東京都江東区の歴史
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× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区大島8-38-32 (宝塔寺) 塩舐め地蔵 この塩舐め地蔵は石井某によって小名木川から掘り出され宝塔寺に納められたと伝えられます。小名木川は計兆年間に開削されておりおそらく宝塔寺の開創(慶長15年〔1610〕)とともに境内に安置されたものでしょう。塩地蔵とよばれる地蔵尊はきわめて数少なく供えられた塩をつけると疣が取れるといわれ疣取り地蔵ともよばれます。また商売繁昌、航海安全のご利益も授かると伝えられています。 PR 所在地 江東区大島3-31-7 (亀出神社) 草分稲荷神社 草分稲荷については徳川初期現在の大島1丁目37番(釜長のならび)付近の草むらの中に小さなほこらが建てられていたと伝えられ、昭和のはじめまでは付近住民が旧初午の日に寄付をもちより祭礼を行ってきたと語り継がれているものである。 往昔南葛一円の地は徳川幕府による禁領地であり、常時番人をおいて厳重に見張りをし、明治維新まで続いていた。現在の大島2丁目付近には鷹狩に使われる鴨池があり、御用屋敷と呼ばれるものが散在していたという。たまたま徳川3代将軍家光がこの池に遊猟の際、草繁き狩場で路にまよったところ、その道案内にたったのがこの稲荷であるともいわれている。稲荷神社は『うがのみたまのみこと』を祭神とし、食物一切つかさどる神とされている。城東地区はもともと農業地域であったことから稲荷社がかなり多いが、1596年から1688年の頃がもっとも多く、徳川2代の秀忠から5代綱吉にいたる頃といえよう。 その後祀るものもないままに、さらに墓地改葬があり、土砂、雑草に埋もれかえりみられなかったが、ここに城東区役所が移ることになって、その新築工事が進むにつれ、ほこらと堀り出され業者によって庭の一隅に安置された。昭和15年(1940)区役所がここに移転するや、庁内の有志がほこらを復建し毎年ささやかな祭をしてきた。 昭和16年(1941)頃この社が香取神社宮司の夢枕にたち『火難』があるかもしれないから後世大切に祀るようにとのお告げがあったと伝えられている。 昭和48年(1973)4月、江東区区民センター建設に伴い亀出神社の境内に区長並びに香取宮司立合いの上遷座したものである。 所在地 江東区大島5-39-26 大島稲荷神社 鎮座地 (旧)東京府武蔵國南葛飾郡大島村 東京都江東区大島5丁目93番地 神社名 大島神社 大島稲荷神社 御祭神 京都伏見稲荷大社の御分霊 合祀神社 宇迦能魂神(浅草光月町立花公の邸内社芸術、俳句) 迦具土之命(愛宕神社、延命長寿) 境内社 佐竹神社(神官、学問) 御由緒 和銅4年(707)元明天皇大和朝廷時代(蒼稲魂神)が轟く雷鳴とともに、2月初午の日、初めて伊奈利山の験の杉に降臨してから、稲荷信仰として始まると云う。朱雀天皇の天慶5年(蒼稲魂神)に正一位という最高の神位階に昇られました。明正15年江戸時代ご創建と当神社伝えられる。由来同地は、海辺又は小名木川より近く、数度の津波等により、耕地の荒廃甚だしきため、又悪疫もはやり、村人相謀りて山城の國、伏見なる稲荷の御分霊を此の地に、奉還して産士神として、災を除き、衣、食、住、福を授け家内安全、出世開運あらゆる産業の大祖神として、御神威高く輝き大島神社と称え、爾来開拓國造営の守護神のご神徳が果しなく拡がり続いて、しかも、如何にご利益或るかを強く物語るもので、崇敬拝厚きも深く受、鎮守様として仰がれたり。 俳人 松尾芭蕉 句(秋に添て 行はや末は 小松川) 俳人 小林一茶 句(水売の いまきた顔や 愛宕山) 小林一茶が詠んだ地は大島稲荷神社 信州大小林講師が「水売」の句で推定 享和3年(1803)7月7日 かぢの音は耳を離れず 星今宵 七夕の相伴に出る川辺哉 享和句帖3年9月19日の条に稲荷祭とあるのは当神社の御祭礼の事である 水売のいまきた顔や愛宕山(文政2年〔1819〕) 当地大島あたり飲水が悪く小名木川を水売り船が往来し、水だ水だと一軒一軒に水売にきていた事が伝えられている。 (懐かしき大正時代 江東大島の思い出) 大島稲荷神社には『女木塚碑』、『松尾芭蕉句碑』、『松尾芭蕉像』、『石造狛犬』、『佐竹神社』、『出世開運牛』があります。 所在地 江東区大島5-39-26 (大島稲荷神社) 松尾芭蕉像 当神社境内に保存されている「女木塚」句碑にある一句は元禄5年(1692)翁が深川より小名木川近在の門人桐奚宅の句会に行く途中船を留め神社に立ち寄り参拝し句会で詠まれたもので 秋に添て 行ばや末ハ 小松川 としたためられております。 その後芭蕉翁歿後其日庵社中により神社にこの句碑が建立されました。本句碑は歴史的価値により、江東区有形文化財に登録されております。平成13年(2001)9月19日には、大島稲荷神社御鎮座350年式年大祭が開催されました。輝かしい佳節を迎え総代氏子崇敬者一堂記念事業の一環として、茲に350年史として緑り深いこの地に遺徳を偲び、其日庵社中に感謝の意をこめて翁の石造像建立して後世に伝えることに相成ました。 平成13辛巳年9月19日建之 大島稲荷神社 第6代宮司 佐竹良子 責任役員 山本喜久 菅一二三 松本留吉 所在地 江東区大島7-24-1 東大島神社 当社は天照皇大神、牛島大神、稲荷大神を奉斎し、永平神社、子安神社、小名木神社、南本所牛島神社、北本所牛島神社の五社を合祀し、大島町東部総鎮守なるをもって社名を東大島神社と定め、昭和24年(1949)11月15日に創立せる。 合併の五社は各々古き由緒をもち、五穀豊穣郷土安泰の産土神として氏子の深く崇敬せるところなりしが、昭和20年(1945)3月9日夜半の戦禍をうけ社殿その他尽く烏有に帰す同時に氏子地域の一切も亦灰燼と化し一望の廃墟となる。この無惨なる焼土の中に、住民復興の意欲を燃やしその努力は年と共に実り昭和23年(1948)に至り、大島青年会の発議により尚一層の繁栄と発展を祈念し、復興祭が催されこれが機縁となり、神社再建の声おこる。しかし五社それぞれの再建は容易ならずこれを合併し荘厳なる神社の建設を望む氏子有志の熱意により各社の総代、世話人は数次の会合を重ね、牛島神社宮司春田健一氏並に猿江神社宮司神保鑒一氏の協力を得て地元発展のため無条件合併す。翌昭和24年(1949)初春建設奉賛会設立され同昭和24年(1949)11月新たに境内地六百八坪餘を購入昭和27年(1952)社殿を造営、昭和31年(1956)社務所竣工等着々整備され同昭和31年(1956)4月宮司内海利彦氏就任せる。 ここに創立十周年を迎え、合併の五社の所在地をしるし、創立尽せし人々の名を刻み当社の由来と共に長く後世に伝う。 無各社 永平神社 江東区大島町7丁目219番地 無各社 子安神社 江東区大島町8丁目317番地 無各社 小名木神社 江東区大島町8丁目121番地 無各社 南本所牛島神社 江東区大島町7丁目843番地 無各社 北本所牛島神社 江東区大島町7丁目460番地 東大島神社には『庚申塔』、『力石』、『豊栄社』、『六角石塔』、『水神宮』があります。 所在地 江東区大島7-24-1 (東大島神社) 六角石塔 文政6年(1823)(旧小名木神社奉齋) 御祭神 罔象女命(みつはのめのみこと) 水の神様 大山祇命(おおやまつみのみこと) 山の神様 猿田彦命(さるたひこのみこと) 道の神様 天鈿女命(あまのうずめののみこと) 芸術の神様 埴山媛命(はにやまひめのみこと) 土の神様 文政六葵未歳立秋吉日 神富齋 |
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永山
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