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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社)

昭和52年(1977)の御神忌1057年大祭記念として奉納される。
台座に道真公の5歳の時庭前の紅梅を詠まれた和歌を刻す。

美しや 紅の色なる 梅の花
  あこが顔にも 
     つけたくぞある


  亀戸天神社
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所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社)

 天神様(菅原道真公)は承和12年(845)6月25日に御誕生になりましたが子の都市が乙丑の年に当り、延喜3年(903)2月25日大宰府の配所で亡くなられたとき、道真公自らの御遺言により御遺体を牛車に乗せて牛に引かせ、牛が止まった所を御墓所と定めてそのところに神廟(現在の大宰府天満宮)が建立されたのも乙牛年のことでした。
 讃岐守(香川県)として御在任中農工に勤しむ牛の姿に深い慈愛の心を示され、又、大宰府へ西下の途中牛の鳴き声に刺客から逃れられたり、どこからともなく飛び来たった白牛に危難から救われられるなど天神様と牛とのかかわりは史実や演技に或は伝承を通して伝えられています。その底流には御生誕の年はもとより神廟にお祀りされた年も丑年に当るという御神縁があり、以来牛は天神様の神使(みつかわしめ)、天神様を守護するものとして篤く信仰されています。
社前に臥牛が祀られ、4年に一度御鳳輦渡御祭に黒牛が供奉するのもこれに因ります。
  亀戸天神社


所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社)

   御嶽神社と菅原道眞公
御祭神 比叡山延暦寺第13代座主 法性坊尊意僧正
御社殿 寛文9年(1669)11月21日に九州太宰府御嶽山より勧請し建立され、古くは亀戸妙義社とも号されました。現在の御社殿は、菅原道眞公御神忌1075年大祭の記念事業の一つとして、昭和51年(1976)に再建されたものです。
祭日
 初卯   正月の初卯日
 卯日祭 毎月の卯之日
由緒
 法性坊は、道眞公(天神様)の数学、御折の師で、道眞公が薨去ののちは太宰府天満宮の社殿造営に関わられ、社前に一念三千の心字池を構えて三世一念の太鼓橋を架けられるなど道眞公とのご関係は殊に深く、よって当宮境内に奉祀されました。法性坊は智徳世にすぐれ、ご在世の内にも奇特多い高僧として知られ、天慶3年(930)2月の卯日の卯の刻に亡くなられたことから、春の陽気を迎える「卯の神」と敬仰され以来月毎の卯日はもとより、特に正月の卯日は、陽気を迎えるはじめとして卯槌、卯の神札を求め、福徳・才智・愛敬を願い、除病・延命を祈りました。
  亀戸天神社


所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社)

 しはらくは 花の上なる月夜哉 芭蕉

<表面> 芭蕉翁 服部嵐雪 桜井吏登 大島蓼太
<裏面> 四世雪中庵完来 夜雪庵普成 葎雪午心
 
菅原道真公の御神忌900年にあたる享和2年(1802)2月25日 芭蕉門下の人々が芭蕉100年忌にあわせて建立する。
  亀戸天神社


所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社)

 筆塚は、書家や書道に励む人等が筆の労に感謝するとともに、一層の上達を願って廃筆を納めたものです。
 当宮では、「宮居に遠き人之為に、吉書初め(書初め)に用筆を文政4年(1821)より毎年12月朔日から晦日迄出す」と伝えられ、今も「梅ヶ枝筆」を授与しています。特に、天神さまの御忌日 2月25日には神苑の梅の木で調製した筆を授与いたします。
 筆塚祭(書道上達祈願祭)毎年7月25日執行
  廃筆、清書の焼納(おたきあげ)を行います。
  亀戸天神社


所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社)

寛文5年、太宰府天満宮(福岡県)心字池畔に鎮まり座す志賀社を勧請したのを始めとしますが、時代の推移と共に、七福神の一つであり無量の福徳を与える弁財天(水の神・音楽の神)の信仰と習合し、一般には弁天様と親しまれて、福徳福智を増し天災地変を消除する開運出世・芸能成就の神として信仰されてきました。その間幾度か災害に罹りその都度復興されましたが、近年殊に社殿の破損も著しく、菅原道真公御神忌1100年大祭に伴う記念事業に併せ、地元宮元会役員一同を始めとする崇敬者各位の御奉賛により、装いも新たに修復されたものであります。
 平成13年(2001)12月1日遷座祭執行
  亀戸天神社


所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社)

  楷(別名トネリバハセノキ 爛心木)
中国(支那)原産のウルシ科の落葉高木で、曲阜の孔子廟に弟子の子貢が自ら植えたと伝わり、幹も枝もまっすぐのびるのが特長である 大正4年(1915)白沢保美博士が、その種子を中国から持ちかえり苗に育てたのが、わが国に渡来した初めといわれる
楷は、雌雄異株である上、各所に分散しているために、また花が咲くまでに30年余要するということから日本では種子を得ることができなかった
この楷は、昭和45年(1970)秋金沢文庫(神奈川県)にある雌木から人口交配により得た種子が、翌年春発芽したものである
献木 昭和48年(1973)10月 服部一殿 
  亀戸天神社


所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社)

   鷽の縁起
筑前の太宰府天満宮御やしろに毎年正月七日うそかへといふ事あり四方のさと人木のえだ其ほかのものをもてうそとりの形をつくり持きたり神前において互にとりかへてその年の吉兆をまねくことになん是やいまゝでのあしきもうそとなり吉(よき)に鳥かへんとのこゝろにてうそがへといふ元より此おん神の託(つげ)によりて始れり直き心をもてすれば誠のみちに叶うべしここに亀戸天神社はつくしのうつしなれば文政三年この事を始めて毎年正月二十四日五日うそ鳥の形をつくり境内においてうつしむれば
信心の人々はかひ求めて神前にあると鳥かへなばかけまくも賢(かしこ)き神の御心にもかなひ開運出世幸福を得べきになり
  亀戸天神社



所在地 江東区扇橋3-7

 横十間川は、江戸城から眺めると、横に流れ、江戸時代当時、川幅が約10間(約18m)あったことからこの名がつきました。横十間川が流れる区内中央部は、地盤が区内の平均的な高さにあることから、水面を多く残した親水性の高い公園として造成し、「区民の水辺」と名付けました。
 園内には、気軽に水と親しめる水上アスレチックやボート場などのほか、野鳥の島、生物の楽園、水車小屋、そして花ショウブ等が、四季折々に訪れる人々を楽しませてくれます。
          江東区


所在地 江東区北砂1 (北砂緑道公園)

 釜屋の渡しは、上大島村(大島1)と八右衛門新田(北砂1)を結び、小名木川を往復していました。名称は、この対岸に江戸時代から続く鋳物師、釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったことにちなみます。写真は明治末ごろの釜屋のようすです。川沿いに建ち並ぶ鋳物工場と、そこで働く人々や製品の大釜が写っています。
 明治の初めごろにはすでに、対岸の農耕地などへ往来する「作場渡船」に類する「弥兵衛の渡」がありました。「大島町誌」(昭和7年〔1932〕刊行)によれば、大正7年(1918)7月5日に「営業渡船」として許可されています。利用状況は、平均して1日大人200人、自転車5台、荷車1台で、料金は1人1銭、小車1銭、自転車1銭、荷車2銭、牛馬1頭2銭とあります。
 『城東区史稿』(昭和17年〔1942〕刊行)には営業の記載があるので、それ以後に廃止されたものと思われます。
 江東区教育委員会



所在地 江東区南砂-北砂

     境川の変遷
 境川(現在の都道、清洲橋通り)周辺は、江戸時代砂村新田と呼ばれていました。
 これは、砂村新左衛門が万治2年(1659)宝六島(現在の南砂1丁目付近)を中心に、436石の新田を開拓したことから、開拓者の名前をとったものです。
 新田の中央に小名木川から水をひいて、中川に注ぐように幅約19mの水路を設けました。
 この水路は、砂村新田の八右衛門、久左衛門、亀高、大塚の4ヵ村の南を境にして、流れていることから、境川といわれました。
 その後、境川は田畑の減少、舟運の減少等に伴って水路としての必要性が薄れ、廃川となり、昭和5年(1930)道路へと移り変わりました。


所在地 江東区北砂1-2先

 左行秀は、幕末の著名な刀工で、文化10年(1813)筑前国(福岡県)で生まれ、明治20年(1887)に75歳で没しました。豊永久兵衛(のち久左衛門)ともいい、南北朝時代の名工「左門字」の流れを汲む意から「左」の号を用いました。
 天保年間(1830~1844)の初めに江戸へ出て、刀工清水久義に入門し、弘化3年(1846)江戸から土佐(高知県)へ移り、翌弘化4年(1847)より土佐藩の城下で鍛刀を始めました。安政3年(1856)5月、三人扶持で刀工・鍛冶職として土佐藩に召し抱えられました。安政7年(1860)2月に江戸出府が命じられ、当時この付近にあった土佐藩下屋敷に滞在し、鍛錬場を築き刀剣を製造しました。ここで鍛刀した作品には「於東武土佐藩左行秀造之 慶応3年2月日」「於東武砂村元八幡宮北左行秀造之 慶応3年2月吉日」などの銘が見られます。また、下屋敷内では当時鉄砲の製造も行っており、これに関わったともいわれています。明治元年(1868)土佐へ戻り、明治3年(1870)まで作刀を続けました。
 ここに残る石標柱は、左行日での鍛錬場跡を示すために、東京百年の記念事業として昭和43年(1968)に建てられたものです。





        刀工 左行秀作刀旧跡
左行秀は江戸時代末期復古調の刀工として有名であった 行秀は北九州に生れ刀工となり江戸にでて水心子正秀の門人清水久義の弟子となりのち土佐藩の藩工となった 国鉄小名木川駅西側付近にあった土佐藩主山内家の下屋敷において作刀したことがある 行秀の作刀のなかに富賀岡八幡宮北辺おいてと銘のあるものはこの下屋敷において作刀したことを伝えている 行秀は明治初年(1953)高知県に帰り明治18年(1885)74歳をもって死去した
 昭和43年(1968)10月1日 江東区第28号



所在地 江東区北砂2-1-37

  御祭神 
倉稲魂命
須佐之男命
伊耶那美命
尊空親王
手力男命
  
         以上五柱

寛永元年(1624)、深川郷唐島開発の際当地に訪ずれた菅原長寛が村民の要請を受けて稲荷大神を鎮座して深川稲荷と社号を称し、土地の氏神としてあがめた。
元禄年間、時の将軍徳川綱吉がお鷹狩りの途中で当社に参拝に立ち寄られ「民の志を演ぶる事殊勝なり」と賞して社名を志演神社と改名せられた。
又、正徳2年(1712)の夏、当地に伝染病が流行し死者が多数に及んだ時、当社五代目別当、菅原快円が病魔退散と天下泰平、五穀成就を祈念して柴燈大護摩を焚いたとこと病は止まりこれによって毎年5月22日の祭礼を執行した。当時の人々は「ごまの稲荷」と当社を呼んだ。これは古文書「東の都歳時記」に日本の三護摩として記載されている。
尊空親王は伏見邦頼親王の御子にして、寛文3年(1663)12月関東に下向、深川五本松にて隠棲される。
親王死去の後、村民その徳を敬慕して邸跡に小祠を建てて村の鎮守としてあがめ奉る。
その後松平伊豆守抱屋敷内に祠れる稲荷大神を社殿と共に村内に寄附され、社名を尊空稲荷神社と称した。
昭和20年(1945)3月9日の戦災により両者焼失。
昭和22年(1947)3月志演神社と尊空稲荷神社を合祀して社名を志演尊空神社と改名す。  以上



所在地 江東区南砂

 弾正橋は、大正時代、城東電機鉄道の鉄道橋として砂町運河に架設され、その後、明治通りの道路整備に伴い、昭和5年(1930)に道路及び鉄道橋として鋼橋に生まれ変わりました。
 この橋のすぐ西側には、木橋で架設された秋山橋があり、住民の通行の手段でしたが、この道路整備に伴い秋山橋も撤去されました。
 弾正橋の名前の由来は、もともと境川に架かっていた橋の名前でしたが、大正13年(1924)からの震災復興事業のため境川が埋め立てられ、取り壊されたことを惜しみ、つけられたものです。



 なお、現在の南砂付近一帯は江戸時代から明治時代にかけ砂村新田と呼ばれ、その中に8つの地区があり、その1つが「弾正」でした。
 この橋の下を流れる仙台堀川は昭和53年(1978)からの埋め立てに伴い、昭和57年(1982)に親水公園となり地域の人々に親しまれてきました。
 平成の世となり、弾正橋も撤去の必要が生じ、ここに橋名板と、当時の橋の偲かげのレリーフを残し、橋の歴史を永くとどめるものとしました。
  平成8年(1996)9月  江東区


所在地 江東区東陽4-11-28 (江東区役所)

 明和2年(1765)、平井満右衛門により洲崎弁天から砂村新田にいたる干潟が埋め立てられ、平井新田が成立しました。平井新田は塩浜にする計画で開発され、明和3年(1766)には塩浜が築かれ、製塩が開始されました。
 寛政5年(1793)の「分限江戸大絵図」には塩浜の位置や規模、様子が描かれています。それによると、塩浜は平井新田の西部に位置しており、海から海水を導く「塩浜汐引ホリ」と記された水路や、鹹水(濃い塩水)をつくる「汐溜」、海水を煮詰めて塩をつくる「塩カマ(竈)」などの様子がうかがえます。もともと平井新田は塩浜にする予定で開発されたものでしたが、潮の便が悪く永続しなかったため、まもなく廃止されました。
 しかし、塩浜という地名は残り、「平井新田字塩浜耕地」の呼称は明治24年(1891)、この地域が深川区西平井町に編入されるまで続きました。
  平成18年(2006)2月  江東区教育委員会


    鈴木春信画『続絵本江戸土産』中巻(国立国会図書館蔵)


所在地 江東区南砂-北砂

 野菜の促成栽培は寛文年間(1661~1673)の頃、中田新田の農民、松本久四郎が考案したと言われています。
 初物を食べるというぜいたくが広がり過ぎると、農家は米麦など基本食料の生産よりも、高く売れる初物づくりに力を入れるようになり、また、庶民のぜいたくは、身分制度をゆるがすことになるとして、江戸幕府はたびたび、出荷日を統制する法令、促成栽培禁止の町触れを何回も出して、取り締まりました。
 この促成栽培の方法は、ゴミを堆積すると醗酵熱が出るのを利用し、江戸市中から出るゴミ(江戸ゴミ)を堆積、この熱を利用して早く野菜の種をまくことで、収穫が早くできるようになりました。明治維新以後には一層盛んになり、昭和に入って産地の中心が江戸川方面に移るまで続きました。
 江戸ごみという都市廃棄物を農業生産に活用した、見事なリサイクルが昭和30年代まで展開されてきた事実にも驚きと先人の苦労がしのばれます。
  平成9年度JA東京グループ
  農業競合組合法施行50周年記念事業

     THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
            Suna-Mura,the Origin of Vegitable Forcing
 Forcing culture of vegetables is said to have been devised by a farmer Kyushiro Matsumoto of Nakada-Shinden around the years 1661-1673. He mede use of the heat of fermentation of piled garbage. By using the garbage collected from the city of Edo,vegetables were planted earlier on the seed bed over the piled garbage  and harvested earlier than usual. It is indeed surprising that the idea of recycling city garbage for the agricultural production had long been practiced until around 1950s. 


所在地 江東区深川1-8-8

 江東区の生んだ世界的映画監督小津安二郎は、明治36年(1903)12月12日、この地に生をうけました。生家は「湯浅屋」という屋号の肥料問屋でした。安二郎が10歳のとき、三重県松阪町に転居、中学校卒業後、尋常小学校の代用教員を1年間勤めた後、大正12年(1923)再び上京、深川和倉町に住み、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社しました。
 昭和2年(1927)監督に昇進、処女作時代劇「懺悔の刃」を監督しました。
 その後の小津安二郎監督作品は、「出来ごころ」に代表されるような、下町特有の情緒や人情味が描かれ、またローアングルによる撮影スタイルなどによって、家族の触れ合いや日常生活を端的に描く独特の作風を作り上げていきました。
 昭和37年(1962)「秋刀魚の味」を発表、映画人としては、初の芸術院会員となりました。この作品が小津安二郎の遺作となり、翌昭和38年(1963)60歳で死去しました。その作品の価値は死後内外共にいよいよ高まり、世界最高の映像作家として評価されています。
 平成7年(1995)3月  江東区教育委員会


所在地 江東区三好2-17-14 (雲光院)

雲光院開基徳川家康公側室 阿茶局の墓
法號雲光院殿一位尼公正誉周栄大姉
弘治元年(1555)生
寛永14年(1637)1月22日寂



阿茶局は今川氏の巨神尾忠重の妻であったが夫の死後徳川家康に仕え阿茶局と称し慶長19年(1614)大阪役のとき死者として大阪城に入り淀君に面接して和議成立に力を尽し天和6年(1683)2代将軍秀忠の女が京都に入内するとき母親代りとして随行するなど才女としての誉れ高く老後は雲光院と号し寛永14年(1637)1月2日83歳にて死去し雲光院に葬られた
 昭和33年(1958)10月1日 江東区第6号



江東区指定有形文化財(建造物) 
 石造宝篋院塔(阿茶局墓塔) 寛永14年在銘
     平成13年(2001)3月29日指定



 本塔は雲光院の開基である阿茶局の墓塔として建てられたものです。宝篋印塔とは内部に「宝篋印陀羅尼」をおさめたことに由来する塔婆の一形式ですが、墓塔・供養塔としても建てられるようになりました。
 阿茶局は弘治元年(1555)、竹田家の家臣飯田氏の子として生まれ、今川家の家臣神尾忠重の妻となりましたが、忠重の死後、側側家康の側室となりました。大坂冬の陣には和睦の使者をつとめ、家康氏語は徳川秀忠の五女和子の入内に際し、母代として在京しました。元和9年(1623)、従一位に叙せられ、秀忠の死後は尼となり雲光院と称し、寛永14年(1637)、83歳で没しました。
 本塔は総高363.1cm、石質は安山岩です。塔身正面には「雲光院殿従一位尼公」、左右側面と背面には阿弥陀三尊の種子が刻まれています。また、上基礎の正面には「正誉周栄大姉 寛永14年■正月廿日」と刻銘があります。
 本塔は近世前期の宝篋印塔の様式をよく示し、江戸幕府成立に深く関わった人物の墓塔としても意義深く、貴重な石塔といえます。
 平成14年(2002)3月 江東区教育委員会



所在地 江東区森下1

 伊東深水は、明治31年(1898)2月4日、深川西森下町の深川神明宮門前で生まれました。本名は一。深川尋常高等小学校に入学後、2年生のときに父が失職し、深川の地を離れました。しかし、深川との縁は深く、明治41年(1908)には深川東大工町の東京印刷株式会社(白河4-9)に勤務。ここで画才が認められ、明治44年(1911)に日本画家の鏑木清方に入門しました。深水の雅号は、深川の水にちなむもので、清方がつけたものです。
 入門の翌年、巽画会展出品作「のどか」が初入選。大正3年(1914)に「桟敷の女」、翌年には「十六の女」がそれぞれ院展、文展で入選し、その後も高い評価をうけました。また、大正中ごろには、新版画運動に共鳴し、木版画「対鏡」を制作。雑誌や新聞小説の挿絵、口絵なども手がけました。
 深水は、江渡の浮世絵の伝統を受け継ぎ、女性の美しさを創出する日本画家として、日本の近代美術史に大きな功績を残しました。その功績から、昭和33年(1958)5月には日本芸術院会員になり、昭和47年(1972)5月8日に74歳で没しました。
 平成15年(2003)10月  江東区教育委員会



所在地 江東区森下1-3-17 (深川神明宮)

 深川七福神
  
  寿老人



 この辺一帯は、慶長年間(1596~1614)に摂津国(大阪府)の深川八郎右衛門ほか6人が新田を開拓し、八郎右衛門の姓をとり深川村と名づけられた、深川村発祥の地です。八郎右衛門は持地内の小祀に神明を勧請したと伝えられ、これが深川神明宮です。
 のち、現在の新大橋・常盤・高橋・森下・猿江・住吉あたりの開拓が進み、八郎右衛門は代々名主をつとめました。
 深川七福神のひとつ(寿老人)として親しまれています。




  由来記 碑

 今カラ凡ソ四百余年ノ昔深川ノ地ハ、葦ノ茂ル三角洲で住
ム人モ無カッタ ソノ頃深川八郎右衛門ト云ウ人ガ一族ヲ引連レコノ一帯ヲ開拓シタ 八郎右衛門ハ敬神ノ念篤ク、崇敬スル伊勢皇大神宮ノ御分霊ヲ奉齋シテ、開拓民ノ福祉ト当地ノ発展ヲ祈願シタノガ深川神明宮ノ初メデアル ヤガテ徳川家康公ガ江戸ニ入府、慶長元年当地ヲ巡視シ八郎右衛門ヲ召シテ地名ヲ尋ネタ 未ダ住ム人モ少ナク地名モ無キ由答エルト、家康公ハ八郎右衛門ノ姓「深川」ヲ以テ地名トセヨト命ジタ 深川ノ地名ノ起コリハ、神明宮ノ鎮座スル実ニ此ノ地ナノデアル
 爾来深川ノ地ハ江戸ノ繁栄ト共ニ発展シ、当宮モ「深川総鎮守神明宮」ト称エラレ、多クノ崇敬ヲ集メルコトトナッタ ソノ間ニハ震災戦火ノ大キナ災禍ガアッタガ、氏子万民ノ赤誠ヲ以テ昭和43年(1968)ニ御社殿御造営モ成リ、衆庶ノ崇敬益々旺ンデアル
 今般、郷土和楽万民繁栄ヲ祈念シテ御鎮座四百年祭ヲ齋行スルニ当タリ、今日ノ繁栄ノ礎ヲ築イタ郷土ノ先人ニ感謝シ、当宮ノ由緒ヲ茲ニ記ス
 平成9年(1997)8月吉日
 深川神明宮宮司 内野成浩 謹撰
 神宮禰宜      藤井昭彦 謹書





     深川神明宮末社 和合稲荷神社
  御由緒
古くは御神域内の各所に各々にお祭りしていた 左の十一柱の神々を昭和に入って末社として合祀し、和合稲荷神社となった
  御祭神と御神徳
和合大神 伊邪那岐 伊邪那美のニ神
 夫婦和合の妙徳により万物修理固成せり
稲荷大神 宇迦御魂大神
 御神徳は五穀豊穣 商売繁盛なり
浅間大神 木花開耶姫
 霊峰富士の山に鎮まる神なり
厳島大神 一杵島姫神
 芸道富有を司る弁天さまなり
疱瘡大神 建速須佐之男神
 疱瘡を初め病流行の守護なり
鹿嶋大神 武甕槌神
 国土平定のとき尚武の守護なり
大国大神 大国主大神
 御神徳は健康守護なり
御嶽大神 少名毘古那神
 禁厭祈祷 医薬の道をも講せらる
金比羅大神 大物主神
 水に関する守護なり
道祖大神 猿田彦神
 道路を司り旅行安全の守護なり
北野大神 菅原道真公
 御神徳は学業成就なり

 平成19年(2007)5月3日 深川神明宮社務所


所在地 江東区三好2-7-5 (龍光院)

   深川七福神
       毘沙門天

 龍光院は浄土宗で、もとは雲光院の塔頭のひとつでした。慶長16年(1611)馬喰町(中央区)に創建されました。明暦3年(1657)の大火で全焼したため岩井町(同区)へ移転しさらに、天和2年(1682)再び焼失し、同天和2年(1682)現在地へ移りました。
 深川七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。



所在地 江東区清澄3-4-6 (臨川寺)

 玄武仏は、宝暦から寛政(1751~1800)にかけて活躍した美濃派の俳人、神谷玄武坊のことです。小石川白山門前(文京区)に住み、俳号を俳仙堂・白山老人などと号しました。延享(1744~1747)のはじめ、各務支考により京都双林寺に建立されていた、芭蕉墨直の墨跡を写して臨川寺に建て、毎年3月に墨直会を催したといわれています。また、梅花仏(各務支考)の碑も建てたといわれています。



 臨川寺は、承応2年(1653)、鹿島根本寺(茨城県)の冷山和尚が草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、正徳3年(1713)「瑞甕山 臨川寺」という山号寺号が許可されました。延宝8年(1680)、深川に移り住んだ松尾芭蕉は仏頂禅師と親交が厚く、度々参禅に通ったと伝えられています。以来、芭蕉ゆかりの寺として「玄武仏碑」をはじめ、「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残されています。
 平成5年(1993)3月  江東区教育委員会

 



所在地 江東区佐賀1-16付近

北辰一刀流伊東道場の主。新撰組に入隊して上洛した。上洛した年(甲子)にちなんで伊東甲子太郎と改名。伊東甲子太郎と新選組は攘夷論(外国を退ける考え)で一致していたが、新選組は佐幕派(幕府を補佐)、で、伊東甲子太郎は勤王派(倒幕)であるという違いがあり、後に新撰組を脱退する。


所在地 江東区門前仲町1-18

伊能忠敬は千葉県に生れ江戸にでて高橋東岡(高橋至時)に測量術を学び寛政7年(1795)幕府の命をうけて全国を測量し沿海路程図を完成した。その測量の原点は伊能忠敬の居宅であった。伊能忠敬ははじめこの付近にすみのち中央区八丁堀にうつり正確な地図を完成した。伊能忠敬は文政元年(1818)4月13日74歳をもって死去し台東区源空寺に葬られている。
 昭和43年(1968)10月1日 江東区第21号



所在地 江東区永代1中央区新川1

日本国重要文化財  
 〔諸元〕
橋長  184.7メートル
幅員  25.6メートル
上部工 鋼製3径間カンチレバー式タイドアーチ橋
 〔所有者〕
東京都
 〔指定年月日〕
平成19年(2007)6月18日指定(建第2501号)
 〔指定の意義〕
 永代橋は、関東大震災復興事業によって建造され大正15年(1926)12月に竣功した。
 永代橋の特筆すべき点として、上部構造は橋端部に水平力の及ばないライズ比7分の1の下路式タイドアーチで、リブに鋼板を充腹して剛性を高めたソリッドリブアーチ端部を高張力マンガン鋼のデュコール鋼を使ったアイバーで連結したアーチと、箱型鈑桁の突桁及び吊桁からなる構造である。放物線状の大規模アーチを中心として、桁高を巧みに変化させた荘重な造形により、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
 下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚2基と、締切工法による橋台2基からなる。
 建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興局土木部長太田円三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師竹中喜忠らである。
  東京都知事 石原慎太郎


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