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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区大島8-38-32 (宝塔寺)

  塩舐め地蔵
この塩舐め地蔵は石井某によって小名木川から掘り出され宝塔寺に納められたと伝えられます。小名木川は計兆年間に開削されておりおそらく宝塔寺の開創(慶長15年〔1610〕)とともに境内に安置されたものでしょう。塩地蔵とよばれる地蔵尊はきわめて数少なく供えられた塩をつけると疣が取れるといわれ疣取り地蔵ともよばれます。また商売繁昌、航海安全のご利益も授かると伝えられています。

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所在地 江東区北砂3-21

 治兵衛稲荷神社
祭神  蒼稲魂命(うがのみtまのみこと)
祭神  白菊大神
慶安(1648)のころ治兵衛という人がこの附近一帯を開拓して村の鎮守として山城の國京都伏見稲荷大社の御分霊を勧請奉祀したのが治兵衛稲荷神社のおこりであります。
蒼稲魂命とは天照皇大神の御弟素盞鳴命の御子にあたります。「うが」とは食物のこと食物の守護神であります。伊勢外宮の御祭神豊受比売命と蒼稲魂命とは異名同神にましますが、天照皇大神が特に蒼稲魂命を愛し給うたので伊勢の外宮に豊受比売命の御名で祀られて居ります。「稲荷」は文字の意味から五穀豊穣の守護神であります。白菊大神は伏見三ノ峯にあり両御祭神とも郷土交通安全特に家内安全と子供を「カワイガル」子孫の繁栄の神として古くより知られており住民の繁栄と商売繁盛をみちびき給う神でありますから篤く崇敬し奉るべきであります。
当神社は徳川時代に代官所が設置されて居た当時は代官所の守護神として崇敬されていたと言い伝えられておりました。
 昭和62年(1987)9月吉日建之
 奉賛会会長  加藤録太郎
 奉賛会     役員一同

 施工       山﨑石材店



 治兵衛稲荷神社には『庚申塚』、『力石』があります。


所在地 江東区北砂3-21 (治兵衛稲荷神社)

 庚申塚
この庚申塚は享保初期のもので神社わきの大師道に建立されていましたが昭和21年(1946)境内に移されました。







所在地 江東区猿江2-2-17

 猿江神社
伝承として、昔、康平年間(1058~1065)源頼義が奥州征伐(後三年の役)の頃、この附近の入江に、勇々しき戦武士の屍がただよい着き、不思議にも、其の屍より、毎夜光明を発し村人この屍を叮重に葬る
武士の鎧に源頼義の臣「猿藤太」と記しあり、又、懐中より有難き経文一巻がいでたり、よって村人「猿藤太」の頭文字と入江の「江」をとりて、猿江稲荷と尊称し、近郷近在の守護神となし、村落の敬神の地として仰ぎ奉り、豊作祈願、病気平癒、悪病退散等のこの地の氏神社として祭り、又それより地名をも猿江村と称えはじめ現在に至れり
正に猿江の地名これより発祥せり
尚、当時、この村落の氏神社である猿江稲荷神社は、古来より「天照大御神」「宇迦之御魂神」とを御祭神としていたが武人猿藤太の御霊をも合せ加え、代々お祀り申し上げて参りました 江戸時代は猿江稲荷神社と称し隣接せる、日蓮宗寺院本覚山妙寿寺のじゅうしょくが代々、守護管理を司どっていたが明治以後、近年になり、神保宮司を祭官として招き、合せて村、町、の発展と共に町内氏子の者達が、神社の護持運営にあたり現在に引き継がれた次第であります
お恵み(ご利益)としては、家内安全、病気平癒、商売繁昌、心願成就として霊験あらたかなり
 昭和61年(1986)丙寅8月吉日 文筆者 堀江侯雄




 

 稲荷社

 猿江神社には『猿江地名発祥之地碑』、『水盤』、『石造燈籠』、『藤森稲荷神社』、『馬頭観音社』があります。


所在地 江東区猿江2-2-17 (猿江神社)

 猿江地名発祥之地碑
源頼義・義家(八幡太郎義家)父子による奥州遠征(前九年の役)に於いて、数々の奉勝をたてた家臣に『猿籐太』(さるのとうた)と云う武将がいた。武勇の士と讃えられる人物であったが、此の地の入江にて力尽きてしまった。
これを知った地元の猟師達が、当社の境内に塚を建て手厚く祀ったという。此に因んで猿藤太の「猿」と入江の「江」の字を取り結び「猿江」の地名になったと伝えられてる。以上の縁起を後世に遺すために、茲に顕彰の碑を建立したものである。
 平成18年(2006)12月吉日 宮司 神保恵一

 


所在地 江東区猿江2-2-17 (猿江神社)

  藤森稲荷神社
創立不詳ながら、江戸時代初期には本所(墨田区)横綱町の江戸幕府御用材木蔵に、すでに祀られていた。
享保19年(1734)御用材木蔵と共に猿江の地(現在の猿江恩賜公園)に遷座された。明治以降は宮内省所管とない、この頃から猿江神社の宮司家により祭祀奉仕がなされている。
亦、社殿が藤の木で囲まれ、毎年花の咲く季期に祭礼が行われていた事から、何時しか藤乃木魂を祀る「藤森神社」と称され、400年余に亘り木材作業に従事する人々の厚い信仰を享けてきた。
昭和52年(1977)春、東京都の都市計画による猿江貯木場の移転に伴い、現潮見駅前に遷座されるが、平成13年(2001)12月崇敬なる旧東京官材協同組合会長氏橋幸次郎氏及び東京広葉樹連合会々長長谷川健治氏他関係者氏の総意尽力で再び縁深きこの猿江の地に戻り、猿江神社の境内に安宮鎮座される。
江戸時代より木材の守護神として商売繁盛、工事作業安全のご利益があるとされている。
尚、石燈篭一対(弘化5年〔1858〕)・石水盤(貞享3年〔1686〕)は、区の有形文化財である。
 宮司 神保恵一 謹書











所在地 江東区猿江2-2-17 (猿江神社)

 馬頭観音社
馬頭観音とは密教系の進行である六観音の内、ヒンズー教の神、卑紐拏(びしゅぬ)が馬に化身して、魔物に奪われた聖典を取り戻したという説話が起源とされる。馬が周囲の草を食べ尽すように、一切の煩悩を打伏すといわれ、日本では奈良時代以降に信仰され、身近な動物への無病息災の民間信仰と共に江戸時代には旅の道中の安全、家畜の守り神として広く流布されるようになった。
当社は創立不詳にて、長期境内に埋没していたが、昭和60年(1985)、「氏神と共に境内の馬頭観音を崇拝せよ」との告言により再び御姿を現わされ、人々の厚い信仰を享けている。
形容は馬頭観音の刻印の上に馬の絵が彫られ、馬方の絵の石と併せた、大小一対の珍しい石碑で、研究者より注目されている。
心願成就、旅行・交通安全のご利益もあるとされ馬に関わることから競走馬関係者の参拝も多い。又、近年前途の由来よりペットの無病息災祈願も増えている。
〔勝守〕人生・勝負に勝つ
〔馬頭観音守〕授与致します




所在地 江東区牡丹3-12-2

 住吉神社
 天正18年(1590)に徳川家康が江戸へ入城した時に摂津の国、佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁民を江戸に呼び寄せ、海と川の漁猟の許可を与え、江戸城へ魚類の納入を命じた。
 寛永年間には漁民に隅田川河口の鉄砲州東の干潟が与えられ、その地を故郷の地名をとって佃島と名づけ、白魚上納の特権を与えた。
 その後、享保4年(1719)に富岡八幡宮の南方海浜に佃島漁民の網干場の土地が与えられ深川佃町と称した。今の牡丹2、3丁目にあたり、此処に、佃島住吉神社より分霊された小祠が祀られている。
 深川佃町はその後、町家の地になり一層発展して深川岡場所(花柳街)のひとつとなり、地名を通称「つくだ」または「あひる」と呼ばれたのである。寛政4年(1792)頃の花街の妓楼は料理茶屋が15軒、水茶屋も10軒程あって大層繁栄した。
 天保の改革により花街も一時は衰退したが、後に復興して明治維新まであったといわれている。
 尚、境内の石鳥居、石燈篭は江東区の有形文化財、力石(さし石)は区の民俗文化財に指定されている。









 住吉神社には『車折神社・芸能神社』、『力石』があります。


所在地 江東区牡丹3-12-2 (住吉神社)

 車折神社(くるまざきじんじゃ)・芸能神社
祭神 清原頼業公(きよはらよりなりこう)
 車折神社は京都嵯峨にあり、鎌倉時代初期に、朝廷より、車折大明神の号と、正一位を贈られたという由緒ある神社。
 学問の上達並びに商売繁盛と売掛金回収にご利益があることで知られている。
 神社の石を授かり、願いを込めて神棚に祀り、祈願成就の上は石を一個、先に授かった石に添えて神前に奉納するという風習がある。
 

 合祀 芸能神社
祭神 天宇受売命(あまのうずめのみこと)
 車折神社の境内神社であり、芸能の神様として、芸能の上達を祈る多くの人達の信仰をあつめている。



所在地 江東区亀戸6-35-23

天台宗
 顕松山 安住寺 自性院じしょういん



 自性院には『宝篋印塔』があります。

  


所在地 江東区佐賀2-4-8

 佐賀稲荷神社
 
 
 江戸時代初期の深川は小島の点在する遠浅の海であったが寛永6年(1629)永代島付近の埋立許可を得て次郎兵衛藤左衛門他6人の者に依って猟師町八ヶ町が出来上り上之橋の方を次郎兵衛町中之橋より南を藤左衛門町とした
元禄8年(1659)検地の際次郎兵衛町藤左衛門町を合併し佐賀町と改めた 町名は地形が肥前之国(佐賀長崎)佐賀湊に似ていたことに因むと云われる
干潟を埋め町造りの基礎を固め漁村から海上運送の起点として繁栄をたどる 通りの両側は各地の産物を集めた各種の問屋の暖簾がはためき川筋には倉庫が建並び舫った大小の船の間を忙しくたち働く人々の声が終日行き交った
先人相諮り佐賀町に住む人々の除厄招福を願い永世鎮護の祠を穿ち佐賀稲荷神社の額を掲げた時に寛永7年(1630)祭神は生成発展を司る稲の霊である所の宇迦之魂命である
明治以降は正米市場がたち米問屋が集い当社は商売繁盛の稲荷として栄えた 倉庫業に携わる人々の余技として生まれ伝承された深川の力持はまさに佐賀町の特性を活した伝統技能である 
境内には力持技芸者の奉納した力石明治初期に米問屋でできた米仲間が寄進した鉄製の天水桶が現存している
代々尊栄奉仕の心怠りなく平成8年(1996)の春を迎える 茲に社殿修復境内を整備し碑を建てる 後人永くこの町佐賀町を愛し佐賀町に住む誘いを失わざることを切に願うのみである
 平成8年(1996)5月吉日
 佐賀稲荷神社世話人代表 町会長 桑畑喬彦
平成7年(1995)11月7日修復報告祭
平成8年(1996)2月15日復興報告祭 

                                                


 佐賀稲荷神社には『力石』があります。

 


所在地 江東区新砂3-5-28 (那須電気鉄工株式会社)

 那須仁九朗社長之像
 那須仁九朗社長は、明治29年(1896)、岡山県福河村に生れ、弱冠16才にして青雲の志を抱き上京、昭和4年(1929)、電力通信用資材の製造を業とする那須電機鉄工株式会社を創立し、社長に就任以来50年余、その間10社に及ぶ関連会社を設立、育成し、事に当っては誠実と奉仕の心をもって世に貢献されましt。その顕著な功績により、紺綬および藍綬褒章を受章、引き続き勲四等旭日小受賞を、昭和48年(1973)には勲三等瑞宝章叙勲の栄に浴されました。
 「人の和」を座右の銘とし、人徳あまねく人人の敬慕を一身に集め、広く世の発展に尽されました。
 昭和55年(1980)6月2日 那須電機鉄工株式会社






所在地 江東区大島3-31-7

 亀出神社(愛宕神社・亀出稲荷神社 合祀)



 亀出神社には『草分稲荷神社』、『亀出子育地蔵尊』があります。


所在地 江東区大島3-31-7 (亀出神社)

 草分稲荷神社
 草分稲荷については徳川初期現在の大島1丁目37番(釜長のならび)付近の草むらの中に小さなほこらが建てられていたと伝えられ、昭和のはじめまでは付近住民が旧初午の日に寄付をもちより祭礼を行ってきたと語り継がれているものである。
 往昔南葛一円の地は徳川幕府による禁領地であり、常時番人をおいて厳重に見張りをし、明治維新まで続いていた。現在の大島2丁目付近には鷹狩に使われる鴨池があり、御用屋敷と呼ばれるものが散在していたという。たまたま徳川3代将軍家光がこの池に遊猟の際、草繁き狩場で路にまよったところ、その道案内にたったのがこの稲荷であるともいわれている。稲荷神社は『うがのみたまのみこと』を祭神とし、食物一切つかさどる神とされている。城東地区はもともと農業地域であったことから稲荷社がかなり多いが、1596年から1688年の頃がもっとも多く、徳川2代の秀忠から5代綱吉にいたる頃といえよう。
 その後祀るものもないままに、さらに墓地改葬があり、土砂、雑草に埋もれかえりみられなかったが、ここに城東区役所が移ることになって、その新築工事が進むにつれ、ほこらと堀り出され業者によって庭の一隅に安置された。昭和15年(1940)区役所がここに移転するや、庁内の有志がほこらを復建し毎年ささやかな祭をしてきた。
 昭和16年(1941)頃この社が香取神社宮司の夢枕にたち『火難』があるかもしれないから後世大切に祀るようにとのお告げがあったと伝えられている。
 昭和48年(1973)4月、江東区区民センター建設に伴い亀出神社の境内に区長並びに香取宮司立合いの上遷座したものである。
 


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