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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区森下1

 伊東深水は、明治31年(1898)2月4日、深川西森下町の深川神明宮門前で生まれました。本名は一。深川尋常高等小学校に入学後、2年生のときに父が失職し、深川の地を離れました。しかし、深川との縁は深く、明治41年(1908)には深川東大工町の東京印刷株式会社(白河4-9)に勤務。ここで画才が認められ、明治44年(1911)に日本画家の鏑木清方に入門しました。深水の雅号は、深川の水にちなむもので、清方がつけたものです。
 入門の翌年、巽画会展出品作「のどか」が初入選。大正3年(1914)に「桟敷の女」、翌年には「十六の女」がそれぞれ院展、文展で入選し、その後も高い評価をうけました。また、大正中ごろには、新版画運動に共鳴し、木版画「対鏡」を制作。雑誌や新聞小説の挿絵、口絵なども手がけました。
 深水は、江渡の浮世絵の伝統を受け継ぎ、女性の美しさを創出する日本画家として、日本の近代美術史に大きな功績を残しました。その功績から、昭和33年(1958)5月には日本芸術院会員になり、昭和47年(1972)5月8日に74歳で没しました。
 平成15年(2003)10月  江東区教育委員会

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所在地 江東区森下1-3-17 (深川神明宮)

 深川七福神
  
  寿老人



 この辺一帯は、慶長年間(1596~1614)に摂津国(大阪府)の深川八郎右衛門ほか6人が新田を開拓し、八郎右衛門の姓をとり深川村と名づけられた、深川村発祥の地です。八郎右衛門は持地内の小祀に神明を勧請したと伝えられ、これが深川神明宮です。
 のち、現在の新大橋・常盤・高橋・森下・猿江・住吉あたりの開拓が進み、八郎右衛門は代々名主をつとめました。
 深川七福神のひとつ(寿老人)として親しまれています。




  由来記 碑

 今カラ凡ソ四百余年ノ昔深川ノ地ハ、葦ノ茂ル三角洲で住
ム人モ無カッタ ソノ頃深川八郎右衛門ト云ウ人ガ一族ヲ引連レコノ一帯ヲ開拓シタ 八郎右衛門ハ敬神ノ念篤ク、崇敬スル伊勢皇大神宮ノ御分霊ヲ奉齋シテ、開拓民ノ福祉ト当地ノ発展ヲ祈願シタノガ深川神明宮ノ初メデアル ヤガテ徳川家康公ガ江戸ニ入府、慶長元年当地ヲ巡視シ八郎右衛門ヲ召シテ地名ヲ尋ネタ 未ダ住ム人モ少ナク地名モ無キ由答エルト、家康公ハ八郎右衛門ノ姓「深川」ヲ以テ地名トセヨト命ジタ 深川ノ地名ノ起コリハ、神明宮ノ鎮座スル実ニ此ノ地ナノデアル
 爾来深川ノ地ハ江戸ノ繁栄ト共ニ発展シ、当宮モ「深川総鎮守神明宮」ト称エラレ、多クノ崇敬ヲ集メルコトトナッタ ソノ間ニハ震災戦火ノ大キナ災禍ガアッタガ、氏子万民ノ赤誠ヲ以テ昭和43年(1968)ニ御社殿御造営モ成リ、衆庶ノ崇敬益々旺ンデアル
 今般、郷土和楽万民繁栄ヲ祈念シテ御鎮座四百年祭ヲ齋行スルニ当タリ、今日ノ繁栄ノ礎ヲ築イタ郷土ノ先人ニ感謝シ、当宮ノ由緒ヲ茲ニ記ス
 平成9年(1997)8月吉日
 深川神明宮宮司 内野成浩 謹撰
 神宮禰宜      藤井昭彦 謹書





     深川神明宮末社 和合稲荷神社
  御由緒
古くは御神域内の各所に各々にお祭りしていた 左の十一柱の神々を昭和に入って末社として合祀し、和合稲荷神社となった
  御祭神と御神徳
和合大神 伊邪那岐 伊邪那美のニ神
 夫婦和合の妙徳により万物修理固成せり
稲荷大神 宇迦御魂大神
 御神徳は五穀豊穣 商売繁盛なり
浅間大神 木花開耶姫
 霊峰富士の山に鎮まる神なり
厳島大神 一杵島姫神
 芸道富有を司る弁天さまなり
疱瘡大神 建速須佐之男神
 疱瘡を初め病流行の守護なり
鹿嶋大神 武甕槌神
 国土平定のとき尚武の守護なり
大国大神 大国主大神
 御神徳は健康守護なり
御嶽大神 少名毘古那神
 禁厭祈祷 医薬の道をも講せらる
金比羅大神 大物主神
 水に関する守護なり
道祖大神 猿田彦神
 道路を司り旅行安全の守護なり
北野大神 菅原道真公
 御神徳は学業成就なり

 平成19年(2007)5月3日 深川神明宮社務所


所在地 江東区森下

江東区登録史跡
 五間堀跡

 五間堀は小名木川と堅川を結ぶ六間堀からわかれる入堀です。五間堀という名称は川幅が五間(約9m)であるところから付けられ、六間堀とともに江戸時代から重要な水路でした。
 五間堀の初見は寛文11年(1671)の江戸図で、六間堀とともに記載されており、五間堀が開削された時期は、明暦の大火(1657)によって付近一帯の再開発がなされた万治年間(1658~1660)ころか、それ以前と考えられます。
 五間堀は江戸時代には富川町(森下3)までで堀留となっていましたが、明治8年(1875)、付近の地主であった元尾張藩主徳川義宜により掘りすすめられ、明治10年(1877)ころに小名木川まで貫通しました。
 昭和11年(1936)・昭和30年(1955)の2度の埋め立てにより、現在、五間堀は全て埋め立てられています。
 平成12年(2000)3月 江東区教育委員会


所在地 江東区森下2-22-9 (長慶寺) 

江東区指定有形文化財(絵画)
 絹本着色釈迦十六善神像
     
 この釈迦十六善神像は、本紙を幀貼装にしたものです。本紙は縦114.8cm、横57.3cm。幀貼装は縦138.9cm、横73.9cmです。
 十六善神とは、「大般若経」およびその経の愛持者を守る十六種の守護神です。釈迦十六善神像は、鎮護国家・除災招福のため宮中や諸大寺において行われた「大般若経」を転読する大般若会の本尊として祀られました。仏画としては基本的なもので、平安時代末からみられますが、特に鎌倉時代から室町時代にかけて多く描かれ、全国に作例が残されています。
 画像は、蓮華座に坐す釈迦如来を中心に、その左右に獅子に乗る文殊菩薩と白象に乗る普賢菩薩、法涌菩薩と常啼菩薩、経巻を積んだ笈を背負う玄奘三蔵と鬼神形の深沙大将を対にして並べ、その外側に十六善神を二分して配置しています。
 本像は、描線の力強さや、迫力のある造形性、濃厚で鮮やかな彩色などから桃山時代後期から江戸時代初期のものと推定されます。中世にまでさかのぼる作例がほとんどみられない江東区にとって貴重な作品といえます。
 平成10年(1998)8月 江東区教育委員会


所在地 江東区森下2-22-9 (長慶寺) 

 近代小学校発祥地 東京府小学第六校
 深川小学校誕生之地

明治2年(1869)2月。明治政府ハ「府県施政順序」ヲ公布、「小学校ヲ設ケル事」ヲ命ズ。明治3年(1870)6月28日。東京府ハ深川森下長慶寺ニ「東京府小学第六校」ヲ設置。明治4年(1871)12月。文部省ハ小学第六校ヲ「文部省直轄小学校」トスル事ヲ市達。明治5年(1872)8月。政府ハ「邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナキヨウニ」ト「学制」公布。明治6年(1873)5月。「官立小学第六校」ヲ「第六中学区一番小学深川学校」ト命名。
 平成15年(2003)5月吉日
 深川小学校開校130周年記念 10代目石幸刻


所在地 江東区森下2-22-9 (長慶寺) 

芭蕉翁句塚跡(発句塚、時雨塚、短冊塚)


               昭和16年(1941)当時の松尾芭蕉翁碑・宝井其角碑


                               現在


所在地 江東区森下2-22-9 (長慶寺) 

宝井其角(宝晋斎)墓


               昭和16年(1941)当時の松尾芭蕉翁碑・宝井其角碑


                                                                現在


所在地 江東区森下1-18

 弥勒寺橋は六間堀からわかれる五間堀にかけられていた橋です。この橋の初見は寛文11年(1671)の江戸図で、江戸時代前期には、既に架橋されていたことがわかります。
 弥勒寺橋という名称は、橋の北東に真言宗弥勒寺があったことに由来します。しかし、弥勒寺は、元禄2年(1689)に本所へ移ってきたので、弥勒寺橋と呼ばれるようになったのはそれ以降のことと考えられます。
 五間堀は、昭和11年(1936)・昭和30年(1955)の2度の埋め立て許可により、全て埋め立てられ、その後弥勒寺橋も廃橋となりました。
 平成12年(2000)8月 江東区



所在地 江東区 ~ 墨田区

  二ッ目通り(清澄通り)
 明暦3年(1657)江戸の大半を灰にした例の明暦大火の後、幕府は市街地の区画大整理を行いました。万治2年(1659)、江戸城の再興と共に開始された大事業は寛文元年(1661)に完了しました。開拓は道路と河川を一体的に整備したもので東西及び南北を軸とした、直線的な計画がなされていました。その中で、深川地区は堅川の掘削の後、架けられた橋に西から一之橋、ニ之橋・・・・五之橋と名付けられました。その後、各々の橋の通りが通り名となったようです。二ツ目通りは堅川ニ之橋通りと呼ばれ、その後簡略化され、二ツ目の橋通りを経て、二ツ目通りと呼ばれるようになりました。江戸名所図絵には五間堀に架かる立派な弥勒寺橋と共に堅川ニ之橋通りの名が残されています。



所在地 江東区森下2-22・3-13 森下3-10・11付近

  近代の輸出陶磁器製造所跡

瓢池園陶磁器工場跡(江東区森下2-22・3-13付近

旭焼陶磁器窯跡(江東区森下2-10・11



 明治期には陶磁器は輸出品として注目され、また技術的にも幕末期以降にヨーロッパから新しい上絵具や顔料が伝わり、新たな絵付の技法が確立しました。その結果、輸出向け陶磁器を製造する陶磁器工場・陶磁器窯があらわれました。
 瓢池園陶磁器工場は、明治6年(1873)、浅草芝崎町の磁器製造所の御用係であった河原徳立が、同所の廃止を機に深川森下町37番地に開いた陶磁器絵付工場です。瓢池園では納富介次郎の確立した、絵付に松などから採れるテレピン油を使用する納富式を採用し、輸出用コーヒーカップなどを絵付しました。明治29年(1896)に深川東元町へ移転し、のちに愛知県の名古屋に製造拠点を移しました。
 旭焼陶磁器窯は、ドイツ人ワグネルが確立した絵付法などによる新しい陶磁器窯です。ワグネルは明治16年(1883)に旧東京大学理学部において釉薬の下に様々な色彩の絵柄を施す研究を開始し、明治19年(1886)に旭焼と称しました。明治23年(1890)には渋沢栄一や浅野総一郎らの出資をうけて深川東元町に旭焼の製造所をつくりましたが、明治30年(1897)には瓢池園と同じように愛知県に移転しました。
 平成10年(1998)3月 江東区教育委員会


           旭焼の陶磁器    瓢池園で製作された陶磁器


所在地 江東区森下5-15

 八百霊地蔵尊
昭和20年(1945)3月10日大東亜戦争による米軍東京大空襲により一朝にして犠牲となった当時の深川高橋5丁目の町民800余名の霊を慰めるため昭和21年(1946)生存者町民有志によりこの地蔵尊が建立された
この由来を後世に伝へ併せて恒久の平和を祈るため30周忌を記念してこの碑を建てた
 昭和49年(1974)3月10日 江東区森下5丁目町民有志


 


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