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東京都江東区の歴史
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所在地 東京都江東区常盤1-6-8先

 旧新大橋は元禄6年(1693)12月、この地先の墨田川に架設起工し52日間で完成し長さ百間幅員三間七寸あり当時橋名は両国橋を大橋と称していたので、この橋を新大橋といった。近くの深川芭蕉庵に住んでいた
芭蕉は新大橋の工事中
 初雪や かけかかりたる 橋の上
の句をよみ、また橋の完成をみて
 ありがたや いただいて踏む 橋の霜
の句をよんだ。

  昭和33年(1958)10月1日 江東区
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所在地 江東区常盤2-12~14

 <二代目中村芝翫(しかん)宅跡>江東区登録史跡

 歌舞伎役者の二代目中村芝翫は、寛政8年(1796)江戸下谷に生まれ、嘉永5年(1852)2月17日に57歳で没しました。
 はじめ舞踊家で初代藤間勘十郎の門人(のち養子)になり、藤間亀三郎を名乗りました。その後、江戸で出演中の三代目歌右衛門の弟子になり、文化10年(1813)に中村鶴助と改名、文政8年(1825)には二代目中村芝翫を継ぎました。屋号は成駒屋です。舞台では、立役(たちやく)、実悪(じつあく)、女方(おんながた)、武道(ぶどう)、荒事(あらごと)など、さまざまな場面で活躍し、天保7年(1836)には、四代目中村歌右衛門を襲名しています。


    二代目中村芝翫「義経千本桜」(国立劇場蔵)

 二代目中村芝翫は、天保のころこの辺りに住んでいました。そのため、小名木川に面してあった河岸は「芝翫河岸」と呼ばれました。天保2年(1831)に江戸の中村座で「六歌仙(ろっかせん)」を演じた時、喜撰法師(きせんほうし)(六歌仙の一人)の歌詞をひねって、
「我が庵は芝居の辰巳常磐町、而も浮世を放れ里」
と住居付近の様子をおりこんでいます。

  平成14年(2002)11月 江東区教育委員会


所在地 江東区常盤1-1-2

御祭神 宇迦之御魂命うかのみたまのみこと
例祭日 5月牛の日



 創立年月は詳ではないが、当地の鎮守の深川神明宮の摂社または末社とも伝えられる。万年橋際に鎮座していたことから万年橋稲荷とも称されていた。腫れ物の治癒に霊験あらたかで、その祈願には全快までそばを断ち全快すればそばを献じる。
  江東区



  正木稲荷由来碑



 近年柾木稲荷が正木稲荷に改められ、祭神は宇迦魂命(うかのみたまのかみ)と応神天皇を祭り、例祭は毎年二月初午の日である。
 創立は年代不詳、江戸時代古くより当社はあったようである。為永春水著「梅歴」の挿絵に当社が描かれ、奉納の幟に「柾木稲荷大明神、天保五年(一八三四)二月初午等」と書かれ名の知れた稲荷社であった。
 当社は江戸切絵図「本所深川絵図」に『マサキイナリ』と記載されている。この絵図は文久二年(一八六二)版である。また江戸名所図絵では「真先稲荷明神社」とも稱されている。江戸には稲荷社もっとも多く、この絵図には著名な稲荷社だけが記されている。当社はその一つであった。
 昔は柾木の大木があったので、この社名がつけられた。隅田川から小名木川へ入る目標として尊重されていた。また子供が柾木の葉を丸めてピーピー鳴らしていたのである。またその葉が腫れ物によくきいたともいわれている。その祈願には全快迄「ソバ」を断ち、全快すれば「そば」を献じて報賽する信仰があった。
 柾木(柾)はニシキギ科の常緑低木で、高さ三メートル、海岸近くに多く育ち庭木生垣用になり、葉は厚く滑らか、長楕円形、六月頃淡緑色の四弁花をたくさんつける。実は球形、開いて赤色の種子をだす。
 小名木川の水路は行徳(千葉)の塩を直線コースで江戸に運ぶため天正十八年(一五九〇)水路が開かれ、江戸が世界一の人口になるにつれ重要な河川となり、寛永六年(一六二九)現在の河幅に開さくされ、船舶取締りのため当社の隣に船番所が設置された。寛文元年(一六六一)船番所は大島九丁目の小名木川と中川の交査する場所に明治維新まで置かれた。
 また当初の近くに芭蕉庵があって大正十年十一月東京府が芭蕉翁古池の跡とし旧跡に指定した。しかし昭和五十六年この旧跡は芭蕉記念館に移転した。
 江東区の地図にも当社は記載されており、昔より町内持(維持経営)である。

  永代信用組合
     組合長 山屋幸雄

 正木稲荷神社
  総代   堀内一雄
  仝    塙政治郎 
  仝    木村清一
  仝    秋田勝郎
  仝    飯田直吉
  世話人  佐藤重次
  仝    宮内敏■
  仝    村垣芳康
  仝    飯塚勝
  仝    河野与七
  仝    山崎渡■平
  仝    山平典正
  仝    進藤一一
  仝    伊瀬吉之助
  仝    幅治策
  仝    右島章次
        市村保
        市村祐■
        栗城謙吾
        堀内重信
        北村正昭
        新田義久
        大江成人
        杉本重盛
        柳川秀重
        佐藤純人
        関口昌志
        塙鷹一
        塙市郎
        山形順治
        岩館武
 鮒■    藤田千代
 三番組  杉江隆
 碑文    細田隆善
 仝書    伊藤義男
 仝刻    中澤義男
    中央信用金庫
深川めし本家 みや本

 
      平成七年五月吉日建立


  正木稲荷の由来碑



かつて深川元町万年橋北側に柾木の大樹あり、その樹にほど近い隅田川の中州上に当社「正一位稲荷大明神」存す。
時の移る中、大樹朽ち、当社も幾多の変遷を経るが、当社ふるくから「腫物に効くおできの神様」との名高く、寛政10年(1798)、昭和6年(1917)の文記にも当社の名が見られ、文政10年(1827)6月16日には曲亭馬琴の妻女お百も「腫物平癒」の願かけに参詣の記録あり。昭和初期の祭礼には下町情緒豊かに、花柳界の「キレイドコロ」が人力車を連ね大変賑わっていた。
 ぴいぴも売れる柾木の御縁日
 陸奥米の籾の間に稲の神
 柾木のぴいぴい吹きながら野掛也
ご当社を読む句も残っている。
戦災後、先代三木常正宮司はじめ地元秋田勝三郎、飯田源次郎、塙善之助各氏世話人となり社殿復興す。そして平成2年(1990)の今日玉垣御社殿改修に際し、崇敬者の賛同を得て現状の整備を成す。
 平成2年(1990)5月吉日建之

 宮司         三木理代
 責任総代 堀内一雄
   仝    塙政治郎
 大善跡目 塙鷹一
 六区三番組小頭 杉江隆
 十代目石幸 中沢義男


所在地 東京都江東区常盤

 川船番所(かわふねばんしょ)は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。
 設置の年代は明らかではありませんが、正保4年(1647)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(1624~1644)にはすでに整いつつあり、関東各所から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋(現中央区)など江戸の中心部へ運ばれました。こうしたことから、江戸への出入口としてこの地に置かれたことと思われます。建物の規模などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ5本ずつ装備されていました。
 明暦3年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後中川番所として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。

  平成14年(2002)10月 江東区教育委員会


   「日本分国図」(正保国絵図写) 武蔵国図〈部分〉
            国立公文所館内閣文庫蔵


所在地 江東区常盤1~江東区清澄1,2
 
 万年橋は、江東区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。架橋された年代は明らかではありませんが、延宝8年(1689)の江戸図には「元番所のはし」として記されていたことがわかります。



 江戸時代には、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取締る、通船改めの番所が置かれていました。この番所は、寛文年間(1661~1673)の頃に中川口へ移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれました。



 小名木川に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていました。万年橋も虹型をした優美な橋で、安藤広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」としてとりあげています。また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響をうけた錦絵を残しています。


   葛飾北斎作・富嶽三十六景 深川万年橋下


所在地 江東区常盤1-3-12 (芭蕉稲荷神社)

奥の細道旅立参百年記念碑
 平成元年(1989)五月吉日
  芭蕉遺蹟保存会 会長 堀内一雄


所在地 江東区常盤1-3-12 (芭蕉稲荷神社)

  『 史蹟 芭蕉庵跡 』 大正10年(1921)指定

 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年(1680)から元禄7年(1694)大阪で病没するまで、門人の杉山杉風の生簀の番屋を改築して芭蕉庵として住んでいました。ここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音〔貞享3年(1685)春・芭蕉庵・詠〕」等の名吟の数々を残し、またここより全国のの旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
 ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
 たまたま大正6年(1917)津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、大正10年(1921)東京府は常盤1丁目を旧跡に指定した。
 昭和20年(1945)戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和30年(1955)復旧に尽した。
 しかし、当初が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。
  昭和56年(1981)3月吉日 芭蕉遺蹟保存会


                        江戸名所図会より


所在地 江東区常盤1-6-3

 新大橋と清洲橋が望める隅田川のほとり、松尾芭蕉が庵を結んだゆかりの地に、この芭蕉記念館は建設されました。ここには、芭蕉研究家からの寄贈品を中心に、芭蕉関係の貴重な資料が展示されています。また、研修室(和室)は俳句や短歌を楽しむ人たちに利用されています。




 庭園には、池や滝、芭蕉の句に詠まれた草木が植えられ、築山にほこらと



「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
の句碑があります。
     芭蕉記念館




 別所に『分館史跡展望庭園』があります。


所在地 江東区常盤1-3-12 (芭蕉稲荷神社)



古池や 
 蛙飛びこむ 
     水の音 

                 芭蕉


所在地 江東区常盤1-3-12 (芭蕉稲荷神社)

俳聖芭蕉翁生誕参百五十年祭記念


 平成6年(1994)10月吉日
  芭蕉遺蹟保存会 堀内一雄


所在地 江東区常盤1-1-3

芭蕉記念館 分館史跡展望庭園

   深川芭蕉庵
 ここ深川の芭蕉庵は、蕉風俳諧誕生・発展の故地である。延宝8年(1680)冬、当時桃青と号していた芭蕉は、日本橋小田原町からこの地に移り住んだ。門人杉風所有の生簀の番小屋であったともいう。繁華な日本橋界隈に比べれば、深川はまだ開発途上の閑静な土地であった。翌年春、門人李下の送った芭蕉一株がよく繁茂して、やがて草庵の名となり、庵主自らの名ともなった。以後没年の元禄7年(1694)にいたる15年間に、三次にわたる芭蕉庵が営まれたが、その位置はすべてほぼこの近くであった。その間、芭蕉は庵住と行脚の生活のくり返しの中で、新風を模索し完成して行くことになる。草庵からは遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で、大小の船が往来した。それに因んで一時泊船堂とも号した。
 第一次芭蕉庵には、芭蕉は延宝8年(1680)冬から、天和2年(1682)暮江戸大火に類焼するまでのあしかけ3年をここに住み、貧寒孤独な生活の中で新風俳諧の模索に身を削った。
   櫓の声波ヲ打つて腸氷ル夜や涙
   芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
   氷苦く偃鼠が咽をうるほせり
 天和3年(1683)冬、友人素堂たちの好意で、53名の寄謝を得て、「本番所森田惣左衛門御屋敷」の内に、第二次芭蕉庵が完成した。草庵の内部は、壁を丸く切りぬき砂利を敷き出山の釈迦像を安置し、へっついが2つ、茶碗が10個と菜刀1枚、米入れの瓢が台所の柱に掛けてあった。『野ざらし紀行』『鹿島詣』『』笈の小文』の旅はここから旅立った。
   古池や蛙とびこむ水の音
   華の雲鐘は上野か浅草か
   蓑虫の音を聞きに来よ草の庵
 元禄2年(1689)『おくのほそ道』の旅立ちの際手離された旧庵の近くに、元禄5年(1692)5月杉風らの尽力で第三次芭蕉庵が成った。新庵は、三部屋から成り、葭垣、枝折戸をめぐらし、池を前に南面し、水楼の赴きがあった。他に預けてあった芭蕉も移し植えられた。
   名月や門に指し来る潮頭
   川上とこの川下や月の友
   秋に添うて行かばや末は小松川
 芭蕉庵の所在地は、元禄10年(1697)松平遠江守の屋敷となり、翌元禄11年(1698)には、深川森下町長慶寺門前に、什物もそのまま移築されたようである。
 平成7年(1995)4月 江東区


                   芭蕉翁之像

 この像は、芭蕉の古参門人で経済的な庇護者であり、深川芭蕉庵の提供者ともいわれる杉山杉風(1647~1732)が描き、京都の画家吉田偃武が忠実に模写した芭蕉翁之像畫により制作したものです。
(原画 岐阜県高山市 加藤功氏 蔵)
 平成7年(1995)4月


                   芭蕉庵再興集

 明和8年(1771)に、大島蓼太が、芭蕉百回忌取越し追善のため、深川要津寺に芭蕉庵を再興した。その記念集『芭蕉庵再興集』所載の図である。庭中に流れを作り、芭蕉を植え、句碑を建て、傍らの小堂には、芭蕉像と芭蕉の帰依仏である観世音像を祀った。草庵の丸い下地窓、枝折戸が印象的である。画者子興は浮世絵師栄末斎長喜。(学習院大学蔵)


               芭蕉文集

 安永2年(1773)に、小林風徳が編集出版した『芭蕉文集』に掲載する図である。窓辺の机の上には、筆硯と料紙が置かれ、頭巾を冠った芭蕉が片肘ついて句想を練っている。庭には芭蕉・竹・飛石・古池を描く。以後これが芭蕉庵図の一つのパターンとなる。絵の筆者は二世祇徳で、この日とは芭蕉を敬愛すること篤く、『句餞別』の編者でもある。


               埋木の花

 明和8年(1771)に再興された深川要津寺の芭蕉庵を、それから55年後の文政9年(1826)に、平一貞がその著『埋木の花』に実見記録したもの。「古池や」の句碑は、安永2年(1773)に深川材木町(現佐賀町)に住んだ書家三井親和の筆。現在江東区芭蕉記念館庭園にある「古池や」句碑は其の模刻である。


               俳諧悟影法師

 天保8年(1837)に鶏鳴舎一貫が著した『俳諧悟影法師』の巻頭に載せる図である。画者渓斎は、浮世絵師池田英泉である。構図は安永2年(1773)刊、小林風徳編『芭蕉文集』所載の図とそっくりだが、描線ははるかに柔軟であり、細部の描写もみごとである。


                   深川八貧図

 蝶夢編の『芭蕉翁絵詞伝』の一齣で、いわゆる深川八貧の図である。元禄元年(1688)12月17日の雪の夜、芭蕉のほか苔翠・依水・泥芹・夕菊・友五・曽良・路通の7人が芭蕉庵に集まり、米買・薪買・酒買・炭買・茶買・豆腐買・水汲・飯炊の題で句を作り興じた。芭蕉は米買の題で「米買に雪の袋や投頭巾」と詠んだ。絵はその場面を描いている。(義仲寺蔵)


                   芭蕉翁絵詞伝

 蝶夢は芭蕉百回忌の顕彰事業の一環として芭蕉の伝記を著作し、狩野正信の絵と共に絵巻物風に仕立て義仲寺に奉納した。その絵を吉田偃武に縮写させ、寛政5年(1793)に刊行した。図はその一齣で葭垣・枝折戸をめぐらした草庵の中で、芭蕉がみずから笠を作っているところ。笠は竹の骨に紙を貼り重ね、渋を塗り・漆をかけて仕上げる。


                    芭蕉翁略伝

 天保14年(1843)は、芭蕉百五十回忌に当たり、さまざまの行事があったが、幻窓湖中は編年体の芭蕉伝記『芭蕉翁略伝』を書き、西巷野巣の校合を得て、弘化2年(1845)に刊行した。本図はその挿絵で、茅屋に芭蕉・柴門、背後に広々と隅田川の水面を描く。画者は四条派の絵をよくした原田圭岳である。


                     俳人百家撰

 江戸の緑亭川柳が安政2年(1855)に刊行した『俳人百家撰』に掲載する図である。絵は、天保5年(1834)~天保7年(1836)に刊行された『江戸名所図会』所載の図とそっくりである。上欄の文の内容には誤りも見られるが、芭蕉が「古池や」の句を詠んだ古池が、松平遠江守の屋敷の庭に現存すると書いている。画者の玄魚は浅草の人宮城喜三郎。


                    深川芭蕉庵

 俳誌『ホトトギス』明治42年(1909)1月号に所載の図である。中村不折は幕末慶応2年(1866)生まれの書家・洋画家。本図は不折の祖父庚建の原画を模写したものであるという。従って本図の原画は19世紀初頭前後に描かれたものであろう。手前の土橋は、『芭蕉庵再興集』所載図の土橋と似たところがある。


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