期には本所(墨田区)横綱町の江戸幕府御用材木蔵に、すでに祀られていた。 享保19年(1734)御用材木蔵と共に猿江の地(現在の猿江恩賜公園)に遷座された。明治以降は宮内省所管とない、この頃から猿江神社の宮司家により祭祀奉仕がなされている。 亦、社殿が藤の木で囲まれ、毎年花の咲く季期に祭礼が行われていた事から、何時しか藤乃木魂を祀る「藤森神社」と称され、400年余に亘り木材作業に従事する人々の厚い信仰を享けてきた。 昭和52年(1977)春、東京都の都市計画による猿江貯木場の移転に伴い、現潮見駅前に遷座されるが、平成13年(2001)12月崇敬なる旧東京官材協同組合会長氏橋幸次郎氏及び東京広葉樹連合会々長長谷川健治氏他関係者氏の総意尽力で再び縁深きこの猿江の地に戻り、猿江神社の境内に安宮鎮座される。 江戸時代より木材の守護神として商売繁盛、工事作業安全のご利益があるとされている。 尚、石燈篭一対(弘化5年〔1858〕)・石水盤(貞享3年〔1686〕)は、区の有形文化財である。 宮司 神保恵一 謹書 所在地 江東区猿江2-2-17 (猿江神社) 馬頭観音社 馬頭観音とは密教系の進行である六観音の内、ヒンズー教の神、卑紐拏(びしゅぬ)が馬に化身して、魔物に奪われた聖典を取り戻したという説話が起源とされる。馬が周囲の草を食べ尽すように、一切の煩悩を打伏すといわれ、日本では奈良時代以降に信仰され、身近な動物への無病息災の民間信仰と共に江戸時代には旅の道中の安全、家畜の守り神として広く流布されるようになった。 当社は創立不詳にて、長期境内に埋没していたが、昭和60年(1985)、「氏神と共に境内の馬頭観音を崇拝せよ」との告言により再び御姿を現わされ、人々の厚い信仰を享けている。 形容は馬頭観音の刻印の上に馬の絵が彫られ、馬方の絵の石と併せた、大小一対の珍しい石碑で、研究者より注目されている。 心願成就、旅行・交通安全のご利益もあるとされ馬に関わることから競走馬関係者の参拝も多い。又、近年前途の由来よりペットの無病息災祈願も増えている。 〔勝守〕人生・勝負に勝つ 〔馬頭観音守〕授与致します |
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永山
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