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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区亀戸3-41

江東区登録史跡
 入神明宮跡

 入神明宮は、小高く盛り上がった塚の上に建てられた神社でした。由緒は、昔、このあたり一帯が海で、海上を往来する船の安全のために神明宮が祀られたといわれています。神木の榎は、枯れたときに「天下太平」の文字の虫喰いが生じたので太平榎と称し、また漁師が網を干したところから網干榎とも呼ばれました。
 江東区は、大部分が江戸時代以降の埋め立てで、古くは、亀戸のあたりに亀の形をした島があったと伝えられています。明治40年(1907)、このあたりから中世初頭の漁網のおもり(土埵)が発見され、当時、すでに人々が暮らしていたことを物語っています。
 明治に入り、天祖神社と改称しながらも、永く当地に祀られていましたが、昭和62年(1987)に香取神社(亀戸3丁目)に合祀されました。
 平成2年(1990)3月20日 江東区教育委員会


       
『江戸名所図絵』(江東区教育委員会蔵)


所在地 江東区亀戸3-39先 (祐天堂)

 木下川やくしみち道標
 高さ71センチのこの道標は、ここ境橋から、木下川薬師堂(葛飾区東四ツ木1丁目)へ至る木下川薬師道(現在の仲居掘通り)を示すものです。

 刻銘は、正面に   木下川
              やくしみち
       右側面に、 本石町
               賽暦十一年辛巳孟春
       左側面に、 あつまもり



 あつまもりとは、吾妻権現社のことで境橋を渡った右手、北十間川沿いにありました。本石町は日本橋の町名で、この道標の建てられた賽暦11年(1761)頃には、きっと江戸町人の参詣が盛んだったことがうかがえます。
 亀戸3丁目宮元町会 祐天堂保存会


所在地 江東区亀戸3-39先

 六字名号供養塔 伝 祐天書
     祐天堂由来


 昭和41年(1966)に設けられた当時の説明板等に拠りますと、その由来は、元禄年間に祐天上人が千葉方面に往来の途中、この付近の川の中や川岸に多くの水死者のあるのを見て、非常に心を痛め、その霊を懇に回向されました。
 その際に、これらの仏に戒名を与え祐天上人、自らが筆を取って石にその戒名を記された供養塔をここに残されました。
 後年、この供養塔を奉った祠が、この祐天堂であります。
 それ以来、この付近では水死者もなく、またこの付近の子供たちが水辺で遊んでいても溺れたためしが無かったと言い伝えられ、この付近に住む人々によって、水難除、安産、子供の守護の祠として崇め奉られ今日に至ります。(近年では、この祠に、交通安全祈願をなさる方も多いと聞きます。)
 また、毎年7月24日を由縁の日と定め、祐天上人の遺徳を仰ぎ精霊の供養を営む日と定められてまいりました。
 亀戸3丁目宮元町会 祐天堂保存会



 祐天堂地内には『木下川やくしみち道標』があります。


所在地 江東区亀戸3-40、50~53付近

江東区登録史跡
 梅屋敷

 梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。もとは本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵としていましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、8代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々でにぎわい、その様子は『江戸名所図会』『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。歌川広重はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、とくに「名所江戸百景」の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。明治43年(1910)、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。



 ここに残る石標柱は、江東区創立10周年を記念して、昭和33年(1958)に建てられたものです。
 平成21年(2009)3月 江東区教育委員会


 歌川広重「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」(国立国会図書館所蔵)


所在地 江東区亀戸3-42-1

天台宗
 亀命山 遍照院 光明寺




 光明寺は天台宗で、亀命山遍照院と号し壮健は弘治元年(1555)と伝えられています。
 境内には、寛永5年(1628)という区内でも古い年号をもつ宝篋印塔、延宝4年(1676)の庚申塔、越後国(新潟県)新発田藩主溝口宣広奉納の寛永寺旧蔵石造燈籠、役者絵・美人画に独特の境地を開き、浮世絵の第一人者と賞された二世歌川豊国(国貞1786~1864)の墓などがあります。




 光明寺境内には『二世歌川豊国墓』があります。


所在地 江東区亀戸3-42-1 (光明寺)

 
 二世歌川豊国墓
 役者絵・美人画に独特の境地を開き、浮世絵の第一人者と賞された二世歌川豊国(国貞1786~1864)の墓です。


所在地 江東区亀戸4-11-19

  水神社(亀戸水神宮)
 

  
 日本國水神さまと言はれているお社は、恐らく数百社の多さに達するであろう。
 この神は普通一口に水神さまと呼ばれている。「そのほんとうの神名を知っている人は少ないと思う。
 この神は「ミズハノメ神」であって、古事記には「弥津波能売神」と書き、日本書紀には「岡象女神」と書かれていて、伊装那岐伊那美ニ神の御子神を畏れて天照大神の御姉神に当らせられる。
 父母の神は、我大八洲國を造り給うた國土経営の神であって、あらゆる神徳を備えられているが、この中特に「水」に関する一切の御神徳と受けて居られるのが、この水神即ち、「ミズハノメ神」である。
 この水神宮は前記の御祭神を奉祀し、新田開墾の初め土民が堤上に水神を勧請して水害を逸れん為祈願したものでありその創立は享禄年間(約440年前)であると思われる。
 昭和53年(1978)6月 亀戸水神奉賛会



 水神社境内には『水神森若人の歌碑』があります。


所在地 江東区亀戸4-11-19 (水神社)

  水神森若人の歌碑  作詞 田中■■■

1.
水神森の 若者は
御名を尊び 頂いて
明るく清く 誠心で
家業に励み 誇あり
2.
水神さまの 神徳は
あまねく今も 照すなり
我等若人 皆共に
心豊かに 希望あり
3.
水神宮の 信仰者は
老も若きも 幼きも
神の御加護に つつまれて
永久にかがやき 栄あれ


所在地 江東区亀戸4-24-1

真言宗智山派
 明王山 東覚寺



 
東覚寺派享禄4年(1531)玄覚法印の創建と伝えられています。明治34年(1901)覚王寺を合併しました。覚王寺は猿江2-15付近にあり、府内88ヶ所霊場第73番札所で、それを示す碑が東覚寺に残されています。
 当時の不動明王は、東大寺別当良弁(689~773)の作で、大山寺(神奈川県)本尊と同木同作といわれ、江戸時代より亀戸不動として信仰をあつめてきました。

 亀戸七福神のひとつ(弁財天)として親しまれています。



 東覚寺境内には『不動明王標柱』、『是心軒一露居士碑明治32年在銘』があります。



亀戸七福神 弁財天

 


所在地 江東区新砂1-1・2付近

 洲崎球場跡
     「伝統の一戦(巨人・阪神)」誕生の地



 洲崎球場(別称・洲崎大東京球場)は、日本プロ野球草創期の野球場で、昭和11年(1936)2月に日本で6番目に結成されたプロ野球チーム「大東京軍」の本拠地でした。
 プロ球団結成への気運は、昭和9年(1934)開催の日米野球で高まりました。同年12月に大日本東京野球倶楽部(現在の読売巨人軍)が結成されると、東京、大阪、名古屋に相次いでプロ球団が誕生し、昭和11年(1936)には7球団によるプロ野球公式戦が開始されました。
 しかし、東京にはプロが使用できる野球場はなく、在京球団の本拠地建設が急がれました。そのため、洲崎球状はわずか3ヵ月ほどで完成し、秋のシーズンの最後を飾る「東京第二次リーグ戦」が開催されました。シーズン終了後には、巨人とタイガース(現在の阪神)による初のプロ野球日本一決定戦(3連戦)が開催され、沢村栄治投手擁する巨人が初代王座を獲得しました。この試合は、日本プロ野球史上屈指の好ゲームといわれ、洲崎球場が最も輝いた時でした。現在でも「伝統の一戦」といわれる両チームの熱戦は、ここから誕生しました。
 日本プロ野球の歴史を刻んだ洲崎球場は、昭和13年(1938)の3試合を最後の閉鎖されました。わずか3年間とはいえ、日本プロ野球界繁栄の礎を築いた貴重な野球場跡として記録に残すものです。
 平成17年(2005)2月 江東区教育委員会


              昭和11年(1936)11月完成の洲崎球場(東京新聞提供)


              初代王座を獲得した巨人軍(読売新聞東京本社提供)


所在地 江東区東砂4-2

  天祖神社
 大塚新田の鎮守。寛永年間(1624-1643)の初めに建立されました。



江東区登録有形民俗文化財
 奉納額 元神明付近景観図 明治35年在銘
     平成3年(1991)3月28日登録


                            天祖稲荷


 天祖神社境内には『
水盤』、『力石』があります。





すなまちの なかだの じどをそん
 みなをば まもる ありがたや

  昭和十三年戊寅 北砂町八丁目 石橋亀太郎


所在地 江東区東砂4-2 (天祖神社)

江東区登録有形民俗文化財
 水盤 元文3年在銘
     昭和59年(1984)3月26日登録

 


所在地 江東区東砂4-3

江東区登録有形民俗文化財
 北向子育地蔵尊
     昭和61年(1986)3月26日

 


所在地 江東区東砂5-4

  中田稲荷神社
 中田新田の鎮守。寛永年間(1624-1643)の末頃に建立されました。





 


所在地 江東区東砂6-13-4

  天祖神社






                                   龍神神社 水神神社
    

                                         稲荷神社


所在地 江東区富岡1-14 (深川公園)

江東区指定有形文化財(建造物)
 石造燈明台 明治三十一年在銘 一基
     平成19年(2007)指定

 日清戦争(1894~1895)の勝利を記念して、深川不動堂の境内南東地に建てられました。明治28年(1895)12月に起工し、明治31年(1899)7月に竣工しました。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856~1922)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の1人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治27年〔1894〕竣工)が現存します。
 外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた9世市川団十郎5世尾上菊五郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。就航当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成19年度に区指定有形文化財に指定され、平成20年(2008)に現在地に移設されました。
 平成21年(2009)9月 江東区教育委員会


竣工当時の石造燈明台(成田山東京別院深川不動堂所蔵)


所在地 江東区富岡1-15-1 

江東区指定有形文化財(絵画)
 絹本着色地蔵菩薩半迦像
     

 地蔵菩薩半跏像は、像を描いた本紙を掛け軸に表装したものです。本紙は縦84.0cm、横37.0cm。表装は縦178.8cm、横56.0cmです。地蔵菩薩はやや左を向いて、海中の岩座の上の蓮華座上に半跏に坐っています。また袈裟を着て、右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を載せ、宝珠からは雲が立ちのぼっています。衣の文様には金泥や截金で装飾が施されています。
 地蔵信仰は奈良時代末ごろに日本に伝来し、平安時代後半には六道に輪廻転生する人々を救う菩薩として信仰されてきました。鎌倉時代に流布した像容は像の姿をして袈裟などの法衣を身につけ、あまねくこの世をまわるという意味から錫杖を持ち、また宝珠を持ちます。本像はその像容と線の描き方から南北朝時代(14世紀)の製作と考えられます。
 本像は区内の絵画では古いもので、後世による補筆や大幅な修復がなされなかったことから描かれた当初の姿をよくとどめています。また地蔵菩薩が海中の岩座の上の蓮華座上に坐るという珍しい像容や、截金などにみられる技術の優秀性などから絵画史上において貴重な作品といえます。
 平成8年(1996)9月 江東区教育委員会


所在地 江東区南砂1-1~北砂6-19

  仙台堀川公園
 仙台堀川公園は、隅田川に続く水路であった仙台堀川を木場公園東側でせき止め、公園として整備したもので、総延長は3.7kmあります。



 仙台堀川公園内には『旧大石家住宅』、『仙台堀川公園由来碑』、『砂町運河跡』があります。




 『活』 上野弘道作 1982年3月建立 



 『継』 上野弘道作 1982年3月建立


 『想』 上野弘道作 1982年3月建立


所在地 江東区南砂 (仙台堀川公園)

  仙台堀川公園由来碑
 砂町地区をL字型に流れる仙台堀川は、川幅36メートル、延長約2800メートルに及び、かつては、砂町運河として開削されたのが始まりである。
 この運河は、大正6年(1917)の大水害で被災した砂町地区の復興と工業振興のために、大正10年(1921)東京運河河土地株式会社によって開削が始められ、昭和8年(1933)に完成したものである。
 その後、地域の工業発展のために重要な役割を果したものの、大正12年(1923)の関東大震災以来の地盤沈下に加え、度重なる高潮の襲来などで、運河の維持が極めて困難となり、昭和23年(1948)東京都に上地されることになった。
 上地された後、砂町運河は砂町川と改称され、いかだの係留や舟行などに利用されていた。そして、昭和40年(1965)の河川法の改正に伴い、隅田川に結ぶ従来からの仙台堀川と合流し一級河川仙台堀川に一本化されたのである。
 仙台堀川は、長年の地盤沈下により護岸のかさ上げが繰り返され漏水が各所に発生し水質の汚濁が進んだことにより、防災上危険な河川との指摘をうけ、其の状態での河川の維持は困難となった。
 そこで、区は地域住民の埋立て要望が高まる中で、河川の安全性を確保し、河川のよみがえりを図ることを緊急課題として取り組み昭和53年(1978)一部水路を残し、高水敷を造成する画期的な工事に着手した。
 この画期的な工事は、地域住民の協力のもとに順調に進み、河川の安全性確保の目途が立った。昭和55年(1980)4月仙台堀川は親水公園として生まれ変わり、ここに河川の再生をみたのである。
 昭和57年(1982)3月 東京都江東区



  再生
 われわれは、仙台堀川の歴史を親から子へ、子から孫へと語り伝え、先人から受け継いだこの貴重な財産が、水戸緑豊かな安らぎの場となり、さらに区民の森へと成長し、再び地域住民に貢献されることを念願するものである。
 昭和57年(1982)3月 東京都江東区町 小松崎軍次書


所在地 江東区南砂1-1~北砂6-19 (仙台堀川公園)

  砂町運河跡
 区民の憩いの場として親しまれているこの仙台堀川公園は、かつて砂町運河として民間の手により開削された、例の少ない運河です。
 砂町が農村から工業の町へと発展していくなかで、船による輸送力の向上を見越して運河の開削が計画され、大正8年(1919)に東京運河河土地株式会社が創立されました。大正11年(1922)に着工し、小名木川の合流点から現在の都立東高校の正面にあたる東砂7-19までの南北の一線、続いて旧舟入川合流点から横十間川合流点までの東西の一線が昭和8年(1933)までに完成しました。



 昭和23年(1948)、東京都に移管された砂町川と名勝を改め、昭和40年(1965)、河川法の改正に伴い、仙台堀川の一部となりました。 
 昭和30年(1955)ごろまでは、周辺の製材工場の木材が水面に浮かぶ光景がみられましたが、砂町が工業地帯から住宅地へと変貌をとげると、運河としての役割も終わり、昭和55年(1980)に埋め立てられ、親水公園として生まれかわりました。
 平成10年(1998)3月 江東区教育委員会


                       開発当時の砂町運河(正面は福島橋)


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