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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区深川1-11

芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町1丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ深川芭蕉庵もその持家であったがまた平野町内の三百坪ほどの地に彩茶庵を建てみずからも彩茶庵と号した芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり元禄2年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出点した
     昭和33年(1958)10月1日    江東区第7号






所在地 江東区深川2-16-7

  浄土宗 双修山 心行寺

  深川七福神 福禄寿

由来
 心行寺は雙修山養源院と号し、開山は、光蓮社団誉一露屋道で、養源院は開基です。元和2年(1616)に、八丁堀に創建され、寛永10年(1633)に現在地に移りました。
 養源院は岩国藩主吉川広嘉(1621~1680)の妻で、承応3年(1654)に没しました。広嘉は岩国藩主として2代目で、延宝元年(1673)には、錦帯橋を架橋しています。
 深川七福神(福禄寿)のひとつとして親しまれています。



 双修山養源院と号し、元和2年(1616)京橋八丁堀寺町に創立、開山は観智国師の高弟光蓮社団誉一路屋道上人、周防岩国城主 吉川監物の室 養源院殿の発願に開基による。
 寛永10年(1633)現在地に移転、当時境内地は、間口42間奥行42間総坪数1764坪、影窓院 正寿院の二末寺があった。
 大正12年関東大震災の厄にかかり、昭和7年(1932)再建された本堂庫裡も昭和20年(1945)戦災のため再度烏有に帰した。
 現本堂は、浅香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味し、昭和43年(1968)に落慶した。
 本堂両脇間に観無量寿経変相図(曼荼羅)ならびに三尊来迎図(守屋多々志画伯模写)がある。
    史 跡 
 開基養源院殿墓  五重石塔  宝筺印咒塔
 五世鶴屋南北墓  松本交山墓  工藤琳甫墓
 悟道軒円玉墓   深川七福神福禄寿堂
           双修山心行寺21世



 < 六角堂(福禄寿) >







    不求自得    自然にとくがそなわる
 この福禄寿の尊像の中には当寺書院移築の際に土中より発見された戦災前の福禄寿土偶が収蔵されています。手にする宝珠にふれて円満な人格をいただくようおねがいいたしましょう。福徳は自然に身についてくるものです。
          福寿海無量  是故應頂礼


所在地 江東区深川2-16-7 (心行寺)

   影窓院(ようそういん)地蔵
 「御府内備考続編」によると、この石造地蔵菩薩立像は、当寺に影窓院と正壽院の二つの塔頭(たっちゅう)があり、影窓院にあったので、この呼称がある。
 結緑地蔵として縁結び、願いごと成就の地蔵尊として江戸時代から参詣の人々で大いに賑わった。


所在地 江東区深川2-16-7 (心行寺)

   五重層石塔
 突風火水地五層の石塔で、「元亨4年(1324)」の銘がある。
 元亨4年は1324年で、江東区内に現存するもののうちで最も古い年号を記録している。


所在地 江東区深川2-16-7 (心行寺)

    宝篋印咒塔(北州塚)
 文化文政の頃江戸の名妓であった。川口直が、その夫忠七妓の菩提を弔うために建てたものである。
 川口直は、大田蜀山人作詩の清元「北州」に、あの甲高い節付けをしたので有名で、又隅田村から小梅村の境まで、独力で楓樹を植えた。幕末の頃、その紅葉は向島の名物でもあった。
 芸妓をやめて日本橋薬研堀に「川口」という料亭を開き、後、浅草橋に移って胡麻味噌の石焼き豆腐を呼び物にして、非常に繁昌した。
 夫の忠七は、「竹明」と号して笛の名手であった。


所在地 江東区深川1-8-8

 江東区の生んだ世界的映画監督小津安二郎は、明治36年(1903)12月12日、この地に生をうけました。生家は「湯浅屋」という屋号の肥料問屋でした。安二郎が10歳のとき、三重県松阪町に転居、中学校卒業後、尋常小学校の代用教員を1年間勤めた後、大正12年(1923)再び上京、深川和倉町に住み、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社しました。
 昭和2年(1927)監督に昇進、処女作時代劇「懺悔の刃」を監督しました。
 その後の小津安二郎監督作品は、「出来ごころ」に代表されるような、下町特有の情緒や人情味が描かれ、またローアングルによる撮影スタイルなどによって、家族の触れ合いや日常生活を端的に描く独特の作風を作り上げていきました。
 昭和37年(1962)「秋刀魚の味」を発表、映画人としては、初の芸術院会員となりました。この作品が小津安二郎の遺作となり、翌昭和38年(1963)60歳で死去しました。その作品の価値は死後内外共にいよいよ高まり、世界最高の映像作家として評価されています。
 平成7年(1995)3月  江東区教育委員会


所在地 江東区深川1-6 (亀堀公園)

 三河国(愛知県)西尾藩大給松平氏は、藩校を西尾と江戸の2ヵ所に設置していました。西尾藩校は修道館、江戸藩校は典学館と呼ばれました。
 典学館は、江戸藩邸のうち深川万年町にあった「深川屋敷」に設置されていました。設立時期は天保12年(1841)7月のことで、当時の藩主は14代目の乗全でした。大給松平氏は代々儒学を尊び、なかでも乗全は藩内における文武興隆に力を入れ、藩士教育のために藩校を設立しました。さらに、年少の子どもたちの通学を容易にするために、大名小路の役邸(現皇居外苑)に分校を設置するなど、教育設備を充実させています。
 授業の期間は正月8日から12月20日まで、時間は12時から16時まで、休日は毎月16日・五節句・7月12日から16日・八朔でした。
 典学館は明治4年(1871)に廃校となりました。
   平成11年(1999)3月 江東区教育委員会


      松平和泉守(西尾藩) 深川屋敷
  [「本所深川絵図」 嘉永5年(1852) 尾張屋板]


所在地 江東区深川2-1-20

 この付近は、幕府賄方組屋敷があり椀をしまう倉があったことから「わんぐら」「わぐら」といった。明治2年(1869)からこの付近の町名を深川和倉町といい、油堀川に「わくらの渡し」があった。
 昭和4年(1929)、ここにはじめて和倉橋がかけられ、橋は長さ20.4mル、幅11mの鉄橋であった。
 昭和50年(1975)、油堀川が埋められたので和倉橋はとりはずされた。
 昭和63年(1988)12月吉日  
  深川2丁目南町会 江東区役所道路課


所在地 江東区深川2-22-5 (正覚寺)

元ノ杢網夫妻の墓



寛永19年(1642)浅草に京都三十三間堂に模した三十三間堂がたてられたが焼失し元禄11年(1968)富岡八幡宮の東側に三十三間堂は再建された。江戸時代弓の競技が此処で行なわれ有名であったが明治5年(1872)廃寺となり、仏像古文書等は正覚寺に移管された。元ノ杢網は享保9年(1724)埼玉県に生れ江戸狂歌壇に重きをなしたが文化8年(1811)6月28日88歳をもって死去した。その妻智恵ノ内子も狂歌師にして文化4年(1807)6月20日死去し夫妻は正覚寺に葬られている。
 昭和43年(1968)10月1日  江東区第22号



所在地 江東区深川2-22-5 (正覚寺)

 江東区指定有形文化財(古文書)
東都三十三間堂旧記
    平成19年(2007)3月26日指定



 「東都三十三間堂旧記」は、元禄13年(1700)深川に再建された三十三間堂に関する記録です。1番から7番と付録の8冊で構成され、現在は6冊に装丁されています。堂守(堂司)をつとめた鹿塩久右衛門家に代々伝わってきましたが、火災のたびに水をかぶり傷んだため文政3年(1820)に新たに書き写されたものです。
 内容は、火災や風雨によって破損した堂宇の再建や修復に関する願書のほか、堂守の鹿塩久右衛門が三十三間堂町の名主をつとめていた関係から、三十三間堂町に記録も含まれています。


    歌川広重「東都名所 深川三拾三間堂」(江東区深川図書館所蔵)
                       
 東都三十三間堂は、京都の三十三間堂(蓮華王院)を模して、寛永19年(1642)に浅草(現台東区)に建てられました。元禄11年(1698)の大火によって焼失し敷地が召し上げられたため、代地を深川に賜り再建されました。柱間の数して三十三間あり、弓術の練習や競技の場として西側に射場が設けられ、堂の端から端まで矢を射通す「通し矢」が行われました。明治5年(1872)に壊された時、本文書は本尊とともに正覚寺に移管され、関東大震災や戦災の被害を免れて現在に至っています。
 深川を代表する名所である三十三間堂の様相を詳しく伝え、かつ災害を乗り越えて区内の伝えられた貴重な史料です。
 平成20年(2008)3月  江東区教育委員会


所在地 江東区深川2-22-11 (寒光寺)

    江東区指定有形文化財(絵画)
紙本墨画達磨像



 達磨像は、像を描いた本紙を掛軸に表装したものです。本紙は縦29.1cm、横21.4cm。表装は縦107.5cm、横32.6cmです。画像の達磨は、斜め横を向いた半身像で、濃淡色の墨を用いて描かれています。また弊衣の中に手を隠し、その部分の輪郭はなめらかなカーブの線で描かれているのが特徴的です。



 達磨図は、中国禅宗の祖である菩提達磨を主題とした絵画です。日本でも禅宗が定着した当初(鎌倉時代、13世紀半ば)から描かれ、禅宗寺院の最も基本的な仏画の1つとなっています。本像のような図様は、江戸時代になってしばしば見かけるもので、その簡略な図様から、おそらく禅僧などが余技で行うときに好まれた図様と思われます。本像は、画面右下にみえる二顆の落款から、開山の別伝宗分の作であることがわかり、宗分がなくなった寛文8年(1668)までの製作と考えられます。もとは檀家に伝えられてきましたが、明治28年(1895)に寄進されました。
 本像は、開山の作であること、またその伝来経路が明確であることから、江東区にゆかりのある重要な絵画といえます。
 平成9年(1997)9月  江東区教育委員会


所在地 江東区深川2-15-20

浄土宗
 幽遠山 玄信寺
 


所在地 江東区深川2-16-27

臨済宗妙心寺派
 長光山 陽岳寺



 陽岳寺には『向井忠勝墓』、『英信勝墓』、『観嵩月墓』、『伏見義民墓』があります。








所在地 江東区深川2-16-27 (陽岳寺)

 英信勝墓
 英信勝は英一蝶の子で、父一蝶が元禄11年(1698)三宅島に流され、宝永6年(1709)許されて江戸に帰り、深川に住んだが、信勝も父に従って江戸に出て絵画に専念、画風はよく一蝶の風格を得て絶妙であった。
 信勝は通称を長八、号を栗舎、一蜂、春窓などと称し、二世英一蝶とも称した。信勝は元文2年(1737)閏11月11日、47才をもって死去し、法名は「機外道倫信士」である。
 昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会



所在地 江東区深川2-16-27 (陽岳寺)

 観嵩月墓
 江戸中期の画家観嵩月は名を常雄といい、宗行子蓑虫庵、景訥と号していた。彼は深川六軒堀(江東区深川常盤町)の材木商筑島屋坂本米舟の子として生まれ、英一蝶の門人高嵩谷の弟子となって幾多の名作を残している。父の坂本米舟は芸術に深い理解を有した。緒方乾山は余生を彼の家で過したという。
 観崇月は父の精神に影響されて画家となり、名を成したが、枯れの作品例としては豊島区雑司ヶ谷鬼子母神堂の「狂言末広狩」の扁額が現存している。天保元年(1830)11月20日、年72で死去した。
 昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会





所在地 江東区深川2-16-27 (陽岳寺)

 向井忠勝墓
由来
 向井忠勝(1582~1641)は、60歳で没しました。戒名は、陽岳寺殿天海玄祐居士です。陽岳寺は、寛永14年(1637)に創建され、開山は文室祖郁禅師で、開基は忠勝です。
 慶長2年(1597)16歳で、後の将軍秀忠に仕え、大坂冬、夏の両度の戦いには水軍を率い、摂津尼崎へ出陣しました。寛永2年(1625)父の跡を継ぎ、子孫は代々船手頭の職を世襲しました。


所在地 江東区深川2-16-27 (陽岳寺)

 伏見義民墓
 全国にわたる天明の大飢饉(1783~1787)の頃、山城国伏見奉行小堀政方は幾多の悪政を重ねた。このため、伏見住民は塗炭の苦しみにあえいだ。文珠久助、丸屋九兵衛および麹屋伝兵衛らは幕府に直訴を企てhそかに江戸に入ったが、伝兵衛は小堀が放った捕吏に殺され、ようやく逃れた九助と九兵衛は直訴に成功して小堀は罷免されたが、両人は天明8年(1788)獄死した。
 3名の遺体はそれぞれ陽岳照らん引き取られ、厚く葬られたが、これはかれら3名が江戸にあって直訴をうかがっている間、当寺に庇護され、多大の援助を受けたからである。
 昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会



所在地 江東区深川2-19-13

曹洞宗
 海照山 増林寺





 増林寺には『三井親和墓』、『絹本着色毘沙門天像』があります。



所在地 江東区深川2-19-13 (増林寺)

  絹本着色毘沙門天像
 左斜めを向いて、岩座上の邪鬼を踏んで立つ、軸装に仕立てられた毘沙門天の画像です(本紙の寸法、縦93.0cm、横36.2cm)。
 毘沙門天は、四天王の多聞天と同体、また十二天の一尊として祀られ、北方の守護神、あるいは福徳神として古くから信仰されています。本像は、円光背を背にして、右手に宝棒、左手に宝塔を持ち、袖や天衣を翻した動きのある姿に描かれており、特に頭上の摩尼宝珠や右手の宝棒は、毘沙門天像としては珍しい作例といえます。
 この画像は、本来像や光背等の輪郭を濃い墨線で描き、顔、甲冑、持物、台座光背などが白、朱、緑青、茶色の顔料(絵の具)と金泥で華やかに彩色されていましたが、現在は当初の色は少し衣褪色し、落ちついた色合いを呈しています。よく見ると、伸びやかな墨線と的確な彩色の筆法には生彩があり、全体におおらかな構図であることとあわせて、この画像が南北朝時代(14世紀)に描かれた優れた仏画であることがわかります。江東区では、やはり南北朝時代の作と考えられる永代寺の絹本着色地蔵菩薩半跏像(区指定有形文化財)とともに最も古い画像です。また、後世の大幅な補筆や修復がなされていないことも、中世の仏画として大変貴重です。
 なお、表具の背面と納入木箱に記された墨書から、この画像が慶應元年(1865)に表装し直され、河内国百済山長栄寺(大阪府東大阪市高井田元町)で開眼供養されたことが知られますので、あるいは明治以降に関西方面から移されたものとも考えられます。
 平成13年(2001)3月 江東区教育委員会



所在地 江東区深川2-19-13 (増林寺)

  三井親和墓

親和は深川福住町に住み深川親和とも称し書を細井廣澤に学び書道の大家となりことに篆(てん)書にすぐれ江戸■在にまでその書は額や幟の■などにみられまたその筆跡を浴衣や手拭に染めた親和染が流行するにいたったが天明2年3月7日83歳にて死去し増林寺に葬られた
 昭和33年(1958)10月1日 江東区第8号



所在地 江東区深川2-16-3

真言宗豊山派
 賢台山 賢法寺 法乗院 

御府内八十八ヶ所霊場74番札所

 深川ゑんま堂



 法乗院には『深川ゑんま堂』、『曽我五郎の足跡石』、『虚無僧塚(豊田風憬史蹟)』があります。


所在地 江東区深川2-16-3 (法乗院)

 虚無僧塚(豊田風憬史蹟)

琴古流尺八中興之始祖初代古童 豊田風憬史蹟

  昭和46年4月 童窓会 建立



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