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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区常盤1-3-12 (芭蕉稲荷神社)



古池や 
 蛙飛びこむ 
     水の音 

                 芭蕉
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所在地 江東区常盤1-3-12 (芭蕉稲荷神社)

俳聖芭蕉翁生誕参百五十年祭記念


 平成6年(1994)10月吉日
  芭蕉遺蹟保存会 堀内一雄


所在地 東京都江東区清澄3-3-9

 清澄庭園は、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎が明治11年(1878)に荒廃していた大名の下屋敷や豪族の館跡の土地約3万坪を買い上げ、大規模な造園工事を開始し、弟・弥之助、長男・久弥へと岩崎家3代によって明治24年(1891)に「廻遊式林泉庭園(かいゆうしきりんせんていえん)」が完成されました。当時は「深川親睦園(ふかがわしんぼくえん)」といわれ、三菱社員の慰安や内外賓客を招き接待する場として用いられていました。

 大正12年(1923)の関東大震災により、西半分を中心として壊滅的被害を受け、岩崎家が翌大正13年(1924)に破損の少なかった東半分を公園用地として当時の東京市に寄付しました。昭和7年(1932)より清澄庭園として一般公開されました。

  庭園面積 38,967㎡
  公園面積 34,921㎡

     清澄庭園管理所


所在地 東京都江東区清澄3-3-9

 
『 東京都名勝 』 昭和54年3月31日指定

 清澄庭園は、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎が明治11年(1878)に荒廃していた下総国関宿城主・久世大和守の下屋敷や江戸の豪商・紀ノ国屋文左衛門の館跡の土地約3万坪(約10万㎡)を買い上げ、大規模な造園工事を開始し、弟・弥之助、長男・久弥へと岩崎家3代によって明治24年(1891)に「廻遊式林泉庭園(かいゆうしきりんせんていえん)」が完成されました。明治13年(1880)4月には「深川親睦園(ふかがわしんぼくえん)」と命名し、三菱社員の慰安や内外賓客を招き接待する場として用いられていました。



 <深川親睦園当時> Hukagawashinbokuen(The 1880's)

 庭園の主な施設として、河田小三郎が設計監理した日本館、英国人建築技師ジョサイア・コンドルの設計監理により西洋館がみられました。これらの建造物は鹿鳴館時代の明治文化を反映した豪華さにおいて、岩崎家の権勢を天下に誇示したものでした。




 <現在> (The present)

 大正12年(1923)の関東大震災により、西半分を中心として壊滅的被害を受け、岩崎家が翌大正13年(1924)に破損の少なかった東半分を公園用地として当時の東京市に寄付しました(清澄公園)。昭和7年(1932)7月24日より清澄庭園として一般公開されました。

  庭園面積 38,967㎡
  公園面積 34,921㎡

 園内には『大正記念館』、『西洋館』、『日本館』、『涼亭』があります。


所在地 江東区清澄3-3-9 (清澄庭園)

  西洋館 Western-style house

 英国人建築技師ジョサイア・コンドルの設計監理によるもので、明治19年(1886)に着工して明治22年(1889)に竣工しました。鹿鳴館時代の建築技術が生かされた建坪782坪(約2581㎡)で、鋳鉄製テラス、イスラム風ドーム、オランダ風の装飾破風などのデザインを有していました。しかし、大正12年(1923)の関東大震災の際に焼失してしまいました。
  清澄庭園管理所


所在地 江東区清澄3-3-9 (清澄庭園)

  大正記念館 Taisho Memorial Hall

 初代の大正記念館は、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲によりほぼ全焼してしまいました。その後、貞明皇后(ていめいこうごう)のご葬儀の「葬場殿(そうじょうでん)」資材の下賜をうけ、昭和26年(1951)着手、昭和28年(1953)に完成しました。現在の大正記念館は、近代風数奇屋造りで平成元年(1989)4月に全面改修したものです。
  清澄庭園管理所


所在地 江東区清澄3-3-9 (清澄庭園)

  日本館 japanese-style house

 河田小三郎により設計監理された日本館は建坪315坪(約1040㎡)で、大広間、茶室、小集会場、松の茶屋などを備えた壮大な木造家屋でした。明治19年(1886)着工、明治22年(1889)に竣工しました。しかし、大正12年(1923)関東大震災の際に焼失しました。
  清澄庭園管理所


所在地 江東区清澄3-3-9 (清澄庭園)

  涼亭 Ryotei House

 明治42年(1909)、英国陸軍元帥キッチナーを迎えるため保岡勝也が設計し、この涼亭が建てられました。



 庭園の日本情緒を有している数奇屋造りの涼亭は、震災・戦災と2度の災厄をまぬがれて焼け残った唯一の建造物です。現在の建物は、昭和60年(1985)に全面改修しましたが、構造外見は往時の姿をとどめています。
  清澄庭園管理所


所在地 江東区深川1-11

芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町1丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ深川芭蕉庵もその持家であったがまた平野町内の三百坪ほどの地に彩茶庵を建てみずからも彩茶庵と号した芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり元禄2年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出点した
     昭和33年(1958)10月1日    江東区第7号






所在地 江東区深川2-16-7

  浄土宗 双修山 心行寺

  深川七福神 福禄寿

由来
 心行寺は雙修山養源院と号し、開山は、光蓮社団誉一露屋道で、養源院は開基です。元和2年(1616)に、八丁堀に創建され、寛永10年(1633)に現在地に移りました。
 養源院は岩国藩主吉川広嘉(1621~1680)の妻で、承応3年(1654)に没しました。広嘉は岩国藩主として2代目で、延宝元年(1673)には、錦帯橋を架橋しています。
 深川七福神(福禄寿)のひとつとして親しまれています。



 双修山養源院と号し、元和2年(1616)京橋八丁堀寺町に創立、開山は観智国師の高弟光蓮社団誉一路屋道上人、周防岩国城主 吉川監物の室 養源院殿の発願に開基による。
 寛永10年(1633)現在地に移転、当時境内地は、間口42間奥行42間総坪数1764坪、影窓院 正寿院の二末寺があった。
 大正12年関東大震災の厄にかかり、昭和7年(1932)再建された本堂庫裡も昭和20年(1945)戦災のため再度烏有に帰した。
 現本堂は、浅香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味し、昭和43年(1968)に落慶した。
 本堂両脇間に観無量寿経変相図(曼荼羅)ならびに三尊来迎図(守屋多々志画伯模写)がある。
    史 跡 
 開基養源院殿墓  五重石塔  宝筺印咒塔
 五世鶴屋南北墓  松本交山墓  工藤琳甫墓
 悟道軒円玉墓   深川七福神福禄寿堂
           双修山心行寺21世



 < 六角堂(福禄寿) >







    不求自得    自然にとくがそなわる
 この福禄寿の尊像の中には当寺書院移築の際に土中より発見された戦災前の福禄寿土偶が収蔵されています。手にする宝珠にふれて円満な人格をいただくようおねがいいたしましょう。福徳は自然に身についてくるものです。
          福寿海無量  是故應頂礼


所在地 江東区深川2-16-7 (心行寺)

   影窓院(ようそういん)地蔵
 「御府内備考続編」によると、この石造地蔵菩薩立像は、当寺に影窓院と正壽院の二つの塔頭(たっちゅう)があり、影窓院にあったので、この呼称がある。
 結緑地蔵として縁結び、願いごと成就の地蔵尊として江戸時代から参詣の人々で大いに賑わった。


所在地 江東区深川2-16-7 (心行寺)

   五重層石塔
 突風火水地五層の石塔で、「元亨4年(1324)」の銘がある。
 元亨4年は1324年で、江東区内に現存するもののうちで最も古い年号を記録している。


所在地 江東区深川2-16-7 (心行寺)

    宝篋印咒塔(北州塚)
 文化文政の頃江戸の名妓であった。川口直が、その夫忠七妓の菩提を弔うために建てたものである。
 川口直は、大田蜀山人作詩の清元「北州」に、あの甲高い節付けをしたので有名で、又隅田村から小梅村の境まで、独力で楓樹を植えた。幕末の頃、その紅葉は向島の名物でもあった。
 芸妓をやめて日本橋薬研堀に「川口」という料亭を開き、後、浅草橋に移って胡麻味噌の石焼き豆腐を呼び物にして、非常に繁昌した。
 夫の忠七は、「竹明」と号して笛の名手であった。


所在地 江東区白河1-3-32

浄土宗
 道本山 東海院 霊巖寺



 松平定信は、江戸中期の陸奥白河(福島県)藩主であり、天明7年(1787)老中となりました。
 定信が行った政策は、寛政の改革といわれ、天明のうちこわし後の江戸の秩序回復に努めました。とくに七分積金の制度は、町方入用を節約させ、不時の備蓄にあてたものです。明治には、東京府の公共事業に役立ちました。
 この霊巖寺にある墓は、昭和3年(1928)に国の史跡に指定されています。




 霊巖寺には『松平定信墓』、『銅造地蔵菩薩坐像』、『勢至丸像』があります。





 


所在地 江東区白河1-3-32 (霊巖寺)

東京都指定史跡
 松平定信墓
     昭和3年(1928)1月18日指定



 松平定信(1758~1829)は8代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。
 天明7年(1787)6月に老中となり寛政の改革を断行、寛政5年(1793)老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った。また朱子学者でもあり、「花月草紙」「宇下の人言」「国本論」「修身録」などの著書もある。
 昭和51年(1976)3月31日 東京都教育委員会



 


所在地 江東区白河1-3-32 (霊巖寺)

法然上人御生誕850年慶賛記念
 勢至丸せいしまるさま   
  (法然上人御幼名)




 昭和58年(1983)3月 当山第43世 念譽真成代


所在地 江東区白河1-3-32 (霊巖寺)

東京都指定有形文化財(彫刻)
 銅造地蔵菩薩坐像 (江戸6地蔵の1)
     昭和45年(1970)8月3日指定



 像の高さは、2.73メートル。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得て、江戸6地蔵の第5番として、享保2年(1717)ごろ建立されたものである。製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。
 蓮台には数ヶ所湯の廻らなかったところがあり、造立銘文はこれを避けて刻まれている。また、顔や肩などには金箔が残っている。
 なお、江戸6地蔵はつぎのとおりである。

   品川寺  品川区南品川3丁目
   太宗寺  新宿区新宿2丁目
   真性寺  豊島区巣鴨3丁目
   東禅寺  台東区東浅草2丁目
   永代寺  江東区=消滅

東京都文化財保護条例(昭和51年〔1976〕3月31日改正)により、文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更しましたので、石造標識については、このように読み替えてください。
   平成19年(2007)3月1日 東京都教育委員会

 


所在地 江東区白河1-1-8

浄土宗
 雄松院



 雄松院境内には『度会園女墓』があります。

 


所在地 江東区三好1-6-3

 浄土宗 長専院 不動寺







 木造阿弥陀如来立像

江東区指定有形文化財(彫刻) 
 平成21年(2008)3月27日指定

 長専院の本尊、像高は75.6cm。三尺阿弥陀と称される来迎形式の阿弥陀如来立像です。右手は肘を曲げて掌を前に向けて立て、左手は掌を前に向けて下ろし、両手とも親指と人差し指を捻じ、右足をわずかに前に踏み出して立っています。
 この像の造像技法は、二材以上を規則的に接合して造る「寄木造り」、もしくは「割矧ぎ(わりはぎ)造り」です。眼は水晶をはめ込んだ「王眼」とし、表面の仕上げは、肉親部は金の粉末をニカワに溶かして塗る「金泥(きんでい)」、着衣には漆の上に金箔を貼る「漆箔(しっぱく)」が施されています。全体にバランスがよくとれた優作です。
 形姿と造像技法から、鎌倉時代後期(13世紀後半)の作例と考えられます。保存状態がよく、造立当初の姿をよく残していることは貴重です。
    平成22年10月    江東区教育委員会


所在地 江東区亀戸3-6-1

亀戸天神社
 (通称 亀戸天神、亀戸天満宮、東宰府天満宮)


 江戸時代から学問の神様として信仰を集め、梅や藤の名所として庶民から親しまれてきました。



 寛文2年(1662)九州大宰府天満宮の神職が、飛梅の木で菅原道真の像を作り、祀ったのが創建といわれています。



 毎年1月24日、25日に「うそ替え神事」が行われ、前年のウソを納め、新しいウソを求めると「凶もウソとなり吉にトリ替わる」といわれており、檜の一刀彫のウソに人気があり、たくさんの人々でにぎわっています。



   境内梅園

東風吹かば 
  匂ひおこせよ 
    梅の花 
  あるじなしとて 
    春な忘れそ


御祭神菅原道真公(天神さま)と梅の花のゆかりはあまりにも有名で厳冬の中に凛として咲き誇る姿は古来より多くの人々に愛で親しまれて参りました



当社の梅は藤の花と共に創建当初より名高く社殿や太鼓橋その他多くの句碑・記念碑などに彩りを添えるように咲くところにその趣があります
この度社殿正面左右の絵馬掛けの中に紅白梅を一対と東西両参道沿いに新たな梅花を植樹し梅園の整備をいたしました
全体で50種類・約300本の色々な梅花が(2月中旬より3月上旬)にかけて最も美しい時期を迎え境内一円はその馥郁とした香りに包まれ春の訪れを告げてくれます
  亀戸天神社



 亀戸天神社境内には『鷽の碑』、『弁天社』、『五歳の菅原道真公像』、『御嶽神社』、『石灯籠(太助灯籠)』、『聖廟九百年御忌句碑』、『花園社』、『歌川豊國の碑』、『筆塚』、『御神牛』、『亀戸天神社の楷』、『紅梅殿』、『珺琚先生碑』、『累卵塔碑』、『河野寅吉彰徳碑』、『河野寅吉の碑』、『文房至宝碑』、『福山碧翠翁記念碑』、『梅松両社落成記念三翁句碑』、『中江兆民翁之碑』、『太鼓橋(男橋)』、『太鼓橋(女橋)』、『菅廟種梅碑』、『菅公一千年祭記念碑』、『清水誠の頌碑(燐寸塚)』、『弘前舊藩士龍岬藤林君之碑』、『琴柱灯籠』、『河却圭三之碑』があります。



 


所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社)

塩原太助奉納 石灯籠  
    天明元辛丑年(1781)8月17日

塩原太助は、本所相生町(墨田区両国)で蒔炭商を営み、辛苦を重ね豪商をなした。
  亀戸天神社

 


所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社)

幹はみな老を忘れて梅の花 楳堂

二世、三世ノ肖像ヲ 田鶴年鐫ガ鐫刻ス
      合企 豊原■周  豊原國貞

明治26年(1893)11月 三世香朝婁樓國貞の発起により市川団十郎尾上菊五郎等や錦絵問屋、浮世絵師の補助によって建立されました。
  亀戸天神社


所在地 江東区亀戸3-6-1 (亀戸天神社)


 ご祭神は菅原道真公の御奥方で、菅公の父君是善公の門人であり、菅公ご幼少の時の師である儒者の島田忠臣の御女にあらせられ、御名も宜来子と白し、相殿に御子十四方も祀られております。
寛文年中亀戸天神社の創建と時を同じくして九州筑紫(福岡県)の花園の地より勧請、爾来花園神社、花園大明神とも号されて、安産・子宝・育児・また立身出世の神として広く信仰を集めてまいりました。
先の戦災に罹り社殿は惜しくも烏有に帰しましたが、昭和47年(1972)8月23日もとの地に再興されました。
 安産御守護・岩田帯安産祈願絵馬は、ご本社でお頒ちしております。
  亀戸天神社


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