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東京都江東区の歴史
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所在地 江東区永代2-37-23

高野山真言宗
 瑠璃光山 萬徳院

 


所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  株於校庭永記光榮云碑
明治41年(1908)11月2日商舩学校擧第二十二回卒業之典是日勅賜物干優等生
東宮又台臨盖出奨励海事之聖意也生等不禁感激此栽櫻樹二百餘株於校庭永記光榮云
 明治42年(1909)4月1日
 日本郵舩株式會社内 青年同窓會


所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  商船教育発祥の地碑
碑文にある「商船教育発祥の地」の言葉については厳密に言えば霊岸島であり、この地は継承の地と言うべきである。
百周年記念事業としては永代橋袂に「船員教育発祥の地」の記念碑を建立した。
 昭和50年(1975)11月 東京商船大学百周年記念事業委員会




所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  精神不滅の碑
昭和19年(1944)8月戦局危急ニ迫リ一億国民憤激ヲ新ニシ彌ゝ戦意ノ昴楊ニ邁進スルノ秋本校亦倍ゝ敢闘精神ノ發揚ニ挺身スヘク同月二日折戸湾ニ五浬編隊遠泳ヲ決行ス此日天気晴朗ニシテ風浪アリ加之敷日来ノ豪雨ハ巴川ノ水勢ヲ湾内ニ奔流セシメ泳者皆之ニ若シム第二期生徒一学年高山茂邊見正則掘井良郎ノ三君初心ニシテ技未熟ナリト雖ニ入校以来修養セシ不屈ノ精神ハ敢テ落伍スルヲ潔トセス渾身ノ気力ヲ■ヒ力泳又力泳遂ニ最後ノ決線ニ近ツキシ時無念精根盡キ卒然伍間ニ■■■壮烈何モノカ之ニ若カン夫レ勇士ノ戦場ニ殪ル必シモ難ギニ非ス校庭ノ鍛錬ニ従容トシテ死闘ス真ニ清水精神ノ権化ニシテ其ノ烈ゝタル闘魂ハ當ニ富嶽ト共ニ欽仰スルニ足ル則チ茲ニ碑ヲ建テ敢闘ノ薫蹟ヲ銘刻シ其ノ気■ヲ後昆ニ傳ヘ以テ後進ヲシテ感奮興起セシメントス
 昭和19年(1944)11月1日
 清水高等商船学校長海軍中将松永次郎撰文
 宮内省依嘱六鵬沖和書


所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  第一観測台(経緯儀室または赤道儀室)
   八角形2階建煉瓦造 建坪8坪6合
明治35年(1902)霊岸島校舎より越中島新校舎に移転した後の施設充実の一環として、明治36年(1903)6月に建設され、航海用天体歴の研究用および航海天文学教授用として使用された記念建造物で、内部には、当時としては最新鋭の東洋一といわれた7吋天体望遠鏡(Theodolite)を備え、望遠鏡は分銅式によって天体の運行に等しい速さで回転するようになっていた。屋根の半円形ドームは手動で360度の回転が可能であり窓は二重になっていた。
昭和の初期までは時折り授業にも使用されたが、昭和10年(1935)頃以降は学生の同好会「天文部」部員の手により、天体の観測に利用されていた。昭和20年(1945)終戦直後、校舎を米進駐軍に占領された後、内部施設も撤去され、現在は望遠鏡の台座が残っているに過ぎないが、輸入煉瓦造りの八角形の建物は貴重なもとのされている。




所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

 第二観測台(子午儀室)
  八角形平家建煉瓦造  建坪8坪6合
明治36年(1903)6月第一観測台とともに建設され、内部には子午儀(Transit)を備え、天体の子午線通過時刻を精密に測定して精確な経度の測定をすること。およびその時の天体の高度から緯度を測定することなどが出来た。
昭和20年(1945)終戦直後、校舎を米進駐軍に占領された後、内部施設も撤去され、現在は台座のみであるが、八角形の建物で輸入煉瓦造りの現存する建物として貴重なものとされている。





所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  田副重右衛門招魂碑
逓信大臣従二位勲一等子爵榎本武揚篆類■故田副君墓表
君名重右衛門氏田副丹後宮津人性枕毅■言■■我那航運之不振夙入東京商舩学校昕夕勤勉泉成属望焉■業巳畢實習■有日矣明治十有九年十月七日君奮然乗英船将航米國遭■子支那海箪身■先上■架百方竭力防之不幸殞命■波間實享年■有七君嘗語余日航近海不若航遠洋言猶在耳忽■此赴音豈可不慟哭乎■雖然至其守■■職事■有與河海並存而不泯者■不偉■令茲同舩僚友等相謀■資刑之珉石以傳不朽君應瞑干地下矣余■不文以■故之誼書其略以表之
 明治廿一年(1888)10月
 宍戸 鎰拜 撰
 平戸 ■ 書





所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  明治丸
 本船は明治の初頭に、我国政府が英国に発注して建造した豪華な灯台視察船であった。明治6年(1873)にグラスゴー市のネピア造船所において建造が開始され明治7年(1874)11月に竣工、翌明治8年(1875)初頭に出港し同年2月、横浜港に到着した。建造当時は、2本マスとのトップスル・スクーナ型帆装鉄造汽船で総トン数1028トン、長さ73米、幅9米、機関は往復動汽機2基の双螺旋船、実馬力1530、平均速力11.5ノットを誇っていた。
 明治9年(1876)の夏、明治天皇は東北巡幸に際し、青森から本船に座乗され、函館経由7月20日無事横浜港に帰着された。「海の記念日」はこの日に因んで昭和16年(1941)に制定されたものである。当時の御座所跡は現在も残っている。爾来、本船は約20年間灯台視察船として活躍したが、明治29年(1896)7月、当時霊岸島にあった商船学校(本学の前身)の係留練習船として貸与され、その沖合(現在の永代橋下流)に係留された。翌30年(1897)11月、本校に移管された後3本マストのシップ型に改装され、明治34年(1901)12月、越中島のこの地に定係された。
 本船が商船学校の神聖な教場として活用されたのは昭和20年(1945)8月に至るまでの50年間で、この船を母なる船として巣立った海の若人の数は万余に達する。この間、明治44年(1911)および大正6年(1917)には来襲した猛台風による高潮で擱座したり、大正12年(1923)9月の関東大震災、さらに昭和20年(1945)3月の東京大空襲に遭遇するなど数々の試練や災禍に対しても、この地と共に耐えぬきその都度罹災者を収容するなど江東の人々からも信頼と敬愛を得てきた。
 終戦の年の9月、越中島の学舎と共に進駐軍に接収され、不幸にも本学の管理も出来ないままに荒廃し遂に昭和26年(1951)漏水のためポンド内に沈座するに至った。その後漸く接収が解除されるに及んで、これを引揚げ、昭和35年(1960)の本学85周年記念事業、さらに昭和50年(1975)の百周年記念事業の一環として、同窓有志や海運業界・海事諸団体等の芳志・支援によって本船復元の第一歩が踏み出された。
 明治丸は現存する唯一の鉄船(現在の船は総て鋼船である)であり、我が国造船技術史上の貴重な遺例として昭和53年(1978)5月、船としては初めて国の重要文化財に指定され、昭和55年(1980)4月から文化庁及び本学の協力により本船の保存修復及び基盤整備工事が行われ昭和63年(1988)1月に完工した。
 明治丸は、ここにその優美な姿を再現し、永久に保存されるとともに、その栄光の歴史が世々語り継がれることになった。









  繋留練習船明治丸記念碑
東京高等商船学校最後の生徒となった我々にとって忘れられぬ思い出は、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲の際歴史と伝統ある明治丸を守り得た事である
この度卒業55周年に当りこれを記念して碑を建て後世に残すものである
 平成12年(2000)9月25日
 東京高等商船学校航海科125期


所在地 江東区越中島2-1-6 (東京海洋大学 越中島キャンパス)

  明治天皇聖蹟の碑
明治3年(1870)9月8日調練 御親閲の為當越中島に 行幸遊はさる猶明治5年(1872)9月15日近衛三兵の操練を 天覧の為同6年(1873)12月9日陸軍練兵 天覧の為同8年(1875)6月7日海軍大砲試験 天覧の為 行幸あらせらる
 紀元2千6百年記念建設
 昭和18年(1943)11月3日竣成
 発起 梁川區町会聡合■
 協賛 東京都内国民学校児童
     東京都内中等学校生徒




所在地 江東区猿江1-1付近

 猿江船改番所跡
 猿江船改番所は、小名木川と大横川が交差する所の猿江側に、元禄から享保期(1688~1736)頃に設置されました。
 小名木川は江戸への物資輸送の重要な交通路であったため、とくに江戸の町を守る必要上、江戸時代の初め、万年橋北岸に通船改めの番所が置かれました。その後、中川口へ移転し、中川船番所として利根川水系や房総方面と江戸の間を航行する川船を取り締まっていました。猿江船改番所は中川番所とは別に、川船行政を担当する川船改役の出先機関として設置されたものです。
 幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入りする船には川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていました。そのため新たに船を造ったり、売買によって持ち主が替わった場合などは届け出が義務づけられていました。猿江船改番所の仕事は船稼ぎを統制することにあり、こうした年貢・役銀を徴収したり、川船年貢手形や極印の検査を行っていました。
 この他江戸市中では、浅草橋場(台東区)に同様の番所が設置されていました。
 平成6年(1994)3月 江東区教育委員会







所在地 江東区猿江1-11-15

浄土宗
 不虚山 当知院 重願寺じゅうがんじ





 重願寺には『関根正二墓』があります。


                            
みまもり観音


所在地 江東区猿江1-11-15 (重願寺)

  関根正二墓
 関根正二は、若くして世を去った天才的な画家です。
 明治32年(1899)に福島県西白河郡大沼村(白河市)で、9人兄弟姉妹の第4子二男として生まれました。明治40年(1907)に関根家は正二だけを残して上京し、正二も翌年上京して猿江に住み、東川小学校に通いました。大正元年(1912)に小学校を卒業すると、近くに住む伊東深水の紹介で東京印刷株式会社図案部に勤め、夜は夜間中学に通いました。翌年より、深水の勧めで画を描き始めました。
 大正4年(1915)、16歳の時、第2回二科展に「死を思ふ日」を出品し入選しました。以後、毎年二科展で認められ、第5回二科展で、「信仰の悲しみ」「姉妹」「自画像」が入選し、樗牛賞を受賞しました。
 若手の才能ある画家として、将来を期待されましたが、大正八年(1919)6月、肺結核のため、21歳の若さで亡くなりました。
 現在は、正二の姉の嫁いだ奥田家の墓に埋葬されており、戒名は「覚誉道順信士」です。
 平成8年(1996)3月 江東区教育委員会













所在地 江東区猿江2-5-14

 猿江稲荷神社
法華宗(本門流)本覚山妙壽院を務める猿江稲荷社は、「御府内備考」続編によりますと、その鎮守稲荷の御神体は「猿藤太木像」であります。
さらに縁起について、
 武州葛飾郡猿江村稲荷大明神略縁起仰稲荷大明神ト奉申ハ本地久遠成道ノ釈迦仏也
と記され、本地久遠成道の釈迦仏とは法華経に説かれた教主釈尊で、法華の題目によって祀られた稲荷社であったことがわかり、現在も氏子妙壽会をはじめ遠近のご信者の篤い信仰を集めております。
  法華宗本覚山 妙壽寺 (現在 世田谷区北烏山)













所在地 江東区亀戸2-6

 亀戸銭座跡
 この付近に幕府の鋳銭所がおかれ亀戸銭座と称し寛文8年(1668)から明和6年(1769)まで各種の寛永賽銭を鋳造しその銭のおもてには寛永通賽 うらには文の字のあるものや二十一本または十一本の波模様のあるものなどがある
 昭和33年(1958)10月1日 










所在地 江東区亀戸2-6

 日清紡績創業の地碑
 日清紡績株式会社は明治40年(1907)1月創立後、東京府南葛飾郡亀戸町の当敷地2万余坪に、最新鋭設備を誇る本社工場を建設した。
 最盛時には、紡機107、800錘、織機360台を擁した本工場は、昭和16年(1941)軍の要請により陸軍被服本廠が使用するに至るまで、45年に亘り主力工場として綿糸布を生産し、広く内外の需要に応えると共に、幾多の人材を輩出した。
 この間明治43年(1910)の三たび横十間川の洪水で浸水し、大正12年(1923)には関東大震災に遭ったが、従業員の献身的努力によりこの職場を守り得た。
 昭和20年(1945)大戦下の空襲により焼土と化したが、運動場として整備し主として勤労青少年の体育に寄与してきた。偶々昭和42年(1967)東京都浄水場、日本住宅公団用地として提供するに至り、当社の手を離れた。
 今般この地に記念碑を建立し会社創業関係者の遺徳と、生死苦楽を共にした多数従業員各位の功績を偲ぶものである。
 日清紡績株式会社 昭和46年(1971)5月建之









所在地 江東区亀戸6-1

 旧千葉街道跡碑
 江戸時代、千葉方面へ向かうには、「元佐倉道」と呼ばれた、旧千葉街道が重要なルートでした。今では堅川の北岸沿いに通じるひっそりとした細い通りです。
 この旧千葉街道は、本所から堅川の北岸に沿って東に進み、中川を逆井の渡しで越えて西小松川から一直線に小岩の関所に通じていました。
 公園のあるこの辺りは、見渡す限り、アシ原や田んぼの続く低湿地で民家はぽつぽつと点在するくらい。サギやツルの仲間をはじめ、日本の空から消えてしまったトキやコウノトリなどの大型の水鳥もたくさん住む、のどかな田園地帯でした。旧千葉華道から南を見渡せば堅川を越え、遠くに「さざる堂」で江戸中の評判を集めていた羅漢寺がありました。




旧千葉街道は両国橋から堅川の北岸沿いに東へ通じ千葉方面にいたり江戸時代から佐倉道と称し、江戸と千葉方面を結ぶ重要な陸路であったが明治時代からの市区改正事業などにより元愛の国鉄総武線に沿った新しい千葉街道が建設されるにいたった
 昭和33年(1958)10月1日 江東区第17号



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