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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区亀戸4-37

  石井神社



 当社は嵯峨天皇の御代弘仁2年(811)9月弘法大師により発硯せられたつ社にして、級長彦命・津長井命・岡象女命の三柱を奉齊し亀井戸卿、中図子の鎮守社にして毎年9月28日を以て例祭日となし当日、薩摩竿数拾俵町内住民より献じ後これを参拝者及び里童に授け與う別名おしゃもじ様の芋祭りと称す。熱病除、百日咳除け¥におしゃもじを拝受して特殊霊験顕著なりしは数多き崇敬者ありし事で知るべし
 昭和40年(1965)4月 石井神社宮司 椎名春美 記之

 
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所在地 江東区亀戸5-31-8

浄土真宗本願寺派
 法徳寺


所在地 江東区亀戸3-36

  亀島小学校記念公園
昭和56年(1981)、「江東区立亀島小学校」が地元の強い要望によりこの地に創立されました。以来21年を経過した平成14年(2002)、学童の減少により廃校となりました。
小学校跡地の一部を公園として開園するにあたり、その名を後世に伝えるため、公園の名称を「亀島小学校記念公園」としました。



 亀島記念公園内には『江東区立亀島小学校記念碑』があります。


所在地 江東区亀戸3-36 (亀島小学校記念公園)

  江東区立亀島小学校記念碑
昭和58年(1983)4月、江東区立亀島小学校は当京都交通局柳島営業所車庫の跡地に第一か冥土小学校・香取小学校から分離し創立された。以来、21年間、976名の有能な人材を輩出する。平成14年(2002)4月、第一亀戸小学校と統合し、その校歴を第一亀戸小学校に引き継ぐ。
  江東区教育委員会
 
 亀島小学校教育関係者
初代校長        三浦一郎
二代校長        山田雅夫
三代校長        桐谷澄男
四代校長        渡邊能幸
五代校長        長須一紘
初代教育振興会長  米山武良
二代教育振興会長  橋本晃
亀戸3丁目自治会長  佐藤和男
三和町会長       小島十太郎
宮元町会長       米山貞俊
初代PTA会長     近久邦男
二代PTA会長     安齋智
三代PTA会長     高澤紀一
四代PTA会長     林幾男
五代PTA会長     川村豊
六代PTA会長     浅和正朋
七代PTA会長     福地憲一
八代PTA会長     秋山昌夫 


所在地 江東区亀戸3-38-35

 江東天祖神社

亀戸七福神 福禄寿




 天祖神社は、社伝によれば推古天皇の治世(593~628)の創建で、その後、衰退していたのを応永10年(1403)に復興したと伝えられています。
 天正年間(1573~1591)に疫病が流行し、この時織田信長の使者が参向して流鏑馬を献じたところ、疫病は治まったと言われています。今日では子供の健やかな成長を祈って、毎年9月16日に子供歩射が行われています。
 亀戸七福神のひとつ(福禄寿)として親しまれています。





 江東天祖神社境内には『力石』があります。

 


所在地 江東区亀戸3-43-3

真言宗智山派
 福聚山 普門院 善應寺

亀戸七福神 毘沙門天



 普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたり、現・足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を墨田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。
 江戸時代の地誌『絵本江戸土産』には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。
 亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。


                             毘沙門堂

 普門院境内には『伊藤左千夫墓』、『大島伯鶴墓』、『蛯原萬吉墓・蛯原宗一郎墓』があります。


                             持経観音


所在地 江東区亀戸3-43-3 (普門院)

  伊藤左千夫墓
 左千夫は元治元年千葉県に生れ今の墨田区錦糸町駅附近で牛乳搾取業を営むかたわら歌道茶道をたしなみ正岡子規の門人となりアララギ派の歌人として知られ小説歌論にも著作を残したが晩年は大島町6丁目に住し大正2年(1913)7月30日50歳にて死去し普門院普門院に葬られた
 昭和33年(1958)10月1日 江東区


所在地 江東区亀戸3-56-14

真言宗智山派
 医王山 竜光寺

 南葛八十八ヶ所霊場46番、66番札所

 荒川辺八十八ヶ所霊場74番札所



 


所在地 江東区亀戸4-17-11

浄土宗
 鏡智山 寶蔵院 浄心寺





 


所在地 江東区亀戸4-48-3

曹洞宗
 西帰山 常光

 常光寺は、江戸六阿弥陀巡礼のうち、第六番目の霊場として栄え、『新編武蔵風土寄稿』には、『本尊六阿弥陀行基の作にして長六寸許、脇立に観音勢至を安す、これ六阿弥陀第六番目にして、春秋彼岸は殊に参詣のもの多し』とあります。
 江戸六阿弥陀への彼岸もうでは、江戸時代の庶民の信仰と行楽として盛んに行われていました。
 亀戸七福神(寿老人)のひとつとして親しまれています。




亀戸七福神 寿老人



江戸六阿弥陀

 

 常光寺境内には『六阿弥陀道道標』があります。


所在地 江東区亀戸4-48-3 (常光寺)

江東区指定有形民俗文化財
 六阿弥陀道道標 延宝七年在銘
     平成14年(2002)3月29日指定


                   六阿弥陀詣でにぎわう常光寺「江戸名所図会」

 本道標は江戸六阿弥陀詣の巡拝路である六阿弥陀道を示すものです。
 江戸六阿弥陀詣とは、江戸時代、春秋の彼岸に六ヶ寺の阿弥陀仏を巡拝するもので、その巡拝地は順に上豊島村西福寺(北区)、下沼田村延命院(足立区)、西ヶ原無量寺(北区)、田端村与楽寺(北区)、下谷広小路常楽院(調布市に移転)、亀戸村常光寺となっていました。
 江戸六阿弥陀には奈良時代を発祥とする伝承がありますが、文献上の初見は明暦年間(1655~1658)であることおから、六阿弥陀詣は明暦大火後の江戸市中拡大、江戸町方住民の定着にともなう江戸町人の行楽行動を示すものといえます。
 本道標は、塔身・基礎より構成され、塔身の正面に「南無阿弥陀佛」、左側面に「自是右六阿弥陀道」と陰刻があります。
 また、右側面の刻銘から、延宝7年(1769)2月15日、江戸新材木町(現中央区日本橋堀留町1丁目)の「同行六十人」により建てられたものとわかります。
 本道標は、江戸六阿弥陀詣に関する最古の道標であるとともに、区内に現存する道標としても最古のものです。また、江戸で広まり亀戸にも札所のあった六阿弥陀信仰とその札所巡礼といった地域的特色を示すものとしても貴重な道標といえます。
 平成15年(2003)3月 江東区教育委員会


所在地 江東区亀戸3-34-2

天台宗
 慈雲山 無量院 龍眼寺
  通称 萩寺


亀戸七福神 布袋尊

 本堂

 龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられています。
 当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌『江戸名所図会』には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。
 また、境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
 亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。


  不動堂

應永2年(1396)平安末期鎌倉時代の作(作者不明)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現われ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより授かり、至心に祈願した、当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。
その後現在の「龍眼寺」(時代不明)と改められた。
御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖(正)堂という、八聖(正)道とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。

一、正見   正しい見解 
二、正思   正しい思い
三、正語   正しいことぼ
四、正業   正しい行為
五、正命   正しい生活
六、正精進 正しい努力・勤め
七、正念   正しい信念・気づかい
八、正定   正しい精神統一 


亀戸七福神 布袋尊

 布袋堂


 地蔵堂

 龍眼寺境内には『木造聖観音菩薩立像 一躯』、『庚申塔 万治二年在銘』、『供養碑(句碑)』、『春明法眼之碑』、『森総彦句碑』、『石田波郷・石塚友二 句碑』、『千載庵仲成歌碑』、『池月一陽子 句碑』、『冬嶺・市町句碑』、『芭蕉句碑』、『百寿句碑』、『夢沸庵くに□句碑』、『螺舎一堂句碑』、『落合直文の和歌』があります。


 門扉の句
 

 榎本其角の句
つき見とも 見えず露あり 庭の萩    其角

 大納言家長郷の和歌
ききしより 見え目ぞまさる この寺の 
 庭に散りしく 萩の錦は         家長郷

 芭蕉句碑
濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩   芭蕉



所在地 江東区亀戸3-34-2 (龍眼寺)

  供養碑(句碑)
ゆきし子は 永劫老いず 楠若葉    一亭
 昭和48年(1973)6月4日   大沢欽治 建立


所在地 江東区亀戸3-34-2 (龍眼寺)

江東区指定有形民俗文化財
 庚申塔 万治二年在銘
     平成19年(2007)3月26日指定



 庚申塔は庚申信仰という民間信仰に基づいて建てられたものです。庚申信仰とは、人の体内には三尸という虫が棲んでおり、60日ごとにめぐってくる庚申の夜、人々が眠っている間に体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の扉を訴えるので寿命を縮めるといわれ、この夜は眠らず過ごし健康と長寿を願うというものです。
 本庚申塔は万治2年(1659)の銘をもち、庚申塔の中でも比較的早い段階に属し、区内では最古のものです。正面上部に三つの種子が刻まれ、その下に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が並んでいます。銘文は三猿の下にあり、姓を持つ10組の夫婦が現世と来世の二世安楽を願って奉納したことが分かります。
 龍眼寺は、江戸時代の中ごろにたくさんの萩が植えられたことから萩寺の名で親しまれ、萩の季節には多くの人々で賑いました。このあたりは江戸時代には柳島村に含まれ、庚申塔が建てられた万治2年(1659)は、柳島村の成立した所期にあたります。代々柳島村の村役人をつとめた大沢八郎右衛門と同じ姓を持つ人名が刻銘に見られることから、奉納者は柳島村の草分け的な存在であったと考えられます。また、女性が加わっていることもこの時期の庚申塔としては珍しく、大きな特徴といえます。
 平成20年(2008)3月 江東区教育委員会


所在地 江東区亀戸3-34-2 (龍眼寺)

  春明法眼之碑

河野春明ハ幕末ノ刀装金工界ニ活躍シ 古今未曽有ノ名工トシテ天下ニ知ラル 天明7年西暦1787年ニ生レ16歳ニシテ柳川直春ノ門ニ学ビ春任ト名乗リ 文化年間ニ春明ト改メル 語ヲ韶 通称ヲ忠蔵ト言フ 文政年間ニ法橋ニ叙任ジ再ニ法眼ノ位ヲ許サレル 号銘八十方翁ヲ好ンデ多用シ十方斉 十方空舎 月窓 三窓 風乎 対鷗 閑人ナレドモ用イルソノ作風ハ人物 風景 動植物ナド多種デ高彫ヲ得意トシ色絵 象嵌ヲ施シテ一風格ヲナス 春明ハ向島及ビ本所柳島ニ住シタガ 生涯ノ多クヲ遊歴ニ送リ 於北越 於伊香保 遊松島ナドト切銘シタ作品ガソノ足跡ヲ今ニトドメル
 春明ノ旅ハ贅沢三昧ヲ盡シタト伝エラレナガラ ソノ死後ハ一抹ノ哀愁ヲ誘ウ 過去帳ニヨレバ旅先越後新潟デ安政四年 西暦1857年12月26日71歳デ病死 火葬ニシテ遺骨ヲ運ビ翌5年10月26日龍眼寺ノ惣墓葬ル 布施モ無ク穴銭マデ寺ガ立替タトアリ 以来秋メグリテ萩ノ花咲ク萩寺ニ春明霊ヲ慰メタ有志ノ例ヲ聞カズ
 春明没120年忌ニアタリ 本来無一物ヲ身ヲ以ッテ実践シタ名工ノ江戸ッ子気質ヲ偲ビ 作品ヲ敬慕スル有志集イテ春明ノ積年ノ借銭ヲ代弁セントシテ ココニ春明法眼之碑ヲ建テ 永久ニ霊ヲ慰メントスルモノ也
 昭和53年(1978)10月26日 小窪健一 謹撰

 建碑発起人
小窪健一 荒井八郎 飯田一雄 長田義正 立浪日郎 朝倉万幸
池田末松 井門美昭 河端照孝 笹野大行 佐藤次喜 斉藤光興
進藤徹男 進藤久雄 高橋歳夫 福士繁雄 福田豊 益本千一郎
若山泡沫 渡辺健一 全国美術刀剣青年会 鷲見憲司 杉江雄治


所在地 江東区亀戸3-34-2 (龍眼寺)

  森総彦句碑
青梅や 小さき息を 大切に    総彦



所在地 江東区亀戸3-34-2 (龍眼寺)

  石田波郷・石塚友二 句碑
槇の空 秋押し移り ゐたりけり   波郷
たかむなの 疾迅わが背 越す日かな    友二


所在地 江東区亀戸3-34-2 (龍眼寺)

  千載庵仲成歌碑
聞しより来て見や 
  □野の染付は いふもさらなり
    萩のにしき手よ川めの   千載庵仲成


所在地 江東区亀戸3-34-2 (龍眼寺)

  池月一陽子 句碑

遍照や 萩三百の 刈株も     一陽子


所在地 江東区亀戸3-34-2 (龍眼寺)

  冬嶺・市町句碑
□を□や色越□□錦や萩見□      冬嶺
露の世に□□□や萩の上       市町


所在地 江東区亀戸3-34-2 (龍眼寺)

  芭蕉句碑
濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩   芭蕉


所在地 江東区亀戸3-34-2 (龍眼寺)

  百寿句碑
春盛る □□□□□□□□の花    百寿



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