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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区永代1中央区新川1

日本国重要文化財  
 〔諸元〕
橋長  184.7メートル
幅員  25.6メートル
上部工 鋼製3径間カンチレバー式タイドアーチ橋
 〔所有者〕
東京都
 〔指定年月日〕
平成19年(2007)6月18日指定(建第2501号)
 〔指定の意義〕
 永代橋は、関東大震災復興事業によって建造され大正15年(1926)12月に竣功した。
 永代橋の特筆すべき点として、上部構造は橋端部に水平力の及ばないライズ比7分の1の下路式タイドアーチで、リブに鋼板を充腹して剛性を高めたソリッドリブアーチ端部を高張力マンガン鋼のデュコール鋼を使ったアイバーで連結したアーチと、箱型鈑桁の突桁及び吊桁からなる構造である。放物線状の大規模アーチを中心として、桁高を巧みに変化させた荘重な造形により、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
 下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚2基と、締切工法による橋台2基からなる。
 建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興局土木部長太田円三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師竹中喜忠らである。
  東京都知事 石原慎太郎
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所在地 江東区永代1-14

 江東区登録史跡
佐久間象山砲術塾跡

 この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化8年(1811)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保4年(1833)江戸へ出て佐藤一斎に朱子学を学び、天保13年(1842)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(1840~1842)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、9月には江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。
 嘉永3年(1850)7月、深川小松町(永代1)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。嘉永3年(1850)12月、いったん松代へ帰藩しますが、翌嘉永4年(1851)再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・阪本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。
 安政元年(1854)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、7月11日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、54歳の生涯を閉じました。
 平成21年(2009)3月  江東区教育委員会


     佐久間象山(国立国会図書館所蔵)


所在地 江東区永代1-14

江戸中期(元禄時代)の豪商紀国屋文左衛門が京都伏見稲荷神社より御霊を拝受しこの地にお祀りしたのが当紀文稲荷神社です。
紀国屋文左衛門は第5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保荻原重秀等と結び風浪を冒して紀州よりミカンを江戸に運びまた材木商として明暦の大火に木曽の木材を買い占め数年で巨万の財を築き豪遊して紀文大尽と称せられてことはあまりにも有名です。
紀国屋文左衛門の店は八丁堀にありその下屋敷が現在の第一勧業銀行深川支店あたりにありました当時この付近一帯は運河が縦横に走り此処に紀国屋文左衛門の船蔵があり航海の安全と商売の繁盛を祈ってこの地にお稲荷様を祀ったものです。
以前この付近一帯は窪田家の所有地でありましたが窪田家の没落とともに祀る人もなく荒れるがままに放置されておりました。
昭和の始め頃この付近に疫病が流行し行者にその平癒をお願いしたところ何処かに放置されたお稲荷様があるはずでそのお稲荷様を祀れば疫病は平癒すると言うご神示を戴き当時草原と化していたこの付近を捜索した結果荒れ果てた祠を発見し肥料商人中田孝治が発起人となり現在の社殿を建立お祀りしたところ疫病は平癒し商売も大繁盛しました。
爾来商売繁盛家内安全のお稲荷様として広く信仰を集めて参りました。
富士浅間神社 龍神様 は中田孝治が富士講の講元をしていたことから富士浅間神社の御霊を拝受してお祀りしたものです。
元の境内は現在地より北西約30米の奥まったところにありましたが昭和62年(1987)大和永代ビルディング建設に伴い三菱倉庫株式会社の深い信仰心に基づく真摯な移転作業により昭和62年(1987)3月31日遷座祭を執り行い現地に移転しました。
又境内にある石はこの付近にあった米問屋肥料問屋等で働く力自慢の人達が差し上げることが出来た大石に自分の名を刻み記念としたものです。現在でも当神社総代鶴岡秀雄氏会長をされている深川力持会がその伝統を受け継ぎ東京都から無形民俗文化財に指定されております。
 昭和63年(1988)5月吉日 



所在地 江東区永代2-37 (澁澤シティプレイス永代) 

    江東区登録史跡
 渋沢栄一宅跡

 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。


                       渋沢栄一旧宅(渋沢史料館所蔵)

 渋沢栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 渋沢栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のたまに尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
 平成21年(2009)3月 江東区教育委員会


所在地 江東区永代・清澄・佐賀・門前仲町・富岡の一部

 江戸時代の初め、隅田川の河口付近に深川猟師町が開けました。これは、現在の清澄・佐賀・門前仲町・富岡あたりになります。
 寛永6年(1629)、摂津(大阪府)方面から来た8人の猟師たちが幕府に願い出て、汐除堤の外の干潟になっているところを埋め立て、自分たちの名前をつけた8つの町をつくりました。その時の町名は、弥兵衛町・次郎兵衛町・藤左衛門町・親兵衛町・利左衛門町・助十郎町・彦左衛門町・助右衛門町で、これに大島町を加えた9カ町をあわせて深川猟師町と呼びました。元禄8年(1695)、町名を清住町・佐賀町・相川町・熊井町・冨吉町・諸町・黒江町・大島町と改め、8カ町となりました。やがて、深川の猟師町にはその他の町も含まれるようになり、昭和の中頃まで漁業や海苔の養殖を続けていました。
 平成4年(1992)3月  江東区教育委員会


                       本所深川絵図(嘉永5年尾張屋板)


所在地 江東区永代1

  大島川西支川
 大島川西支川は、右岸佐賀2丁目・左岸福住2丁目で仙台堀川から分かれ、大横川(旧大島川)へ至る延長約820メートルの河川です。両岸は、おおよそ元禄期(1688~1704)までに埋立てられた町で、川沿いには河岸地が設けられ、かつては荷物の積み降ろしなどでたいへん賑わっていました。



 本川の大島川は、木場5丁目から隅田川へ注ぐ河川で、名称は、北岸の大島町(現永代2丁目の内)に因みます。昭和40年(1965)の河川法改正にほり大横川に併合され、西支川・東支川に大島川の名勝が残されましたが、平成4年(1992)、東支川が区立木場親水公園となったため、現在の地図上では西支川のみが河川としてその名称を受け継いでいます。
 江東区

 


所在地 江東区永代2-37-23

高野山真言宗
 瑠璃光山 萬徳院

 


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