東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区亀戸6-8-10・17~22 占風園跡 占風園とは、近江国(滋賀県)仁正寺藩市橋氏の下屋敷の雅名です。昔、この近辺は「本所五ツ目」と呼ばれましたが、市橋氏は、この地に下屋敷5千6百坪を拝領していました。 『葛西志』によると、占風園は寛文期(1661~1673)に造営され、元禄期(1688~1704)の修築で景勝が整えられたといいます。広大な「釣月池」を中心に、周囲に築山、橋、茶屋をめぐらした回遊式の庭園で、その景色を題材にして元禄7年(1694)に「占風園十勝詩」が詠まれ、他にも「占風園十七詠」などの和歌が残されています。享保5年(1720)7月29日には、将軍吉宗が鷹狩りの際、雨宿りに立ち寄っています。また、『東京市史稿』遊園篇第二には、文化9年(1812)に藤原祐壽が描いた占風園の四季の図があり、その美しい風景の様子をよく伝えています。 平成11年(1999)3月 江東区教育委員会 PR 所在地 江東区猿江2-16 五百羅漢道標 五百羅漢道標は、五百羅漢寺への道筋を案内する道しるべです。かつては、現在地より50mほど東にあった庚申堂の前に、川に面して建てられていました。正面には「是より五百らかん江右川[ ](通) 八町ほど先へ参り[ ](申)」、右側面には「此横道四ツ目橋通り亀戸天神□」とあり、亀戸天神への道も示しています。 造立年代は不明ですが、左側面の銘文により享保16年(1731)、寛政9年(1797)、文化2年(1805)の計3回再建されたことがわかります。現在の道標は文化2年(1805)に再建されたものです。 五百羅漢寺とは、明治20年(1887)まで現在の大島4-5付近にあった、天恩山五百阿羅漢寺(現在は目黒区に移転)のことです。堂内に安置された536体の羅漢像やらせん状の廊下をもつ三匝堂(通称さざえ堂)が有名で、亀戸天神と並び多くの参詣客を集めました。 この道標は、川沿いの道を歩く人はもちろんのこと小名木川を船で訪れる人の目にも留まるように建てられていました。陸上と水上の両方の道を対象とした、水路の恵まれた江東区ならではの文化財です。 平成19年(2007)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区猿江2-16 五本松跡 江戸時代この付近から東にかえて小名木川の河畔に老松があり小名木川の五本松として有名となり地名ともなったほどであってその一本の松が■鬼家の屋敷から道をこえ水面を覆っている風景が江戸名所図会に描かれ、錦絵などにも取材されたが明治時代にいたって枯れてしまった。 所在地 江東区猿江2-16先 釜屋堀子育地蔵堂 大島橋が最初に架けられたのは、元禄13年(1700)で、場所は今より南の横十間川が小名木川に合流するところであった。小名木川に沿っていた行徳道をつなぐ役割を果たしていた。現在地に移されたのは、昭和2年(1927)7月のことである。 この付近は、かつて鋳物師の釜屋六右衛門・七衛門の工房があり、多くの名作が生み出された。五百羅漢寺(大島4丁目付近)への参詣の道でもあり、釜屋堀子育地蔵堂には、「五百らかん道標」(文政12年〔1829〕)が残っている。 所在地 江東区亀戸1・6~大島2・3 五之橋(五の橋) 五之橋の下を流れる堅川は、万治2年(1659)本所築立奉公であった徳山五兵衛重政及び山崎四郎左衛門が、大横川、横十間川と共に新田開発を目的として開削した用水路であった。 堅川の開削に合わせ西の方から、一之橋を始めとして5つの橋が架けられた。当時この付近は、畑地が多く、人の往来も少なかった。 御府内備考によれば、「御人用無益之場所」として、貞享元年(1684)、本橋は取り払われ船渡しとなったと言われている。 元禄8年(1695)、五百羅漢寺が建立されたため、この渡しを利用する者も多くなり、「羅漢の渡し」や「五ツ目の渡し」と呼ばれ人々に親しまれてきた。 その後、明治12年(1879)に本橋が架けられたが大正12年(1923)の大震災により落橋した。 震災復興により昭和3年(1928)本橋は銅橋に架け替えられた。 戦災にも耐えた本橋は老朽化には■■■、昭和50年(1975)再度架け替えられた。 親柱は震災復興記念として現在も残されている。 亀戸、大島地域の発展に大きな役割を果たしたこの橋は、昭和63年(1988)東京都著名橋に指定された。 平成4年(1992)3月 所在地 江東区古石場1-2-10 妙榮稲荷大善神(妙栄稲荷大善神) 当 妙栄稲荷大善神の御本尊は寛永年間の頃、当地に下屋敷を構えていた。松平越中守の屋敷内に安置されていたと言われ越中守の護り本尊として家運の繁栄と火防けの神様として熱心に信心した稲荷と言われる。維新後明治政府により大名の廃藩が行なわれた際、大名の領地は国有地や一部は一般に開放された越中島の地名は越中守所有の島の意である。 当時、エ中守の留守居役だったと言われる鎌田氏が此の一帯を下賜された時にお稲荷さんも戴き守護神として代々祀っていた。其の後幾多の変遷が有りましたが最後には町会で管理することになりました。震災(大正12年〔1923〕)後この辺いったいは区画整理が行なわれた時、現在の地に安置される。以後社殿も町内の皆様により立派な社殿となり町内の安全と繁栄の守護神として深い信仰を集めて居ります。 昭和61年(1986)4月吉日 吉石場1丁目西町会 所在地 江東区住吉2-14-6 (まなべ幼稚園) 真鍋儀十先生胸像 真鍋儀十先生は撞球の愛好家であり稀に見る理解者である その撞球業界が風俗営業取締法の対照となっているのを遺憾とされ衆議院議員としてそれが改正法律案を同志を糾■昭和30年(1955)の第22国会に提案され其7月廿日成立を見て以来撞球は純正スポーツとして認められるに至った 茲に撞球界として真鍋儀十先生は撞球純正スポーツ化の父として永遠に忘れることの出来ない大恩人である 撞球界は茲に真鍋先生胸像建立発起人会を結成し全玉業界に■檄胸像建立の募金を行い此処にその完成を見たのである 昭和35年(1960)11月15日 胸像建立発起人会 発起人代表 水越申吾 全連会長 安田寛三 副会■ 桑原美一郎 副会長 和田撤次 京都代表 中島作太郎 大阪代表 木戸幸一 北海道代表 佐藤■一郎 発起人 前田庄治郎 宮本三代司 川俣欣也 河辺潔 以下65名 所在地 江東区森下5-15 八百霊地蔵尊 昭和20年(1945)3月10日大東亜戦争による米軍東京大空襲により一朝にして犠牲となった当時の深川高橋5丁目の町民800余名の霊を慰めるため昭和21年(1946)生存者町民有志によりこの地蔵尊が建立された この由来を後世に伝へ併せて恒久の平和を祈るため30周忌を記念してこの碑を建てた 昭和49年(1974)3月10日 江東区森下5丁目町民有志 所在地 江東区北砂5-20-16 (亀高小学校付近) 松平冠山屋敷跡 松平冠山(本名池田定常)は、明和4年(1767)旗本池田政勝の次男として生まれ、安永2年(1773)7歳で因幡国鳥取藩(島根県)の支範若桜藩(西館家・鉄砲洲家)2万石の家督を継ぎ、第5代藩主となりました。冠山は、5歳のころより地理を好み、14歳にして江戸の地名をいろは寄せにして1冊にまとめるなど、早くから学問に興味を持ち始め、儒学者の佐藤一斎に学ぶこと40年に及んでいます。生涯の著述は『江戸黄檗禅刹記』や『浅草寺誌』等約70種を数えますが、現存するのはわずか15種ほどです。 文政12年(1829)62歳のとき江戸大火により鉄砲洲(中央区)の上屋敷が被災し、膨大な蔵書と原稿の大半を失ってしまい、亀高村の下屋敷(4千坪)に転居します。ここでの冠山は質素な生活を送りましたが、『江戸名所図会』等に序文を求められるなど、当時の著名な学者大名毛利高標(佐伯藩)・市橋長昭(仁正寺藩)とともに「文学三侯」と並び称されました。 天保4年(1833)67歳で没し、墨田区弘福寺(黄檗宗)に葬られています。 平成12年(2000)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区北砂5-20・21 精製糖工業発祥の地碑 砂糖は8世紀に伝来し、17世紀広汎までは薬として珍重されてきたといわれています。江戸時代には、8代将軍徳川吉宗が国産化を奨励、明治に入ると、日本の各地で精製糖(白砂糖)の製造が試されるようになります。しかし、いずれもうまくいかず、明治23年(1890)、この地に建てられていた鈴木藤三郎の製糖所でようやく成功し、砂村において日本で初めて純白の砂糖が誕生しました。 鈴木藤三郎は、安政2年(1855)遠江国(静岡県)に生まれ、明治17年(1884)より氷砂糖を製造していました。明治22年(1889)、上京し、砂村に工場を移し、明治25年(1892)から本格的に精製糖の製造を開始しました。 藤三郎が工場の移転地としてこの地を選んだ理由は、原料や製品の運搬に小名木川の水運がとても便利だったからです。また砂村は、砂糖の国産あの奨励地として、徳川吉宗が甘藷(さとうきび)の苗を栽培させた。極めて砂糖とゆかりの深い土地であったためでもありました。 平成4年(1992)3月 江東区教育委員会 所在地 江東区北砂2-1-38 石田波郷宅跡 俳人石田波郷は、中村草田男や加藤楸邨らと並び人間探求派と呼ばれ、現代の俳句を発展させたひとりです。 波郷は、大正2年(1913)に愛媛県で生まれました。昭和21年(1946)にここ江東区北砂に移り、33年(1958)まで居を構えていました。その間『現代俳句』を創刊するなど俳壇の復興に力を注ぎ、自らも句集『惜命』を出すなど、数多くの名作を残しました。 みずみずしい情感と、生命を燃焼させた作品を生み続けましたが、昭和44年(1969)11月21日に病気のため56才で亡くなりました。お墓は調布の深大寺にあります。 隣りの妙久寺には、 蘩蔞や焦土のいろの雀ども 波郷 の句碑が建っています。 昭和63年(1988)3月 江東区 所在地 江東区門前仲町1-19-15 旧東京市深川食堂 東京市深川食堂は、東京市が社会事業施策として、大正9年(1920)から順次設置した16ヵ所の市設食堂のひとつです。延床面積は106坪。関東大震災の復興事業の一環として、昭和6年(1931)に着工、翌昭和7年(1932)に竣工しました。市設食堂とは低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設のことです。昭和11年(1936)に閉鎖されましたが、昭和13年(1938)に東京市深川栄養食配給所として活動を再開、東京大空襲で被災しましたが全焼をまぬgれ、戦後部分修復して、東京都の職業斡旋施設となり、昭和32年(1957)には授産機能、昭和36年(1961)には福祉機能が追加されました。昭和54年(1979)に江東区へ移管され、「江東区内職補導所」と改称し、数度の名称変更を経て、平成18年(2006)に閉鎖されるまで利用されました。 構造は2階建て鉄筋コンクリート、外壁はモルタル下地吹上仕上げ。大震災の教訓を活かし、当時の最先端技術である鉄筋コンクリートが採用されました。デザインの特徴は、明るく開放的な吹き抜け空間になっている階段室と、2階南側のスチール・サッシュ窓にあります。震災復興の近代建造物としての稀少性が認められ、平成20年(2008)に国登録文化財に登録されました。 平成21年(2009)9月 江東区教育委員会 所在地 江東区扇橋1-20 民営機械製粉業発祥の地碑 明治12年(1879)、明治を代表する実業家雨宮敬司次郎は、水運の便のよい小名木川に着目して、この地にそれまでの水車動力に代わる蒸気機関を動力源とした、民営では最初の近代機械製粉所「泰靖社」を創設しました。 欧米を視察して製粉事業の将来性を確信した雨宮は、蒸気機関のほか石臼製粉器、節器などの製粉装置を米国から輸入して製粉事業の経営に成功をおさめました。 雨宮の製粉事業は東京製粉合資会社に受け継がれ、明治29年(1796)に日本製粉株式会社に改組されました。また、小名木川沿岸には明治30年代に製粉会社が次々と設立され、全国でも屈指の小麦粉生産高を誇るようになりました。こうして泰靖社は、小名木川沿岸にさまざまな近代的工場が進出してくるさきがけともなったのです。 なお、明治初期の機械製粉所には、開拓使により札幌に設立された磨粉機械所(明治9年〔1876〕)、大蔵省による浅草蔵前の製粉所(明治12年〔1879〕)の2つがありましたが、これらの官営製粉所はともに日本製粉株式会社がその事業を継承しました。 江東区 |
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