東京都江東区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江東区三好2-17-14 (雲光院) 雲光院開基徳川家康公側室 阿茶局の墓 法號雲光院殿一位尼公正誉周栄大姉 弘治元年(1555)生 寛永14年(1637)1月22日寂 阿茶局は今川氏の巨神尾忠重の妻であったが夫の死後徳川家康に仕え阿茶局と称し慶長19年(1614)大阪役のとき死者として大阪城に入り淀君に面接して和議成立に力を尽し天和6年(1683)2代将軍秀忠の女が京都に入内するとき母親代りとして随行するなど才女としての誉れ高く老後は雲光院と号し寛永14年(1637)1月2日83歳にて死去し雲光院に葬られた 昭和33年(1958)10月1日 江東区第6号 江東区指定有形文化財(建造物) 石造宝篋院塔(阿茶局墓塔) 寛永14年在銘 平成13年(2001)3月29日指定 本塔は雲光院の開基である阿茶局の墓塔として建てられたものです。宝篋印塔とは内部に「宝篋印陀羅尼」をおさめたことに由来する塔婆の一形式ですが、墓塔・供養塔としても建てられるようになりました。 阿茶局は弘治元年(1555)、竹田家の家臣飯田氏の子として生まれ、今川家の家臣神尾忠重の妻となりましたが、忠重の死後、側側家康の側室となりました。大坂冬の陣には和睦の使者をつとめ、家康氏語は徳川秀忠の五女和子の入内に際し、母代として在京しました。元和9年(1623)、従一位に叙せられ、秀忠の死後は尼となり雲光院と称し、寛永14年(1637)、83歳で没しました。 本塔は総高363.1cm、石質は安山岩です。塔身正面には「雲光院殿従一位尼公」、左右側面と背面には阿弥陀三尊の種子が刻まれています。また、上基礎の正面には「正誉周栄大姉 寛永14年■正月廿日」と刻銘があります。 本塔は近世前期の宝篋印塔の様式をよく示し、江戸幕府成立に深く関わった人物の墓塔としても意義深く、貴重な石塔といえます。 平成14年(2002)3月 江東区教育委員会 PR |
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永山
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