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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区亀戸9-15-7 (亀戸浅間神社)

 富士せんげん道道標 享和元年在銘
 この道標は、浅間神社、亀戸天神社、常光寺(六阿弥陀)、浅草へ至る道しるべです。享和元年(1801)10月、良歓が願主となり、本所六ツ目の地蔵講中が建てました。堅川沿いの佐倉街道と、浅間神社に至る道との分岐点に、正面を東に向けて建っていたと推測されます。
 投じの絵図に見られるように、浅間神社から北西方向に道なりに進むと水神社に行き当たり、左手に折れると亀戸天神社へ、右手に折れると常光寺に至ります。浅草へは、常光寺から北十間川沿いの道をたどったものと思われます。
 道標は角柱型で、頂部は若干盛り上がっています。正面の緑・両側面・背面はノミ切り仕上げで、一定の幅でノミ筋を残しています。正面中央は一段低く彫り、表面を砥石による磨き仕上げとして、銘を刻んでいます。
 道標は、浅間神社ほかへの江戸時代以来の古い参詣道を示すとともに、江東区域の名所を表示するものとしても貴重な石造物です。また、近代以降、道の改変が行なわれていることから、江戸時代以来の古道を確認するための手がかいを与えてくれる、地域の資料として重要なものです。
 平成23年(2011)1月 江東区教育委員会

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所在地 江東区亀戸9-15-7 (亀戸浅間神社)

 敷石及修繕費奉納碑 有形文化財(歴史資料)
大正5年(1916)在銘




所在地 江東区亀戸9-15-7 (亀戸浅間神社)

 六ツ目地蔵尊 有形民俗文化財
庚申塔 元禄10年(1697)在銘
法華経供養塔 元禄14年(1701)在銘
供養塔(破損仏)伝馬頭観音
地蔵供養塔 天明2年(1782)在銘
地蔵供養塔 当社庵主一畳在銘
地蔵供養塔
観音供養塔 安永8年(1779)在銘
如意輪観音供養塔

























所在地 江東区大島5-39-26

 大島稲荷神社
 鎮座地
(旧)東京府武蔵國南葛飾郡大島村
東京都江東区大島5丁目93番地
 神社名
大島神社 大島稲荷神社
 御祭神
京都伏見稲荷大社の御分霊
 合祀神社
宇迦能魂神(浅草光月町立花公の邸内社芸術、俳句)
迦具土之命(愛宕神社、延命長寿)
 境内社 
佐竹神社(神官、学問)
 御由緒
和銅4年(707)元明天皇大和朝廷時代(蒼稲魂神)が轟く雷鳴とともに、2月初午の日、初めて伊奈利山の験の杉に降臨してから、稲荷信仰として始まると云う。朱雀天皇の天慶5年(蒼稲魂神)に正一位という最高の神位階に昇られました。明正15年江戸時代ご創建と当神社伝えられる。由来同地は、海辺又は小名木川より近く、数度の津波等により、耕地の荒廃甚だしきため、又悪疫もはやり、村人相謀りて山城の國、伏見なる稲荷の御分霊を此の地に、奉還して産士神として、災を除き、衣、食、住、福を授け家内安全、出世開運あらゆる産業の大祖神として、御神威高く輝き大島神社と称え、爾来開拓國造営の守護神のご神徳が果しなく拡がり続いて、しかも、如何にご利益或るかを強く物語るもので、崇敬拝厚きも深く受、鎮守様として仰がれたり。
 俳人 松尾芭蕉 句(秋に添て 行はや末は 小松川)
 俳人 小林一茶 句(水売の いまきた顔や 愛宕山)








小林一茶が詠んだ地は大島稲荷神社
 信州大小林講師が「水売」の句で推定 享和3年(1803)7月7日

かぢの音は耳を離れず 星今宵
七夕の相伴に出る川辺哉
 

享和句帖3年9月19日の条に稲荷祭とあるのは当神社の御祭礼の事である
水売のいまきた顔や愛宕山(文政2年〔1819〕)

当地大島あたり飲水が悪く小名木川を水売り船が往来し、水だ水だと一軒一軒に水売にきていた事が伝えられている。
(懐かしき大正時代 江東大島の思い出)

 大島稲荷神社には『女木塚碑』、『松尾芭蕉句碑』、『松尾芭蕉像』、『石造狛犬』、『佐竹神社』、『出世開運牛』があります。


所在地 江東区大島5-39-26 (大島稲荷神社)

 出世開運牛
この■■■商産業白い子牛は子供の頭■■は、自分の生まれ歳の干支の所をなでて無事成長を神社に祈念して下さい







所在地 江東区大島5-39-26 (大島稲荷神社)

女木塚碑 其日庵社中造立

 秋に添て行はや末ハ小松川



所在地 江東区大島5-39-26 (大島稲荷神社)

松尾芭蕉句碑

 五月雨をあつめて早し最上川

大島稲荷神社 平成元年(1989)9月19日
 第6代宮司 佐竹良子建之



所在地 江東区大島5-39-26 (大島稲荷神社)

 松尾芭蕉像

当神社境内に保存されている「女木塚」句碑にある一句は元禄5年(1692)翁が深川より小名木川近在の門人桐奚宅の句会に行く途中船を留め神社に立ち寄り参拝し句会で詠まれたもので
 秋に添て 行ばや末ハ 小松川
としたためられております。
その後芭蕉翁歿後其日庵社中により神社にこの句碑が建立されました。本句碑は歴史的価値により、江東区有形文化財に登録されております。平成13年(2001)9月19日には、大島稲荷神社御鎮座350年式年大祭が開催されました。輝かしい佳節を迎え総代氏子崇敬者一堂記念事業の一環として、茲に350年史として緑り深いこの地に遺徳を偲び、其日庵社中に感謝の意をこめて翁の石造像建立して後世に伝えることに相成ました。
 平成13辛巳年9月19日建之
 大島稲荷神社 第6代宮司 佐竹良子
  責任役員 山本喜久 菅一二三 松本留吉



所在地 江東区大島7-24-1

 東大島神社
当社は天照皇大神、牛島大神、稲荷大神を奉斎し、永平神社、子安神社、小名木神社、南本所牛島神社、北本所牛島神社の五社を合祀し、大島町東部総鎮守なるをもって社名を東大島神社と定め、昭和24年(1949)11月15日に創立せる。
合併の五社は各々古き由緒をもち、五穀豊穣郷土安泰の産土神として氏子の深く崇敬せるところなりしが、昭和20年(1945)3月9日夜半の戦禍をうけ社殿その他尽く烏有に帰す同時に氏子地域の一切も亦灰燼と化し一望の廃墟となる。この無惨なる焼土の中に、住民復興の意欲を燃やしその努力は年と共に実り昭和23年(1948)に至り、大島青年会の発議により尚一層の繁栄と発展を祈念し、復興祭が催されこれが機縁となり、神社再建の声おこる。しかし五社それぞれの再建は容易ならずこれを合併し荘厳なる神社の建設を望む氏子有志の熱意により各社の総代、世話人は数次の会合を重ね、牛島神社宮司春田健一氏並に猿江神社宮司神保鑒一氏の協力を得て地元発展のため無条件合併す。翌昭和24年(1949)初春建設奉賛会設立され同昭和24年(1949)11月新たに境内地六百八坪餘を購入昭和27年(1952)社殿を造営、昭和31年(1956)社務所竣工等着々整備され同昭和31年(1956)4月宮司内海利彦氏就任せる。
ここに創立十周年を迎え、合併の五社の所在地をしるし、創立尽せし人々の名を刻み当社の由来と共に長く後世に伝う。
無各社 永平神社 江東区大島町7丁目219番地
無各社 子安神社 江東区大島町8丁目317番地 
無各社 小名木神社 江東区大島町8丁目121番地
無各社 南本所牛島神社 江東区大島町7丁目843番地
無各社 北本所牛島神社 江東区大島町7丁目460番地









 東大島神社には『庚申塔』、『力石』、『豊栄社』、『六角石塔』、『水神宮』があります。

 


所在地 江東区大島7-24-1 (東大島神社)

 庚申塔

天明7年(1787)(旧南本所牛島神社法斎)
 御祭神
庚申様(青面金剛像・邪鬼・三猿)
無病息災・心身健全・厄難消除の神様



所在地 江東区大島7-24-1 (東大島神社)

 豊栄社
文化2年(1805)(旧小名木神社奉斎)
 御祭神
相模国鎌倉鶴岡宮仕
船玉宮祭主神富齋宮源常昭




所在地 江東区大島7-24-1 (東大島神社)

 力石
江戸時代中期ごろに力持ちの証しとして使われていた石です。
中央に〔五十貫余〕の刻みとこれを持ち上げたとみられる『善助』の名前が刻まれております。




所在地 江東区大島7-24-1 (東大島神社)

 六角石塔 文政6年(1823)(旧小名木神社奉齋)
 御祭神
罔象女命(みつはのめのみこと) 水の神様
大山祇命(おおやまつみのみこと) 山の神様
猿田彦命(さるたひこのみこと) 道の神様
天鈿女命(あまのうずめののみこと) 芸術の神様
埴山媛命(はにやまひめのみこと) 土の神様
 文政六葵未歳立秋吉日 神富齋





所在地 江東区亀戸9-12江戸川区

  逆井の渡し跡

 中川をわたる逆井の渡しは、『新編武蔵風土記稿』に「中川、村の西を流る、幅四十間許、対岸は亀戸村なり、ここに渡船場あり、元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり、船2艘あり、一は亀戸村の持、一は当村持」とあるように、もとは北隣りの逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋付近)に移転したもののようです。ここに江戸と房総を蒸すぶ街道がひらかれたからでした。この街道を元佐倉道といい、区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡り、市川から佐倉、成田へ向かいました。明治に入って千葉街道とよばれるようになりました。
 逆井の渡し付近は風景も良く安藤広重が「名所江戸百景」のひとつに描いています。明治12年(1879)、渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。架橋答辞は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋でした。明治27年(1894)に橋銭徴収は終わり、明治31年(1898)に、東京府によって架けかえられています。昭和43年(1968)には、江戸川・
江東両区の協力で鉄橋になっています。その後、旧中川沿岸の景観整備や、虹の大橋やもみじ大橋・さくら大橋がかけられて、現在のすがたになりました。
  江戸川区


所在地 江東区富岡1-16-10 (深川公園)

江東区登録有形文化財(歴史資料)
 園女歌仙桜碑
     


所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社)

 国産マッチの創始者 清水誠の頌碑
 (燐寸塚・マッチ塚)
 人類は、原始以来火を自由に使うことによって、今日の文明を築いてきた。日本の近代文明もまた、西欧からマッチの製法を輸入し、これを改良工夫した先人の努力によって、飛躍的に発展したのである。その創始の時が今から丁度百年前であり、その創始者が清水誠氏である。清水氏は弘化2年(1845)金沢に生まれ、明治3年(1870)藩命を受けて
フランスに留学し、パリ工芸大学に学んだ。専攻は造船学であったが、明治7年(1874)たまたま在仏中の宮内次官吉井友実氏の勧めによって、マッチの製造を決意して、帰朝した。翌明治8年(1875)4月には、本務の造船技師のかたわら、東京三田の仮工場で、早くもマッチの製造に着手した。明治9年(1876)9月本所柳原町に工場を新設して新燧社を興し、同12月には、官職をやめて、その経営に没頭した。翌明治10年(1877)9月には、初めて国産マッチを上海に輸出し、好評を博した。明治11年(1878)7月再びフランスに渡り、ドイツ、スウェーデンのマッチ事業を視察して帰り、以来ますますその改良に苦心し増産につとめた。その後打ち続く不況に見舞われ、遂に明治21年に(1888)には業界から隠退して郷里金沢に帰った。しかし、その後もなおマッチ製造機の改良に情熱を燃やし、明治29年(1896)
新鋭機の特許をとり翌明治30年(1897)大阪に出て、その製造に従事した。明治32年(1899)2月8日病をえて没した。時に年54才である。大正4年(1915)政府はその功績を賞して従五位を追贈した。なお歿後間もなく当亀戸天神社の境内に追慕顕彰の碑が建てられたが今次の戦災によって破損したままになっていた。今年あたかも国産マッチ創始百年に当り、業界の有志によって新しく再建されることになった。ここにその由来を誌し先人の功をたたえ、一文を草して頌辞とする。
 昭和50年(1975)5月12日  文学博士 内野吾郎拱













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