東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区富岡1-14 (深川公園) 園女花仙櫻之碑 園女は伊勢の人気師■乃女■■■■■ 斯波一有の妻は玉蕉門に■名高く 宝永二年江戸■来り深川■■■享 保十一年に十三歳にして歿■歌仙 ■■彼■女が■徳の頃三十六■を ■植せるに■■宝暦五年二世園女 少し班象が植え足し歌■櫻■■■縁 碑■建■更■大■四年植え継ぎ■ の十二年の震火災■焼失し又■に 三十六種類を撰み■之■植え■■ 昭和六年四月 題字 九十二翁子爵澁澤榮一 七十三■■藤■■書 PR 所在地 江東区永代1-14 江東区登録史跡 佐久間象山砲術塾跡 この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化8年(1811)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保4年(1833)江戸へ出て佐藤一斎に朱子学を学び、天保13年(1842)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(1840~1842)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、9月には江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。 嘉永3年(1850)7月、深川小松町(永代1)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。嘉永3年(1850)12月、いったん松代へ帰藩しますが、翌嘉永4年(1851)再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・阪本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。 安政元年(1854)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、7月11日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、54歳の生涯を閉じました。 平成21年(2009)3月 江東区教育委員会 佐久間象山(国立国会図書館所蔵) 所在地 江東区永代1-14 江戸中期(元禄時代)の豪商紀国屋文左衛門が京都伏見稲荷神社より御霊を拝受しこの地にお祀りしたのが当紀文稲荷神社です。 紀国屋文左衛門は第5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保荻原重秀等と結び風浪を冒して紀州よりミカンを江戸に運びまた材木商として明暦の大火に木曽の木材を買い占め数年で巨万の財を築き豪遊して紀文大尽と称せられてことはあまりにも有名です。 紀国屋文左衛門の店は八丁堀にありその下屋敷が現在の第一勧業銀行深川支店あたりにありました当時この付近一帯は運河が縦横に走り此処に紀国屋文左衛門の船蔵があり航海の安全と商売の繁盛を祈ってこの地にお稲荷様を祀ったものです。 以前この付近一帯は窪田家の所有地でありましたが窪田家の没落とともに祀る人もなく荒れるがままに放置されておりました。 昭和の始め頃この付近に疫病が流行し行者にその平癒をお願いしたところ何処かに放置されたお稲荷様があるはずでそのお稲荷様を祀れば疫病は平癒すると言うご神示を戴き当時草原と化していたこの付近を捜索した結果荒れ果てた祠を発見し肥料商人中田孝治が発起人となり現在の社殿を建立お祀りしたところ疫病は平癒し商売も大繁盛しました。 爾来商売繁盛家内安全のお稲荷様として広く信仰を集めて参りました。 富士浅間神社 龍神様 は中田孝治が富士講の講元をしていたことから富士浅間神社の御霊を拝受してお祀りしたものです。 元の境内は現在地より北西約30米の奥まったところにありましたが昭和62年(1987)大和永代ビルディング建設に伴い三菱倉庫株式会社の深い信仰心に基づく真摯な移転作業により昭和62年(1987)3月31日遷座祭を執り行い現地に移転しました。 又境内にある石はこの付近にあった米問屋肥料問屋等で働く力自慢の人達が差し上げることが出来た大石に自分の名を刻み記念としたものです。現在でも当神社総代鶴岡秀雄氏会長をされている深川力持会がその伝統を受け継ぎ東京都から無形民俗文化財に指定されております。 昭和63年(1988)5月吉日 所在地 江東区永代2-37 (澁澤シティプレイス永代) 江東区登録史跡 渋沢栄一宅跡 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。 渋沢栄一旧宅(渋沢史料館所蔵) 渋沢栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。 渋沢栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のたまに尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。 平成21年(2009)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区永代・清澄・佐賀・門前仲町・富岡の一部 江戸時代の初め、隅田川の河口付近に深川猟師町が開けました。これは、現在の清澄・佐賀・門前仲町・富岡あたりになります。 寛永6年(1629)、摂津(大阪府)方面から来た8人の猟師たちが幕府に願い出て、汐除堤の外の干潟になっているところを埋め立て、自分たちの名前をつけた8つの町をつくりました。その時の町名は、弥兵衛町・次郎兵衛町・藤左衛門町・親兵衛町・利左衛門町・助十郎町・彦左衛門町・助右衛門町で、これに大島町を加えた9カ町をあわせて深川猟師町と呼びました。元禄8年(1695)、町名を清住町・佐賀町・相川町・熊井町・冨吉町・諸町・黒江町・大島町と改め、8カ町となりました。やがて、深川の猟師町にはその他の町も含まれるようになり、昭和の中頃まで漁業や海苔の養殖を続けていました。 平成4年(1992)3月 江東区教育委員会 本所深川絵図(嘉永5年尾張屋板) 所在地 江東区牡丹1-12-9 (黒船稲荷神社) 四世鶴屋南北は、江戸戯作界の第一人者で、大南北と称されました。宝暦5年(1755)、日本橋新乗物町(中央区)に生まれ、文政12年(1829)11月27日、黒船稲荷地内の居宅で没しました。享年75歳でした。 幼名を源蔵といい、父親は紺屋の型付け職人でしたが、狂言作者を志し、家業をすてて初代桜田治助の門下に入りました。安永6年(1777)、桜田兵蔵の名で作者として初めて中村座に名がでました。天明2年(1782) に勝俵蔵と改め、文化元年(1804)、河原崎座の『天竺徳兵衛韓話』で大当たりをとり、作者としての地位を確立させました。以降、『心謎解色糸』『謎帯一寸徳兵衛』などの作品を次々と発表し、当代随一の名作者とうたわれ、文化8年(1811)、鶴屋南北を襲名しました。その後『お染久松色売販』『東海道四谷怪談』などの傑作を書き続けました。 文化14年(1817)頃には、亀戸村に住み、亀戸の師匠と呼ばれていました。また、代表作『東海道四谷怪談』の中に、砂村や深川三角屋敷(深川1~5)をとり入れるなど、本区とかかわりの深い戯作者です。 平成3年(1991)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区牡丹3-33 東京都指定有形文化財(歴史資料) 波除碑(なみよけのひ) 昭和17年(1942)9月指定 完成3年(1791)9月、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。 幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西28間、南北30余間、総坪数5467余坪(約1万8千平方メートル)を買い上げて空き地とした。そして空き地の両端の北地点に波除碑を2基建てた。当時の碑は地上6尺、角1尺であったという。 碑はほとんど旧状を失っており、特に平久橋碑は上部役3分の2を失っている。位置は旧地点を若干移動しているものと思われる。 建設は寛政6年(1794)頃。碑文は伝屋代弘賢、品質は伊豆五ヶ村石(砂岩)。 総高130.8センチメートル。 平成12年(2000)3月 東京都教育委員会 所在地 江東区深川1-6 (亀堀公園) 三河国(愛知県)西尾藩大給松平氏は、藩校を西尾と江戸の2ヵ所に設置していました。西尾藩校は修道館、江戸藩校は典学館と呼ばれました。 典学館は、江戸藩邸のうち深川万年町にあった「深川屋敷」に設置されていました。設立時期は天保12年(1841)7月のことで、当時の藩主は14代目の乗全でした。大給松平氏は代々儒学を尊び、なかでも乗全は藩内における文武興隆に力を入れ、藩士教育のために藩校を設立しました。さらに、年少の子どもたちの通学を容易にするために、大名小路の役邸(現皇居外苑)に分校を設置するなど、教育設備を充実させています。 授業の期間は正月8日から12月20日まで、時間は12時から16時まで、休日は毎月16日・五節句・7月12日から16日・八朔でした。 典学館は明治4年(1871)に廃校となりました。 平成11年(1999)3月 江東区教育委員会 松平和泉守(西尾藩) 深川屋敷 [「本所深川絵図」 嘉永5年(1852) 尾張屋板] 所在地 江東区深川2-1-20 この付近は、幕府賄方組屋敷があり椀をしまう倉があったことから「わんぐら」「わぐら」といった。明治2年(1869)からこの付近の町名を深川和倉町といい、油堀川に「わくらの渡し」があった。 昭和4年(1929)、ここにはじめて和倉橋がかけられ、橋は長さ20.4mル、幅11mの鉄橋であった。 昭和50年(1975)、油堀川が埋められたので和倉橋はとりはずされた。 昭和63年(1988)12月吉日 深川2丁目南町会 江東区役所道路課 所在地 江東区深川2-22-5 (正覚寺) 元ノ杢網夫妻の墓 寛永19年(1642)浅草に京都三十三間堂に模した三十三間堂がたてられたが焼失し元禄11年(1968)富岡八幡宮の東側に三十三間堂は再建された。江戸時代弓の競技が此処で行なわれ有名であったが明治5年(1872)廃寺となり、仏像古文書等は正覚寺に移管された。元ノ杢網は享保9年(1724)埼玉県に生れ江戸狂歌壇に重きをなしたが文化8年(1811)6月28日88歳をもって死去した。その妻智恵ノ内子も狂歌師にして文化4年(1807)6月20日死去し夫妻は正覚寺に葬られている。 昭和43年(1968)10月1日 江東区第22号 所在地 江東区深川2-22-5 (正覚寺) 江東区指定有形文化財(古文書) 東都三十三間堂旧記 平成19年(2007)3月26日指定 「東都三十三間堂旧記」は、元禄13年(1700)深川に再建された三十三間堂に関する記録です。1番から7番と付録の8冊で構成され、現在は6冊に装丁されています。堂守(堂司)をつとめた鹿塩久右衛門家に代々伝わってきましたが、火災のたびに水をかぶり傷んだため文政3年(1820)に新たに書き写されたものです。 内容は、火災や風雨によって破損した堂宇の再建や修復に関する願書のほか、堂守の鹿塩久右衛門が三十三間堂町の名主をつとめていた関係から、三十三間堂町に記録も含まれています。 歌川広重「東都名所 深川三拾三間堂」(江東区深川図書館所蔵) 東都三十三間堂は、京都の三十三間堂(蓮華王院)を模して、寛永19年(1642)に浅草(現台東区)に建てられました。元禄11年(1698)の大火によって焼失し敷地が召し上げられたため、代地を深川に賜り再建されました。柱間の数して三十三間あり、弓術の練習や競技の場として西側に射場が設けられ、堂の端から端まで矢を射通す「通し矢」が行われました。明治5年(1872)に壊された時、本文書は本尊とともに正覚寺に移管され、関東大震災や戦災の被害を免れて現在に至っています。 深川を代表する名所である三十三間堂の様相を詳しく伝え、かつ災害を乗り越えて区内の伝えられた貴重な史料です。 平成20年(2008)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区深川2-22-11 (寒光寺) 江東区指定有形文化財(絵画) 紙本墨画達磨像 達磨像は、像を描いた本紙を掛軸に表装したものです。本紙は縦29.1cm、横21.4cm。表装は縦107.5cm、横32.6cmです。画像の達磨は、斜め横を向いた半身像で、濃淡色の墨を用いて描かれています。また弊衣の中に手を隠し、その部分の輪郭はなめらかなカーブの線で描かれているのが特徴的です。 達磨図は、中国禅宗の祖である菩提達磨を主題とした絵画です。日本でも禅宗が定着した当初(鎌倉時代、13世紀半ば)から描かれ、禅宗寺院の最も基本的な仏画の1つとなっています。本像のような図様は、江戸時代になってしばしば見かけるもので、その簡略な図様から、おそらく禅僧などが余技で行うときに好まれた図様と思われます。本像は、画面右下にみえる二顆の落款から、開山の別伝宗分の作であることがわかり、宗分がなくなった寛文8年(1668)までの製作と考えられます。もとは檀家に伝えられてきましたが、明治28年(1895)に寄進されました。 本像は、開山の作であること、またその伝来経路が明確であることから、江東区にゆかりのある重要な絵画といえます。 平成9年(1997)9月 江東区教育委員会 所在地 江東区冬木22-31 冬木弁天堂 深川七福神 辨財天(弁財天) 冬木弁天堂は、材木商冬木五郎右衛門直次が承応3年(1654)に江州竹生島(滋賀県)の弁財天の分霊を日本橋茅場町(中央区)の邸内にまつり、宝永2年(1705)にその孫、弥平次がこの地に移したと伝えられています。 冬木家は、冬木町一帯に広大な屋敷を構える豪商で、東京国立博物館には尾形光琳の描いた冬木小袖と呼ばれる着物が所蔵されています。 深川七福神のひとつ(弁財天)として親しまれています。 岡野知十句碑 旧跡 岡野知十 句碑 名月や 銭かねいはぬ 世が恋し 明治43年(1910)9月建立 大正12年(1923)9月震災にて焼失 昭和7年(1932)7月再建 岡野知十 本名 敬胤 明治、大正の俳人 蔓延元年(1860)2月19日北海道日高国様似に生る。 昭和7年(1932)8月13日東京にて没す。73才 (知十の句碑は、花、月、雪の3基がある) 冬木辨財天お己洞 所在地 江東区南砂 この辺りは、砂村新田を始めとした江戸近郊農業地帯として発展し、江戸への食糧供給源となっていました。当時の主な作物は、葱・西瓜などの他、温室温床栽培により茄子・胡瓜も栽培されていました。 所在地 江東区南砂7-14-18 当宮は深川富岡八幡宮の元宮として、また、砂村総鎮守として広く知られており、その創建は古く、藤原鎌足の孫、藤原豊成卿が下総守に任じられ下向のみぎり、天平勝宝元年(749)に創立された区内屈指の古社であります。 当宮と深川富岡八幡宮との関係は、この地が宝六島と呼ばれていた寛永初期、卿より永代島に移り暫く当宮を拠点に活動していた長盛法師が、当宮に奉祭されていた「八幡像」を、深川八幡宮に移し勧請したことによります。この「八幡像」は、源三位頼政、千葉氏、足利尊氏、鎌倉公方基氏、管領上杉氏から太田道灌へと伝えられ、特に道灌より厚い崇敬を受けていたものであります。 享保年間には、境内に桜、松あわせて3万本が植えられ、8代しょうぐん吉宗公お手植えの矢竹なども存在しておりました。この風光明媚な様子は江戸名所図会や安藤広重の名所江戸百景にも描かれ、当地が江戸の景勝地であった事を窺い知る事ができます。現在も境内二位は都内でも数少ない石造の富士塚や芭蕉句碑、鳳卵石などが残されています。 また、この地の由来は、万治2年(1659)に開拓者である福井鯖江の砂村新左衛門により新田開発が完成し、砂村新田と名付けられ砂村の地名が生まれました。 「御祭神」 応神天皇(誉田別皇) 比売大神 宇迦之御魂大神 外五柱 宮司 荒井秀樹 御創建1260年記念 富賀岡八幡宮奉賛会 境内には『砂村新左衛門顕彰碑』、『砂村囃子記念碑』、『砂町の富士塚』、『出羽三山の碑』、『力石』があります。 富賀岡八幡宮(元八幡) 富賀岡八幡宮は元八幡として知られています。これは寛永10年(1633)、八幡神像が関東郡代伊奈半十郎の家臣興津左衛門により深川の富岡八幡宮へ寄付されたとき、一時砂村の富賀岡八幡宮に安置されたことによるといわれています。当時は元八幡の辺りから南に海が広がっていました。境内も広く、参道には美しい桜並木が続き、自然の景観に恵まれた神社は江戸市民の行楽地として賑わい、広重(1797~1858)の「名所江戸百景」にも描かれました。 Tomigaoka Haxhimanngu Shrine Tomigaoka Hachimangu Shrine is also known as Motohachiman.During the Edo Period(1603-1868)the sea came right up to these parts,and its approach road was beautifully lined with cherry trees,under which throngs of pleasure-seekers would gather to gaze at the blossoms. 所在地 江東区南砂7-14-18 (富賀岡八幡宮) 砂町新田開拓者 砂村新左衛門顕彰碑 福井県鯖江市出身の砂村新左衛門と、その一族が宝六嶋を拠点として、湿原や■■■■拓と埋立てによって、砂村新田を万治2年(1659)に造成しました。その範囲は現在の南砂1丁目から7丁目までと東砂8丁目を含むほぼ全域に当ると伝えられています。 私達が住む砂町の基礎をを築いた偉大な開拓砂村新左衛門の遺徳を偲び、後世に永くその功績を顕彰するため、■■■■■■■得て同氏にゆかりの深い元■■■■■記念し■の完成を見ることができました。 平成11年(1999)11月21日建立 所在地 江東区南砂7-14-18 (富賀岡八幡宮) 凡そ270余年の伝統を継承し、江戸祭囃子を代表する一つとして砂村林派時代の変転とともに幾盛衰を経て今日迄伝えられ、此の間多数の名人上手を輩出して来た。昭和55年(1980)10月東京都江東区初の文化財保護条例の規定により区教育委員会より無形民俗文化財の認定を受け、翌昭和56年(1981)3月其の保持暖帯として砂村囃子睦会を指定されたことは郷土の爲欣幸の至れるよう此の伝統芸能を末永く伝承し地域社会に貢献すべきである。 本年は指定10周年に当り此処に記念碑を建つ。 平成2年(1990)4月吉日 江東区指定無形民俗文化財 砂村囃子睦会 小泉忠蔵 安藤善次郎 進藤潔 加藤栄二 大森尚 故積田金五郎 故植草松之助 故宇田川安三 埓正敏 加賀見勘之助 故中里龍三郎 故浅香雅良 故植草登美男 織原秀次郎 埓善松 吉野清 加瀬重雄 荻原貞男 西野正 堀七郎 永田仁男 松浦宗一 戸崎利八 相田治男 小林政成 植草行勝 中盛恒雄 秋元秀雄 滝下文治 埓與政 脇田綋一 鈴木信利 宇田川吉彦 安食浩一郎 稲田健一 安食洋子 稲田敏子 加賀見典央 加賀見恒雄 金田清 所在地 江東区南砂7-14-18 (富賀岡八幡宮) 富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保4年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。 江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。 砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚に左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。 塚はもともと30mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和8年(1933)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボック石)で固め、昭和37年(1962)現在地に移築されました。 塚に付随している数多くの富士講碑により、現代まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。 平成18年(2006)2月 江東区教育委員会 南東方向から見た砂町の富士塚〔昭和30年(1955)頃 江東区教育委員会所蔵〕 所在地 江東区南砂7-14-18 (富賀岡八幡宮) 出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山(いづれも山形県)の総称で江戸時代中頃から霊山・修験道の大和して主に東北や関東の村々から多くの登拝者を集めている。この三山碑は文政2年(1819)砂村の講中によって造立されたものである。碑面中央下部にみえる「大先達智憲院」は湯殿山の山上衆徒の三先達の一人で砂村地域は江戸時代この智憲院の支配下(檀那場)にあったと思われる。江戸から出羽まで往復350余里(1000キロメートル以上)を数え略1か月を要する行程であるにもかかわらず多くの信者を招聘し得たのは3年に1度の檀那廻り配札また宿泊施設への案内に奔走した御師たちの布教活動にあった。碑は高さ37センチ(糎)巾81センチ(糎)で安山岩(小松石)製である江東地区三山碑はこの富賀岡八幡宮のものだけである。 平成11年(1999)8月 宮司 荒井八雲 所在地 江東区常盤1-1-3 芭蕉記念館 分館史跡展望庭園 深川芭蕉庵 ここ深川の芭蕉庵は、蕉風俳諧誕生・発展の故地である。延宝8年(1680)冬、当時桃青と号していた芭蕉は、日本橋小田原町からこの地に移り住んだ。門人杉風所有の生簀の番小屋であったともいう。繁華な日本橋界隈に比べれば、深川はまだ開発途上の閑静な土地であった。翌年春、門人李下の送った芭蕉一株がよく繁茂して、やがて草庵の名となり、庵主自らの名ともなった。以後没年の元禄7年(1694)にいたる15年間に、三次にわたる芭蕉庵が営まれたが、その位置はすべてほぼこの近くであった。その間、芭蕉は庵住と行脚の生活のくり返しの中で、新風を模索し完成して行くことになる。草庵からは遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で、大小の船が往来した。それに因んで一時泊船堂とも号した。 第一次芭蕉庵には、芭蕉は延宝8年(1680)冬から、天和2年(1682)暮江戸大火に類焼するまでのあしかけ3年をここに住み、貧寒孤独な生活の中で新風俳諧の模索に身を削った。 櫓の声波ヲ打つて腸氷ル夜や涙 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 氷苦く偃鼠が咽をうるほせり 天和3年(1683)冬、友人素堂たちの好意で、53名の寄謝を得て、「本番所森田惣左衛門御屋敷」の内に、第二次芭蕉庵が完成した。草庵の内部は、壁を丸く切りぬき砂利を敷き出山の釈迦像を安置し、へっついが2つ、茶碗が10個と菜刀1枚、米入れの瓢が台所の柱に掛けてあった。『野ざらし紀行』『鹿島詣』『』笈の小文』の旅はここから旅立った。 古池や蛙とびこむ水の音 華の雲鐘は上野か浅草か 蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 元禄2年(1689)『おくのほそ道』の旅立ちの際手離された旧庵の近くに、元禄5年(1692)5月杉風らの尽力で第三次芭蕉庵が成った。新庵は、三部屋から成り、葭垣、枝折戸をめぐらし、池を前に南面し、水楼の赴きがあった。他に預けてあった芭蕉も移し植えられた。 名月や門に指し来る潮頭 川上とこの川下や月の友 秋に添うて行かばや末は小松川 芭蕉庵の所在地は、元禄10年(1697)松平遠江守の屋敷となり、翌元禄11年(1698)には、深川森下町長慶寺門前に、什物もそのまま移築されたようである。 平成7年(1995)4月 江東区 芭蕉翁之像 この像は、芭蕉の古参門人で経済的な庇護者であり、深川芭蕉庵の提供者ともいわれる杉山杉風(1647~1732)が描き、京都の画家吉田偃武が忠実に模写した芭蕉翁之像畫により制作したものです。 (原画 岐阜県高山市 加藤功氏 蔵) 平成7年(1995)4月 芭蕉庵再興集 明和8年(1771)に、大島蓼太が、芭蕉百回忌取越し追善のため、深川要津寺に芭蕉庵を再興した。その記念集『芭蕉庵再興集』所載の図である。庭中に流れを作り、芭蕉を植え、句碑を建て、傍らの小堂には、芭蕉像と芭蕉の帰依仏である観世音像を祀った。草庵の丸い下地窓、枝折戸が印象的である。画者子興は浮世絵師栄末斎長喜。(学習院大学蔵) 芭蕉文集 安永2年(1773)に、小林風徳が編集出版した『芭蕉文集』に掲載する図である。窓辺の机の上には、筆硯と料紙が置かれ、頭巾を冠った芭蕉が片肘ついて句想を練っている。庭には芭蕉・竹・飛石・古池を描く。以後これが芭蕉庵図の一つのパターンとなる。絵の筆者は二世祇徳で、この日とは芭蕉を敬愛すること篤く、『句餞別』の編者でもある。 埋木の花 明和8年(1771)に再興された深川要津寺の芭蕉庵を、それから55年後の文政9年(1826)に、平一貞がその著『埋木の花』に実見記録したもの。「古池や」の句碑は、安永2年(1773)に深川材木町(現佐賀町)に住んだ書家三井親和の筆。現在江東区芭蕉記念館庭園にある「古池や」句碑は其の模刻である。 俳諧悟影法師 天保8年(1837)に鶏鳴舎一貫が著した『俳諧悟影法師』の巻頭に載せる図である。画者渓斎は、浮世絵師池田英泉である。構図は安永2年(1773)刊、小林風徳編『芭蕉文集』所載の図とそっくりだが、描線ははるかに柔軟であり、細部の描写もみごとである。 深川八貧図 蝶夢編の『芭蕉翁絵詞伝』の一齣で、いわゆる深川八貧の図である。元禄元年(1688)12月17日の雪の夜、芭蕉のほか苔翠・依水・泥芹・夕菊・友五・曽良・路通の7人が芭蕉庵に集まり、米買・薪買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊の題で句を作り興じた。芭蕉は米買の題で「米買に雪の袋や投頭巾」と詠んだ。絵はその場面を描いている。(義仲寺蔵) 芭蕉翁絵詞伝 蝶夢は芭蕉百回忌の顕彰事業の一環として芭蕉の伝記を著作し、狩野正信の絵と共に絵巻物風に仕立て義仲寺に奉納した。その絵を吉田偃武に縮写させ、寛政5年(1793)に刊行した。図はその一齣で葭垣・枝折戸をめぐらした草庵の中で、芭蕉がみずから笠を作っているところ。笠は竹の骨に紙を貼り重ね、渋を塗り・漆をかけて仕上げる。 芭蕉翁略伝 天保14年(1843)は、芭蕉百五十回忌に当たり、さまざまの行事があったが、幻窓湖中は編年体の芭蕉伝記『芭蕉翁略伝』を書き、西巷野巣の校合を得て、弘化2年(1845)に刊行した。本図はその挿絵で、茅屋に芭蕉・柴門、背後に広々と隅田川の水面を描く。画者は四条派の絵をよくした原田圭岳である。 俳人百家撰 江戸の緑亭川柳が安政2年(1855)に刊行した『俳人百家撰』に掲載する図である。絵は、天保5年(1834)~天保7年(1836)に刊行された『江戸名所図会』所載の図とそっくりである。上欄の文の内容には誤りも見られるが、芭蕉が「古池や」の句を詠んだ古池が、松平遠江守の屋敷の庭に現存すると書いている。画者の玄魚は浅草の人宮城喜三郎。 深川芭蕉庵 俳誌『ホトトギス』明治42年(1909)1月号に所載の図である。中村不折は幕末慶応2年(1866)生まれの書家・洋画家。本図は不折の祖父庚建の原画を模写したものであるという。従って本図の原画は19世紀初頭前後に描かれたものであろう。手前の土橋は、『芭蕉庵再興集』所載図の土橋と似たところがある。 |
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