東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区白河1-3-32 浄土宗 道本山 東海院 霊巖寺 松平定信は、江戸中期の陸奥白河(福島県)藩主であり、天明7年(1787)老中となりました。 定信が行った政策は、寛政の改革といわれ、天明のうちこわし後の江戸の秩序回復に努めました。とくに七分積金の制度は、町方入用を節約させ、不時の備蓄にあてたものです。明治には、東京府の公共事業に役立ちました。 この霊巖寺にある墓は、昭和3年(1928)に国の史跡に指定されています。 霊巖寺には『松平定信墓』、『銅造地蔵菩薩坐像』、『勢至丸像』があります。 PR 所在地 江東区白河1-3-32 (霊巖寺) 東京都指定史跡 松平定信墓 昭和3年(1928)1月18日指定 松平定信(1758~1829)は8代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。 天明7年(1787)6月に老中となり寛政の改革を断行、寛政5年(1793)老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った。また朱子学者でもあり、「花月草紙」「宇下の人言」「国本論」「修身録」などの著書もある。 昭和51年(1976)3月31日 東京都教育委員会 所在地 江東区白河1-3-32 (霊巖寺) 東京都指定有形文化財(彫刻) 銅造地蔵菩薩坐像 (江戸6地蔵の1) 昭和45年(1970)8月3日指定 像の高さは、2.73メートル。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得て、江戸6地蔵の第5番として、享保2年(1717)ごろ建立されたものである。製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。 蓮台には数ヶ所湯の廻らなかったところがあり、造立銘文はこれを避けて刻まれている。また、顔や肩などには金箔が残っている。 なお、江戸6地蔵はつぎのとおりである。 品川寺 品川区南品川3丁目 太宗寺 新宿区新宿2丁目 真性寺 豊島区巣鴨3丁目 東禅寺 台東区東浅草2丁目 永代寺 江東区=消滅 東京都文化財保護条例(昭和51年〔1976〕3月31日改正)により、文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更しましたので、石造標識については、このように読み替えてください。 平成19年(2007)3月1日 東京都教育委員会 所在地 江東区白河3-2-10 (白笹稲荷神社) 子育地蔵堂 子育地蔵尊が奉安されて今年で百年になります。白河が東大工町と呼ばれておりました頃、大日本紡績事務所と女子工員寄宿舎の間の溝の中に埋っておりましたのを、故生田岩次郎氏が明治12年(1879)の夏入浴帰りに月の明りで透かして見たら、何か変なものがあるなと思い行きつ戻りつ後髪を引かれる思いで夜も寝られず三日目の夜明けを待ち現場に行き、半信半疑で引上げたのが地蔵尊なので驚き、家に持ち帰り軒先安置し、この世に出現いたしました地蔵尊であります。 初めは「生田地蔵尊と呼んでおりましたが大正の12年(1923)頃までは遠く板橋、巣鴨方面からも多くの信仰の方がお詣りに来て誰云うとなく生田地蔵尊が子育地蔵尊と呼ぶようになり、線香の絶え間なく、又一時は帽子や涎掛けが山積みになったこともあり、後、現在地に安置し今日に至りました。この由来は生田石三郎氏が子供の時、亡父 岩次郎氏から聞いた話を記す次第であります。 昭和53年(1978)1月13日 |
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永山
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