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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区木場2-18 (舟木橋第3児童遊園)

 舟木橋は、江東区木場2丁目地内の大島川東支流に架けた旧入船町と木場町を結ぶ橋長25.2m、幅員33.8mの橋であった。橋名の由来、創架年月ともに不詳であるが、入船町と木場町に架かる橋なのでこの名を得たと言われている。昭和5年(1930年)に鋼橋に架替えられたが、平成14年(2002年)3月に老朽化に伴い撤去した。

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所在地 東京都江東区木場2-18先(舟木橋第二

       トーテム・ポール(TOTEMPOLE)

 トーテム・ポールは、カナダ北西岸に住む原住民がトーテム崇拝(totemism)の対象としてきたもので、その造形は、芸術的にも高く評価されています。

 ここに立てられたトーテム・ポールは、カナダのブリティッシュ・コロンビア州(State of British Columbia)林産審議会(Forest Products Council)から江東区との友好親善と両国の木材産業発展のシンボルとして、1984年4月にカナディアン・シーダー・クラブ(Canadian Cedar Club)を通じて江東区に寄贈された3本のうちの1本で、他の2本は新木場駅前、仙台堀川公園に立てられています。

                   江東区

 

所在地 江東区木場3丁目

     (大島川東支川)

橋長   27m

全幅員   13.300m

架設形式   1径間鋼製トラス橋

架設年次   昭和62年(1987年)3月

所在地 江東区木場2-18-12 (大丸コアビル)

 当繁栄稲荷神社の祭神は京都伏見稲荷大社の御分霊にましまし乃古宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能賣大神の三御柱であります。古来五穀豊穣、商賣繁昌、藝能上達の神として世の尊崇敬仰をあつめております。

 当神社の起源は今を距ること二百四年前、江戸時代の中期、宝暦7年(1757年)この木場の地に創祀されたのにはじまります。大丸の業祖下村彦右衛門正啓は享保2年(1717年)伏見に創業し寛保3年(1743年)日本橋大伝馬町に江戸店を設けましたが越えて宝暦7年(1757年)深川木場4丁目即ち現在の繁栄橋々畔に貯木場を備うる別墅を営み、その一廓に社殿を造り伏見稲荷大社の御分霊を祀り繁栄稲荷と称したのであります。

 祭神の霊験いとあらたかで、地元の木場はもとより江戸一円の信仰をあつめ、3月12、13日の例祭には門前市がたつの大賑わいでその側の堀に架せられた橋もいつしか繁栄橋とよばれて今に伝わっているのであります。

 明治43年(1910年)大丸が名古屋店とともに東京店(昔の大丸江戸店)を閉じ木場の別墅も廃したとき社殿は先代根津嘉一郎氏の青山邸に移り同家の嘉栄稲荷の社殿となり、関東大震災(1923年)、第二次世界大戦の空襲にもその災禍から免がれ二百年前のお姿そのままで残ってまいりました。

 昭和35年(1960年)5月たまたまその社殿が繁栄稲荷のものであったことがわかり、根津家の御厚意で大丸へ御返譲していただくこととなり、。旧地に接したこの地に境城を卜して昔ながらのお姿を以て本殿、玉垣その他を移築あらたに伏見稲荷大社の御分霊を勧請してお祀りすることになったのであります。

 由緒の数々を思い御神徳のいやちこなるに今さら心うたるる次第であります。

  昭和36年(1961年)10月吉日



所在地 江東区木場5~木場6

 新田橋にったばしは、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
 大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年(1932)、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
 当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。
 平成12年(2000)の護岸整備により現在の橋に架替えられましたが、架かっていた橋は、八幡堀遊歩道に大切に保存されています。


所在地 江東区木場6-13-13

  洲崎神社
 当洲崎神社は元弁天社と称し巌島神社の御分霊祭神市杵島比売命を斉祀しております。創立は徳川5代将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄13年(1700)、江戸城中、紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。当時は海岸にして絶景、殊に弥生の潮時には城下の貴賎袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮べて、妓婦の絃歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引くという絶佳な所であったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。
 明治5年(1872)御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚かった。大正の震災、昭和の戦災に社殿は焼失されたが弘法大師作の御神体は幸にして難を免れ、当時は仮社殿に奉斉して居りましたが昭和43年(1968)現在の社殿を造営し斉祀して現在に至っております。











 洲崎神社境内には『波除碑』、『名人竿忠之碑』、『川連虎一郎碑』があります。


所在地 江東区木場6-13-13 (洲崎神社)

東京都指定有形文化財(歴史資料)
 波除碑なみよけひ 洲崎神社碑
     昭和51年(1976)6月4日指定



 寛政3年(1791)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。
 幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西285間、南北30余間、総坪数5,467余坪(約18,000平方メートル)を買い上げて空地としこれより海側に人が住むことを禁じた。そして空地の東北地点(洲崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てた。当時の碑は地上六尺、角一尺であったという。
 石碑は砂岩で脆く、震災と戦災によって破損が著しい。現在地は原位置から若干移動しているものと思われる。
 建設は寛政6年(1794)頃で碑文は屋代弘賢によるものと言われている。
 平成4年(1992)3月31日建設 東京都教育委員会

 


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