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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区富岡1-20-3
 (富岡八幡宮)

東京都無形民俗文化財指定
江東区無形民俗文化財登録
 木場の木遣り 



 「木場の木遣り」の発祥は古く、現存の文献によれば、既に慶長初期の昔に行れている。当時、幕府のお船手の指図で、伊勢神宮の改築用材を五十鈴川より木遣りの掛け声で水揚げをした、とある。元来、神社仏閣の鳥居や大柄な用材を納める場合には木場木遣り特有の「納め木遣り」が用いられ、保存会により今日に伝えられている。
 元禄の始めには、武家屋敷の並ぶ両国の七つ谷の倉の間部河岸という所で3代将軍家光公に筏の小流し(さながし、筏組)、角乗り、木遣りをご覧に入れ、以後年中行事となった。この時、川並みという言葉が発祥したと伝えられる。
 明治12年(1979年)、米国のグラント前大統領が来日の際に、木遣りは角乗りと共に上野の不忍池で天覧の栄に浴している。
 江戸の昔より正月2日から7日に掛け木遣りにて初曳きし、材木屋さんに売り捌くのを年中行事としていた。

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所在地 江東区越中島 ~ 中央区

  相生橋あいおいばし

 相生橋は、隅田川の派川に架かる橋で、1903年交通の便と月島に水道を導くために、架けられました。橋の名前は、永代橋に相対する橋として名付けられました。その後、東京湾口に埋立地が造成されるとともに、勝鬨橋佃大橋などが架けられ、名前もその意味を失っています。

 1926年に架けられた橋は、1999年にトラス橋に架け替えられました。



所在地 東京都江東区清澄2-12-12

  深川七福神 布袋尊

 深川稲荷神社は、寛永7年(1630)の創建と伝えられています。
 以前は、旧町名の西大工町にちなんで俗に西大稲荷と呼ばれていました。関東大震災(1923)の後の区画整理により町名が変更し、昭和27年(1952)頃から深川稲荷神社となりました。
 深川七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。



所在地 東京都江東区常盤1-6-8先

 旧新大橋は元禄6年(1693)12月、この地先の墨田川に架設起工し52日間で完成し長さ百間幅員三間七寸あり当時橋名は両国橋を大橋と称していたので、この橋を新大橋といった。近くの深川芭蕉庵に住んでいた
芭蕉は新大橋の工事中
 初雪や かけかかりたる 橋の上
の句をよみ、また橋の完成をみて
 ありがたや いただいて踏む 橋の霜
の句をよんだ。

  昭和33年(1958)10月1日 江東区


所在地 江東区常盤2-12~14

 <二代目中村芝翫(しかん)宅跡>江東区登録史跡

 歌舞伎役者の二代目中村芝翫は、寛政8年(1796)江戸下谷に生まれ、嘉永5年(1852)2月17日に57歳で没しました。
 はじめ舞踊家で初代藤間勘十郎の門人(のち養子)になり、藤間亀三郎を名乗りました。その後、江戸で出演中の三代目歌右衛門の弟子になり、文化10年(1813)に中村鶴助と改名、文政8年(1825)には二代目中村芝翫を継ぎました。屋号は成駒屋です。舞台では、立役(たちやく)、実悪(じつあく)、女方(おんながた)、武道(ぶどう)、荒事(あらごと)など、さまざまな場面で活躍し、天保7年(1836)には、四代目中村歌右衛門を襲名しています。


    二代目中村芝翫「義経千本桜」(国立劇場蔵)

 二代目中村芝翫は、天保のころこの辺りに住んでいました。そのため、小名木川に面してあった河岸は「芝翫河岸」と呼ばれました。天保2年(1831)に江戸の中村座で「六歌仙(ろっかせん)」を演じた時、喜撰法師(きせんほうし)(六歌仙の一人)の歌詞をひねって、
「我が庵は芝居の辰巳常磐町、而も浮世を放れ里」
と住居付近の様子をおりこんでいます。

  平成14年(2002)11月 江東区教育委員会


所在地 東京都江東区佐賀2-1

 上之橋(かみのはし)は、江戸時代から仙台堀の佐賀町河岸通りに架る橋として、大きな役割を果たしてきた。中之橋、下之橋とともに、佐賀町を上佐賀、中佐賀、下佐賀に分ける橋であった。
 本橋は、昭和5年(1930)震災復興事業により架設され、昭和59年(1984)、清澄排水機場建設に伴い撤去された。ここに橋名を刻んだ親柱4本を保存し、橋の歴史を永くとどめるものとする。

  昭和61年(1986)11月 江東区



所在地 江東区常盤1-1-2

御祭神 宇迦之御魂命うかのみたまのみこと
例祭日 5月牛の日



 創立年月は詳ではないが、当地の鎮守の深川神明宮の摂社または末社とも伝えられる。万年橋際に鎮座していたことから万年橋稲荷とも称されていた。腫れ物の治癒に霊験あらたかで、その祈願には全快までそばを断ち全快すればそばを献じる。
  江東区



  正木稲荷由来碑



 近年柾木稲荷が正木稲荷に改められ、祭神は宇迦魂命(うかのみたまのかみ)と応神天皇を祭り、例祭は毎年二月初午の日である。
 創立は年代不詳、江戸時代古くより当社はあったようである。為永春水著「梅歴」の挿絵に当社が描かれ、奉納の幟に「柾木稲荷大明神、天保五年(一八三四)二月初午等」と書かれ名の知れた稲荷社であった。
 当社は江戸切絵図「本所深川絵図」に『マサキイナリ』と記載されている。この絵図は文久二年(一八六二)版である。また江戸名所図絵では「真先稲荷明神社」とも稱されている。江戸には稲荷社もっとも多く、この絵図には著名な稲荷社だけが記されている。当社はその一つであった。
 昔は柾木の大木があったので、この社名がつけられた。隅田川から小名木川へ入る目標として尊重されていた。また子供が柾木の葉を丸めてピーピー鳴らしていたのである。またその葉が腫れ物によくきいたともいわれている。その祈願には全快迄「ソバ」を断ち、全快すれば「そば」を献じて報賽する信仰があった。
 柾木(柾)はニシキギ科の常緑低木で、高さ三メートル、海岸近くに多く育ち庭木生垣用になり、葉は厚く滑らか、長楕円形、六月頃淡緑色の四弁花をたくさんつける。実は球形、開いて赤色の種子をだす。
 小名木川の水路は行徳(千葉)の塩を直線コースで江戸に運ぶため天正十八年(一五九〇)水路が開かれ、江戸が世界一の人口になるにつれ重要な河川となり、寛永六年(一六二九)現在の河幅に開さくされ、船舶取締りのため当社の隣に船番所が設置された。寛文元年(一六六一)船番所は大島九丁目の小名木川と中川の交査する場所に明治維新まで置かれた。
 また当初の近くに芭蕉庵があって大正十年十一月東京府が芭蕉翁古池の跡とし旧跡に指定した。しかし昭和五十六年この旧跡は芭蕉記念館に移転した。
 江東区の地図にも当社は記載されており、昔より町内持(維持経営)である。

  永代信用組合
     組合長 山屋幸雄

 正木稲荷神社
  総代   堀内一雄
  仝    塙政治郎 
  仝    木村清一
  仝    秋田勝郎
  仝    飯田直吉
  世話人  佐藤重次
  仝    宮内敏■
  仝    村垣芳康
  仝    飯塚勝
  仝    河野与七
  仝    山崎渡■平
  仝    山平典正
  仝    進藤一一
  仝    伊瀬吉之助
  仝    幅治策
  仝    右島章次
        市村保
        市村祐■
        栗城謙吾
        堀内重信
        北村正昭
        新田義久
        大江成人
        杉本重盛
        柳川秀重
        佐藤純人
        関口昌志
        塙鷹一
        塙市郎
        山形順治
        岩館武
 鮒■    藤田千代
 三番組  杉江隆
 碑文    細田隆善
 仝書    伊藤義男
 仝刻    中澤義男
    中央信用金庫
深川めし本家 みや本

 
      平成七年五月吉日建立


  正木稲荷の由来碑



かつて深川元町万年橋北側に柾木の大樹あり、その樹にほど近い隅田川の中州上に当社「正一位稲荷大明神」存す。
時の移る中、大樹朽ち、当社も幾多の変遷を経るが、当社ふるくから「腫物に効くおできの神様」との名高く、寛政10年(1798)、昭和6年(1917)の文記にも当社の名が見られ、文政10年(1827)6月16日には曲亭馬琴の妻女お百も「腫物平癒」の願かけに参詣の記録あり。昭和初期の祭礼には下町情緒豊かに、花柳界の「キレイドコロ」が人力車を連ね大変賑わっていた。
 ぴいぴも売れる柾木の御縁日
 陸奥米の籾の間に稲の神
 柾木のぴいぴい吹きながら野掛也
ご当社を読む句も残っている。
戦災後、先代三木常正宮司はじめ地元秋田勝三郎、飯田源次郎、塙善之助各氏世話人となり社殿復興す。そして平成2年(1990)の今日玉垣御社殿改修に際し、崇敬者の賛同を得て現状の整備を成す。
 平成2年(1990)5月吉日建之

 宮司         三木理代
 責任総代 堀内一雄
   仝    塙政治郎
 大善跡目 塙鷹一
 六区三番組小頭 杉江隆
 十代目石幸 中沢義男


所在地 江東区清澄1 ~ 中央区

 < ケルンの眺め >

 ここから前方に見える清洲橋は、ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。
 この場所からの眺めが一番美しいといわれています。



 < Kolner Aussicht >

 "Kiyosubashi",die Brucke von Kiyosu im Vordergrund, wurde nach dem Vorbild derden Rhein uberspannenden Hangebrucke von Koln gebaut. Dieser Standort ist fur seine  besonders schone Aussicht bekannt.


所在地 江東区清澄1-8先

  < 明治維新百年記念 >

明治天皇御製

いかならむ 時にあふとも 
            人はみな
誠の道を ふめとをしへよ

    明治神宮権野宮司 伊達巽謹書


所在地 江東区清澄2-12-12 (深川稲荷神社)

 < 明治百年記念碑 >

深川稲荷神社は祭神宇賀魂命にて 寛永7年(1630)の創立にして当町会の地域が古い町であることを示している 大正12年(1923)の大震災後の区画整理により町名が一変した 清住町西大工町伊勢崎町の各一部を合併して清澄町2丁目が出来た 清住町は寛永6年(1629)弥兵衛という人が開発し弥兵衛町と称したが 元禄8年(1695)清住町と改めた 西大工町は慶長のころ海辺新田といい 小名木川の河港として栄えたところで舟大工が多く住んでいたので深川海辺大工町とも称されたが明治6年(1873)西大工町と改められた伊勢崎町は元木場の一部で神田京橋の材木商の貯木場であり又川舟組の住居もあった 当町の半分は幕末まで久世大和守の屋敷であった 明治初年頃には近代郵便制度の創始者前島密が住んでいた 明治13年(1880)岩崎弥太郎がこの地を入手して深川親睦園を造り名園とした 之が現在の清澄庭園である 大震災後当町に属する所は埋立られ市街地となった 現在三野村合名会社の附近は幕末から明治初年(1868)三井家の代表として財界に活躍した三野村利左ヱ門が住んだ邸宅の跡である 中村学園は中村清蔵が明治38年(1905)小名木川畔に開校し明治時代深川に於ける女子教育の唯一の学校で大震災後当地に移転した ここに明治百年を記念して当町の沿革を記し早くから発展してきた由緒ある町であることを伝えるものである

  昭和43年(1968)11月 清澄町二丁目自治会


この記念碑は明治100年を記念して菅沢運勇氏(当時町会長)の提唱により町会役員並に町会員各位一同の協力により建立した。石材は福島県三の輪山(安達太郎)麓の土湯荒川石を搬出したもので明治神宮權宮司 伊達 巽殿の揮毫による明治天皇御製であり、この御製を当町会の全員で元旦の祝賀式その他総会等町会の皆さんが集まる機会のある度に必ず合唱し明治時代を忍び将来の私共の指針として心に刻むと共に後世に伝えるものである。
総工費¥364,000 で町会役員及福島県安達町の菅沢伝氏並に町の方々の奉仕により総て実費で完成した。

昭和43年(1968)11月3日除幕式当時の町会役員
町会長 菅沢運勇
副会長 谷田貝三之助 亀本時男
会計 石塚豊治
役員 田村千代治 飯高勝次 牧野松三 堺喜三郎 牧野治郎意 石福善治郎 深谷真平 伊林庄蔵 倉持忠造 戸井田富雄 芦沼幸太郎 谷田貝いちの 菅沢けさの

このプレートは田村千代治氏町会役員勇退の節寄贈されたもので昭和53年(1978)9月プレート作製時の町会役員
町会長 石塚豊治
副会長 堺喜三朗 牧野治郎意
会計 菅沢運一
役員 亀本時男 石福善治郎 倉持忠造 伊林庄蔵 菊地一三 深谷真一 田村通敏 石塚なを子 堺綾子 石福君子

     江東区 清澄一丁目会

※ 昭和43年時「堺喜三郎」が昭和53年時「堺喜三朗」と記されるがプレート原版の通りである。


所在地 江東区新大橋3-1 八名川公園

 六間堀は、深川村開拓当初、小名木川と堅川を結ぶ水路として開けたようです。名称は、川幅が六間(約10.8m)あったところから付けられたもので、地元にとって重要な河川でした。
 しかし、水運利用の減少によって、昭和26年(1951)に埋め立てられました。六間堀の跡は、道路と宅地になっていますが、歩いてみると、当時堀割であった頃の様子が、よくわかります。



所在地 江東区清澄1-2-1(読売江東ビル)

 平賀源内は享保13年(1728)高松藩小史の家に生れ和洋の学を勉強し物産館の開設、毛織物の試作、源内焼の製陶、石綿布の創作利用、水準器寒暖計の創作等かずかずの発明工夫をなし、かつ神霊矢口渡の戯作者(げさくしゃ)でもある。平賀源内は、わが国最初の電気学者にして安永5年(1777)エレキテルを完成し、この付近深川清住町現在の清澄1丁目私宅において電気実験を行ない安永8年(1780)51歳にて没した。

  昭和51年(1976)1月16日 江東区 第31号


所在地 東京都江東区常盤

 川船番所(かわふねばんしょ)は幕府により設けられた番所で、万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査しました。
 設置の年代は明らかではありませんが、正保4年(1647)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられています。江戸から小名木川を通り利根川水系を結ぶ流通網は、寛永年間(1624~1644)にはすでに整いつつあり、関東各所から江戸へ運ばれる荷物は、この場所を通り、神田・日本橋(現中央区)など江戸の中心部へ運ばれました。こうしたことから、江戸への出入口としてこの地に置かれたことと思われます。建物の規模などは不詳ですが、弓・槍がそれぞれ5本ずつ装備されていました。
 明暦3年(1657)の大火後、江戸市街地の拡大や本所の堀割の完成などに伴い、寛文元年(1661)中川口に移転しました。以後中川番所として機能することとなり、当地は元番所と通称されました。

  平成14年(2002)10月 江東区教育委員会


   「日本分国図」(正保国絵図写) 武蔵国図〈部分〉
            国立公文所館内閣文庫蔵


所在地 江東区常盤1~江東区清澄1,2
 
 万年橋は、江東区内の橋のなかでも古く架けられた橋のひとつです。架橋された年代は明らかではありませんが、延宝8年(1689)の江戸図には「元番所のはし」として記されていたことがわかります。



 江戸時代には、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取締る、通船改めの番所が置かれていました。この番所は、寛文年間(1661~1673)の頃に中川口へ移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれました。



 小名木川に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられていました。万年橋も虹型をした優美な橋で、安藤広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」としてとりあげています。また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響をうけた錦絵を残しています。


   葛飾北斎作・富嶽三十六景 深川万年橋下


所在地 江東区常盤1-3-12 (芭蕉稲荷神社)

奥の細道旅立参百年記念碑
 平成元年(1989)五月吉日
  芭蕉遺蹟保存会 会長 堀内一雄


所在地 江東区常盤1-3-12 (芭蕉稲荷神社)

  『 史蹟 芭蕉庵跡 』 大正10年(1921)指定

 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年(1680)から元禄7年(1694)大阪で病没するまで、門人の杉山杉風の生簀の番屋を改築して芭蕉庵として住んでいました。ここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音〔貞享3年(1685)春・芭蕉庵・詠〕」等の名吟の数々を残し、またここより全国のの旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
 ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
 たまたま大正6年(1917)津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、大正10年(1921)東京府は常盤1丁目を旧跡に指定した。
 昭和20年(1945)戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和30年(1955)復旧に尽した。
 しかし、当初が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。
  昭和56年(1981)3月吉日 芭蕉遺蹟保存会


                        江戸名所図会より


所在地 江東区常盤1-6-3

 新大橋と清洲橋が望める隅田川のほとり、松尾芭蕉が庵を結んだゆかりの地に、この芭蕉記念館は建設されました。ここには、芭蕉研究家からの寄贈品を中心に、芭蕉関係の貴重な資料が展示されています。また、研修室(和室)は俳句や短歌を楽しむ人たちに利用されています。




 庭園には、池や滝、芭蕉の句に詠まれた草木が植えられ、築山にほこらと



「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
の句碑があります。
     芭蕉記念館




 別所に『分館史跡展望庭園』があります。


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