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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区越中島 ~ 中央区

  相生橋あいおいばし

 相生橋は、隅田川の派川に架かる橋で、1903年交通の便と月島に水道を導くために、架けられました。橋の名前は、永代橋に相対する橋として名付けられました。その後、東京湾口に埋立地が造成されるとともに、勝鬨橋佃大橋などが架けられ、名前もその意味を失っています。

 1926年に架けられた橋は、1999年にトラス橋に架け替えられました。

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所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  株於校庭永記光榮云碑
明治41年(1908)11月2日商舩学校擧第二十二回卒業之典是日勅賜物干優等生
東宮又台臨盖出奨励海事之聖意也生等不禁感激此栽櫻樹二百餘株於校庭永記光榮云
 明治42年(1909)4月1日
 日本郵舩株式會社内 青年同窓會


所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  商船教育発祥の地碑
碑文にある「商船教育発祥の地」の言葉については厳密に言えば霊岸島であり、この地は継承の地と言うべきである。
百周年記念事業としては永代橋袂に「船員教育発祥の地」の記念碑を建立した。
 昭和50年(1975)11月 東京商船大学百周年記念事業委員会




所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  精神不滅の碑
昭和19年(1944)8月戦局危急ニ迫リ一億国民憤激ヲ新ニシ彌ゝ戦意ノ昴楊ニ邁進スルノ秋本校亦倍ゝ敢闘精神ノ發揚ニ挺身スヘク同月二日折戸湾ニ五浬編隊遠泳ヲ決行ス此日天気晴朗ニシテ風浪アリ加之敷日来ノ豪雨ハ巴川ノ水勢ヲ湾内ニ奔流セシメ泳者皆之ニ若シム第二期生徒一学年高山茂邊見正則掘井良郎ノ三君初心ニシテ技未熟ナリト雖ニ入校以来修養セシ不屈ノ精神ハ敢テ落伍スルヲ潔トセス渾身ノ気力ヲ■ヒ力泳又力泳遂ニ最後ノ決線ニ近ツキシ時無念精根盡キ卒然伍間ニ■■■壮烈何モノカ之ニ若カン夫レ勇士ノ戦場ニ殪ル必シモ難ギニ非ス校庭ノ鍛錬ニ従容トシテ死闘ス真ニ清水精神ノ権化ニシテ其ノ烈ゝタル闘魂ハ當ニ富嶽ト共ニ欽仰スルニ足ル則チ茲ニ碑ヲ建テ敢闘ノ薫蹟ヲ銘刻シ其ノ気■ヲ後昆ニ傳ヘ以テ後進ヲシテ感奮興起セシメントス
 昭和19年(1944)11月1日
 清水高等商船学校長海軍中将松永次郎撰文
 宮内省依嘱六鵬沖和書


所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  第一観測台(経緯儀室または赤道儀室)
   八角形2階建煉瓦造 建坪8坪6合
明治35年(1902)霊岸島校舎より越中島新校舎に移転した後の施設充実の一環として、明治36年(1903)6月に建設され、航海用天体歴の研究用および航海天文学教授用として使用された記念建造物で、内部には、当時としては最新鋭の東洋一といわれた7吋天体望遠鏡(Theodolite)を備え、望遠鏡は分銅式によって天体の運行に等しい速さで回転するようになっていた。屋根の半円形ドームは手動で360度の回転が可能であり窓は二重になっていた。
昭和の初期までは時折り授業にも使用されたが、昭和10年(1935)頃以降は学生の同好会「天文部」部員の手により、天体の観測に利用されていた。昭和20年(1945)終戦直後、校舎を米進駐軍に占領された後、内部施設も撤去され、現在は望遠鏡の台座が残っているに過ぎないが、輸入煉瓦造りの八角形の建物は貴重なもとのされている。




所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

 第二観測台(子午儀室)
  八角形平家建煉瓦造  建坪8坪6合
明治36年(1903)6月第一観測台とともに建設され、内部には子午儀(Transit)を備え、天体の子午線通過時刻を精密に測定して精確な経度の測定をすること。およびその時の天体の高度から緯度を測定することなどが出来た。
昭和20年(1945)終戦直後、校舎を米進駐軍に占領された後、内部施設も撤去され、現在は台座のみであるが、八角形の建物で輸入煉瓦造りの現存する建物として貴重なものとされている。





所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  田副重右衛門招魂碑
逓信大臣従二位勲一等子爵榎本武揚篆類■故田副君墓表
君名重右衛門氏田副丹後宮津人性枕毅■言■■我那航運之不振夙入東京商舩学校昕夕勤勉泉成属望焉■業巳畢實習■有日矣明治十有九年十月七日君奮然乗英船将航米國遭■子支那海箪身■先上■架百方竭力防之不幸殞命■波間實享年■有七君嘗語余日航近海不若航遠洋言猶在耳忽■此赴音豈可不慟哭乎■雖然至其守■■職事■有與河海並存而不泯者■不偉■令茲同舩僚友等相謀■資刑之珉石以傳不朽君應瞑干地下矣余■不文以■故之誼書其略以表之
 明治廿一年(1888)10月
 宍戸 鎰拜 撰
 平戸 ■ 書





所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  明治丸
 本船は明治の初頭に、我国政府が英国に発注して建造した豪華な灯台視察船であった。明治6年(1873)にグラスゴー市のネピア造船所において建造が開始され明治7年(1874)11月に竣工、翌明治8年(1875)初頭に出港し同年2月、横浜港に到着した。建造当時は、2本マスとのトップスル・スクーナ型帆装鉄造汽船で総トン数1028トン、長さ73米、幅9米、機関は往復動汽機2基の双螺旋船、実馬力1530、平均速力11.5ノットを誇っていた。
 明治9年(1876)の夏、明治天皇は東北巡幸に際し、青森から本船に座乗され、函館経由7月20日無事横浜港に帰着された。「海の記念日」はこの日に因んで昭和16年(1941)に制定されたものである。当時の御座所跡は現在も残っている。爾来、本船は約20年間灯台視察船として活躍したが、明治29年(1896)7月、当時霊岸島にあった商船学校(本学の前身)の係留練習船として貸与され、その沖合(現在の永代橋下流)に係留された。翌30年(1897)11月、本校に移管された後3本マストのシップ型に改装され、明治34年(1901)12月、越中島のこの地に定係された。
 本船が商船学校の神聖な教場として活用されたのは昭和20年(1945)8月に至るまでの50年間で、この船を母なる船として巣立った海の若人の数は万余に達する。この間、明治44年(1911)および大正6年(1917)には来襲した猛台風による高潮で擱座したり、大正12年(1923)9月の関東大震災、さらに昭和20年(1945)3月の東京大空襲に遭遇するなど数々の試練や災禍に対しても、この地と共に耐えぬきその都度罹災者を収容するなど江東の人々からも信頼と敬愛を得てきた。
 終戦の年の9月、越中島の学舎と共に進駐軍に接収され、不幸にも本学の管理も出来ないままに荒廃し遂に昭和26年(1951)漏水のためポンド内に沈座するに至った。その後漸く接収が解除されるに及んで、これを引揚げ、昭和35年(1960)の本学85周年記念事業、さらに昭和50年(1975)の百周年記念事業の一環として、同窓有志や海運業界・海事諸団体等の芳志・支援によって本船復元の第一歩が踏み出された。
 明治丸は現存する唯一の鉄船(現在の船は総て鋼船である)であり、我が国造船技術史上の貴重な遺例として昭和53年(1978)5月、船としては初めて国の重要文化財に指定され、昭和55年(1980)4月から文化庁及び本学の協力により本船の保存修復及び基盤整備工事が行われ昭和63年(1988)1月に完工した。
 明治丸は、ここにその優美な姿を再現し、永久に保存されるとともに、その栄光の歴史が世々語り継がれることになった。









  繋留練習船明治丸記念碑
東京高等商船学校最後の生徒となった我々にとって忘れられぬ思い出は、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲の際歴史と伝統ある明治丸を守り得た事である
この度卒業55周年に当りこれを記念して碑を建て後世に残すものである
 平成12年(2000)9月25日
 東京高等商船学校航海科125期


所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  明治天皇聖蹟の碑
明治3年(1870)9月8日調練 御親閲の為當越中島に 行幸遊はさる猶明治5年(1872)9月15日近衛三兵の操練を 天覧の為同6年(1873)12月9日陸軍練兵 天覧の為同8年(1875)6月7日海軍大砲試験 天覧の為 行幸あらせらる
 紀元2千6百年記念建設
 昭和18年(1943)11月3日竣成
 発起 梁川區町会聡合■
 協賛 東京都内国民学校児童
     東京都内中等学校生徒




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