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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区大島4-5

 五百羅漢跡
 五百羅漢は、元禄8年(1695)に松雲元慶禅師により創建された黄檗宗の寺院です。禅師は貞享年間(1684~1688)に江戸へ出て、元禄4年(1691)から木造羅漢像を彫り始めました。元禄8年(1695)、将軍徳川綱吉から天恩山五百羅漢寺の寺号と6千坪余の寺地を賜り、ここに自ら彫像した羅漢像など536体を安置しました。
 当寺の三匝堂は、廊下がらせん状に3階まで続いており、その様子がサザエのようであることから、または三匝とサザエの発音が似ていることから「さざえ堂」と呼ばれ、多くの参詣客を集める江戸名所のひとつでした。区内には、五百羅漢までの道筋を示す道標が2基現存しています。
 羅漢寺は明治20年(1887)本所緑町(現墨田区)へ移り、さらに明治42年(1909)現在地(目黒区)へ移転しました。
 ここに残る石標柱は、五百羅漢跡を示すために昭和33年(1958)に建てられたものです。
 平成20年(2008)3月 江東区教育委員会






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所在地 江東区南砂1-3

 江東馬頭観世音
 昭和20年(1945)3月9日夜半の大空襲により江東方面は焦土と化し殉難者は目を覆うばかりの惨状を呈した。また戦局が激しさを加えるに伴い石油が欠乏し国内の輸送は専ら牛馬車のみに大きく依存された。江東地区特に砂町大島亀戸深川一帯は東京都内において当時最も多くの輓馬業者が集中し牛馬の頭数3千有余居りその大半が空襲で厩舎や路上で焼死しさらに戦時中は軍馬として江東方面から多数徴用され大陸や南方において数多くの馬が戦死をとげたのである。
 昭和28年(1953)9月輓馬による運送業者が中心となりこれら愛馬の諸霊を弔い平和祈願をこめてこの地に江東馬頭観世音を建立したものである。
 大空襲後33回忌を迎えるにあたりこの志を継ぐ者が相寄り慰霊の由来を記し、ここに碑を建立して永く世にこれを傳えることになった。
 昭和52年(1977)3月10日 江東馬頭観世音講









所在地 江東区南砂2-28-27

 砂村新田六地蔵
 昔、百島(むかしから、四砂小付近一帯は百島とも呼ばれていた)のあたりは、うら哀しく、もの寂しい処であった。砂村川の支流西横川が元〆川に出会う角あたり、横川を背にして小さな、石造六地蔵が東向きに置かれていた。川面をわたる夏の風に繁茂した葦が揺れ、水鳥があわてて空に舞い上ってゆく。
 六地蔵の信仰がはじまったのは、平安末期といわれ、つねに悪業をおかし、六道に輪廻転生する衆生を救済するということから一般には寺院の門前や墓地入口に建てられるようになった。砂村六地蔵のように、村はずれや道端にたてられたものは、地蔵菩薩の道祖神信仰と結びついて土地の守護神とされたのではなかろうか。なお、ここでいう六道とは、地獄(怒)、餓鬼(欲)、畜生(愚)、修羅(闘争)、人界、天上(喜悦)のことである。六体の地蔵さんは、組合せや持物、印相によって象形のちがいもあり多種多様であるという。
 さて、砂村の六地蔵はいつの時代の誰が安置したものか確かにはわからない。ある人はいう、深川永代寺にあったものをこの辺り水難事故死など災難による死者が多く供養のため移し変えたもの。また或る人はいう、あのあたりに昔、お仕置場があって処刑された罪人の供養のため砂村の石屋さんが頼まれて作ったもので、その背面にどこそこの誰と名が刻まれていたと。またその後、罪をおかし刑場へひかれていく囚人が立ち止り悔悟の祈りを捧げると恐れおののいた気も静まり、心安らかとない収容として死についたという。樹間に烏が翔び交い陰うつな空気が漂い、そのあたり常には静まりかえっていたものと思われる。ただ六地蔵には縁者のあげる香華が絶えなかった。
 江戸中期の古地図をひろげて見ると、永代寺、霊巌寺など当時の有名寺院の境内に六地蔵の名が記してあるが砂村はもとより路傍の六地蔵は記載がない。
 明治維新を前後して毛利候の下屋敷内、今元〆と言われるあたりに、大森方面から海苔の採取を業とする漁師が移住しはじめ謂ゆる浅草海苔の生産に従事した。また百島には、お天神とよばれた秋山総本家から分家が入植して荒地を開拓したので砂村の僻地、六地蔵周辺は急激な発展をみたのである。
 時は経て、明治から大正時代になると砂村の生業も種々雑多、田畑を耕す者、海苔採取も含めて漁に出る者、川舟を使って水を売る人、土や砂利を運搬する回漕店、鳶職、木場が近いせいで川並、後には木材を運送する馬力屋、そして飛車角や宮川などなど、六地蔵の辺にも威勢のいいあんちゃんや、夜ふかしを得意とする二代目がたむろしていても不思議でない。
 さても恐ろしいのは戦争である。昭和20年(1945)3月9日、あの夜半からの大空襲のため、六地蔵は瓦礫と化し江戸時代からの文化財が一つ消えて行ってしまった。
 この地蔵は、戦災で焼失したため、昭和27年(1952)頃に戦災殉難者慰霊も兼ねて再建された。現在は「六地蔵尊奉賛会」によって守られている。
 砂町史談会 資料より













所在地 江東区南砂5-4-10

 儘田二郎胸像・儘田千鶴子胸像

 昭和3年(1928)埼玉県羽生市に生まれ、羽生地区連合青年団団長を経て、昭和23年(1948)福田千鶴子と結婚、昭和28年(1953)25歳で上京、衣料品卸売業として独立
 砂町地区小・中学校PTA連合会会長、北砂4・7丁目町会会長、災害協力隊隊長を20有余年務めた。その間法人会支部長、民生児童委員、江東区地域振興会理事、防火協会・防犯協会各理事を務め、また砂町地区防災町づくり協議会会長も兼任した。
 その他代議士、都議、区議等の砂町地区選対本部長を務め、平成8年(1996)長年における教育・福祉・自治功労に対し江東区特別区政功労賞、東京都知事表彰を受賞する。平成16年(2004)には、日本赤十字社より金色有功賞を受賞する。
 明治神宮崇敬会理事、亀高神社奉賛会会長及び特養ホーム江東ことぶき会監事、区町会連合会相談役を務める。
 内助の功を遺憾なく発揮した妻の俤像 傘寿の記念に夫婦像を建立する。
 平成20年(2008)8月吉日


所在地 江東区白河3-2-10

 白笹稲荷神社





 白笹稲荷神社には『智加良石』、『子育地蔵堂』があります。

 


所在地 江東区白河3-2-10 (白笹稲荷神社)

  子育地蔵堂
子育地蔵尊が奉安されて今年で百年になります。白河が東大工町と呼ばれておりました頃、大日本紡績事務所と女子工員寄宿舎の間の溝の中に埋っておりましたのを、故生田岩次郎氏が明治12年(1879)の夏入浴帰りに月の明りで透かして見たら、何か変なものがあるなと思い行きつ戻りつ後髪を引かれる思いで夜も寝られず三日目の夜明けを待ち現場に行き、半信半疑で引上げたのが地蔵尊なので驚き、家に持ち帰り軒先安置し、この世に出現いたしました地蔵尊であります。
初めは「生田地蔵尊と呼んでおりましたが大正の12年(1923)頃までは遠く板橋、巣鴨方面からも多くの信仰の方がお詣りに来て誰云うとなく生田地蔵尊が子育地蔵尊と呼ぶようになり、線香の絶え間なく、又一時は帽子や涎掛けが山積みになったこともあり、後、現在地に安置し今日に至りました。この由来は生田石三郎氏が子供の時、亡父 岩次郎氏から聞いた話を記す次第であります。
 昭和53年(1978)1月13日


 


所在地 江東区北砂4-18-14

 高平稲荷神社
 御祭神
宇迦之御魂之尊 鎮座地江東区北砂4丁目1389番地
 創建
元禄年間 社地三拾坪 当社ハ文化文政ノ頃ヨリ藪稲荷ト称シ西耕地地守神社ニ有之大正拾年(1921)頃ヨリ高平稲荷神社ト称シ 社地西原富次郎氏所有トナリ続ケテ現在ハ西原利栄氏所有ノ地トシテ御奉祀ス 右神社ハ寛永貮年頃(1625)美濃鴈間稲葉長門守 拾萬貮阡石ニシテ江戸ヨリ百貮拾五里七丁ナリ亀高西耕地ニアリタル此神社ハ此屋敷ノ守護神トシテ鎮座アリタルモノヲ西耕地開發ノ砌耕地鬼門除トシテ元禄時代ニ現位置ニ遷座シタルモノニシテ当時小名木川ヲ中心ニ諸大名ノ下屋敷アリタル為武士ノ出入激キ内ニ忠臣蔵デ有名ナ堀部安兵衛ガ稲葉長門ノ守方ノ懇望ニヨリ昭和20年(1945)3月10日ノ戦火ニヨリ焼失シ仮宮造営シ後現宮ヲ再建シ砂町銀座商店街復興組合繁栄ノ神トシテ崇敬シ奉ル 昭和46年(1971)組合員一同ニテ御影石ノ鳥居ヲ奉納ス 毎年節分ニノ午5月15日及9月15日ニハ所有者西原利栄氏並ニ砂町銀座商店街振興組合員ニテ神官ヲ迎え祭リヲ施工ス
 昭和57年(1982)2月16日建之
 東京都江東区住吉2丁目13番地 所有者 西原利栄
 砂町銀座商店街振興組合 理事長 臼杵歳雄








所在地 江東区扇橋1-21

 扇橋閘門
 江東区は、東側が地盤が低く西側が高い地形になっています。そこで昭和46年(1971)策定の江東内部河川整備計画では、東側を常に水位を一定に保つ水位低下区域としてまた西側の感潮部を耐震区域として整備をすることになりました。
 この閘門は、両区域の接点に当たる小名木川の中間に位置し、水位差を調整して船舶の航行を可能にするための施設です。30億円の事業費と5年3ヵ月の歳月を費やして昭和52年(1977)に築造されたものです。この方式は、パナマ運河と同じです。










所在地 江東区千石1-6 (仙台堀川公園)

 千石地蔵尊
 昭和20年(1945)3月10日未明、米軍機の大空襲により、我が郷土は焼野原と化し、堀割や路傍、学校などで、尊い瀬名が数多く奪われ殆ど肉親に逢うこともなく葬られました。
 劫火に追われて逃げ惑い、離れ離れになった家族の行方を捜して、焼跡に住み続けた。杉岡桂治郎氏らの有志が、夥しい死者の霊を悼み、同年5月頃、当地に地蔵尊を祀り、供養を続けて参りました。
 この度山崎ムメ氏外有志が、地区内の風致化に伴い、豊かな景観に添う御堂修築を発願し、会員及び地元の有志や企業のご賛同により竣工致しました。茲にみ霊のご冥福を祈り二度と無残な悲しみを繰り返さぬよう、恒久平和を希って、この碑を建立します。
 昭和62年(1987)3月10日 千石長寿会 会長 山岡英太郎





所在地 江東区千田9-7

真宗大谷派
 光明寺



 


所在地 江東区扇橋2-8-10

浄土真宗本願寺派
 西岸寺

 


所在地 江東区大島3-21-9

 子安稲荷神社
縁起
江戸時代 元禄時代の中頃に村民によって宇迦能魂之神を祀り護国豊饒と子孫の繁栄を願い鎮座されました。
氏子は現在の大島3丁目、4丁目の一部と南5ッ目(大島2丁目の堅川沿いの一部)でした。
明治の末頃香取神社の管轄となり現在の高砂鉄工所門前近くに鎮座されておりましたが昭和30年(1955)頃工場拡張工事の際、現在地にて町会の守護神として祀ってくれる様にと願い出あり、町会役員、氏子、世話人相談の上、当地にお祀りすることになりました。
現在は学問、子育ての神として崇拝を受けている。




 


所在地 江東区大島9-8 (大島小松川公園)

 南本所牛島神社跡
此の稲荷神社は宇迦の御魂神を祀った神社にして武蔵國南葛飾郡大島村南本所で村石井甚左衛門屋舗地に在りしが村内の産神に相定め祭りたるものなり祖後此の稲荷神社と同一境内社殿に牛島神社の御分霊を併祀し南本所で村の鎮守守護の神社として信仰崇敬し居たるものにして明治維新後旧内務省神社局に於て全國各地方所在神社を調査して神社台帳に記載登録す明治32年(1899)1月27日付にて牛島神社社司春田宣徳此の神社社掌兼務を命ぜられ就任せり曩に昭和20年(1945)3月9日戦禍に依り社殿悉く稀有に歸せしが其後復興するにつれ昭和25年(1950)東大島神社に合祀せり仍て此に旧趾に石碑を建てて聊か其の由来を記す














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