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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区南砂7-14-18 (富賀岡八幡宮)

 富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保4年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。
 江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。
 砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚に左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。
 塚はもともと30mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和8年(1933)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボック石)で固め、昭和37年(1962)現在地に移築されました。
 塚に付随している数多くの富士講碑により、現代まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。
 平成18年(2006)2月 江東区教育委員会


南東方向から見た砂町の富士塚〔昭和30年(1955)頃 江東区教育委員会所蔵〕
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